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アトリエ白美「渡辺肖像画工房」 渡辺晃吉
- 平成14年10月31日(木曜日)
【晴】
子供の頃の我が家は、公園通りの西側に母屋、東側に染色工場とそれに付随した住まいの二軒あって、そのどちらかにいる時に、他の家を「向うの家」と呼んでいた。
ムコウノウチがムコンチになり、最終的にモコンチに落ち着いて、『コウちゃんいる?「モコンチ」にいるよ』と言った調子で近所でも立派に通用していたから不思議だ。
どちらも庭が広く、母屋の方には蜜蜂の巣が四群あったために、ほとんど毎日のように刺されていた。
工場の倉庫の奥にある乾燥室は、私を含めて近所の子供達の秘密の隠れ家であり、基地でもあったが、ぶどう糖の塊を詰め込んだ薦や、水飴の入った石油缶などが無造作に置いてある環境の方に魅力があったのかもしれない。
それらは勿論食べられるけれど、本来は糸染めのための原料なのだ。
大人達は見向きもしないが、拳大のぶどう糖の塊は、子供にとっては宝物だった。
まだ物資が充分に行き渡っていない時代であったのか、母が時々軒下に、水飴の缶を何個か出して臨時の店を開くと、表通りまで行列が出来る程人が並んだ。
なにしろ10円で飯茶碗一杯の水飴が買えるのだ。
今思えば、甘い物に不自由していた人達への粋な配慮だったのだろう。
母はそういうところのある人だった。
いや、母に限らず、あの頃の人達の多くは、他人の痛みを共有するのに、何の疑問も持っていなかったように思う。
見方を変えれば、お互いにいたわり合わなければ、生きていけない時代だったのかもしれない。
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- 平成14年10月30日(水曜日)
【晴】
渡良瀬川の河原は、砂と砂利がほとんど無尽蔵であった。
今は河原のほとんどが公園になっているので、往事の面影はない。
砂利取りは木製のふるいの中にスコップで砂利を入れ、鉄の丸棒の上で前後に動かして大きさを揃え、それを木箱に入れて運び出すのだが、真夏の炎天下での作業の様子を見ていると、大変を通り越して物凄いという以外に言うべき言葉がない程の仕事であった。
砂利の木箱は、頑丈な荷馬車に乗せて運び出す。
二列二段に積上げた箱の数は20個はあったろうか。
それを引く馬は、当然サラブレットであるはずがない。
足が太く、普通の馬より優に二廻りはでかかった。
その砂利を運ぶ先は分らなかったが、公園通りを行き交う荷馬車を、ただ黙って見過す子供などいるはずがない。
馬引きのスキを盗んで、なんとか馬車に飛び乗ろうと、色々作戦を立てるのだが、向うもプロである以上、おいそれとは出し抜かれない。
大抵は馬車に乗った途端に、手に持った鞭代りの篠竹でピシッと叩かれて、ベソをかくことになるのだった。
馬を引くオヤジの服装は、頭にタオルの鉢巻、襟なしのシャツに印半天、ニッカズボンに地下足袋というのが相場で、中にはゲートルに半長靴というのもいた。
大方は子供を目の仇する恐いオヤジだったが、それがまたスリルを生んで面白かったのだから、何をか言わんやというところか。
そういえば、馬グソという存在も街角から消えていった物のひとつになった。
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- 平成14年10月29日(火曜日)
【晴】
秋の深まりと共に、朝夕の冷え込みが少しづつきつくなってきた。
日暮時に延びる長い影を見ていると、子供の頃に遊んだ「影踏み」を思い出す。
空地いっぱいに散ばった子供達は、皆夕焼けに染まって輝いている。
いつも見慣れたはずの仲間の顔が、別人のように目に映る不思議な瞬間がそこにはあった。
やがて影は次第に長く延び切って、夕闇の中に溶け込んで消えていく。
表通りの電柱の外燈が点灯する頃になると、外気は冷たく身にまといついて遊びの終りを告げる。
まだ夜は浅いのに、物影には既に濃い闇が生まれて、わずかな道程の家路さえ、子供の足をおののかせる。
昼間は変哲もない場所が、闇と共に別の生物の住む世界となり、家の戸口をくぐり抜けるまで、子供達の背後でさんざめく。
夜の闇の中を歩く子供が、絶対にしてはならないのは後を振り向くことだ。
振り向けさえしなければ、闇の世界の住人達は、家の中までは追って来ない。
誰が決めたかは知らないが、このルールは不動のものだった。
かつて、闇は闇として確かな存在であっただけでなく、光もより光り輝く存在として夜を照らした。
銀河は四季を通じて空に在り、星々は大きく手近にあった。
あの頃の子供達は、皆魔法を信じ、魔力に憧れ、文字通り変身した。
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- 平成14年10月28日(月曜日)
【晴】
今は全くと言って良い程見ることはなくなったが、子供の頃の夕空はこうもりが無数に飛び交っていた。
普段はどこに住んでいるのだろうか、陽が落ちて辺りが薄闇に包まれると、どこからともなく飛んで来て空いっぱいに乱舞する。
長い竿の先に玉網を付けた罠を、何人かの仲間と一緒に空に投げ上げて捕獲しようと試みても、めったに成功しなかった。
それでも稀には捕まえられることもあり、そんな時には嫌がるこうもりの羽根を広げたり、頭を撫でたりした後に逃がしてやった。
あの頃は、うさぎやニワトリを飼っている家がかなりあり、エサの調達は大抵が子供達の役割だった。
夏はよく公園にうさぎのためのハコベを取りに行っていたが、冬はどうしていたのだろうか。
我が家のニワトリは、小屋もなくエサもないのに、いつも元気に近所を闊歩していた。
なにしろ家の屋根に軽々と飛び上がれたし、猫などかえって自ら襲い掛る程野生化していた。
しかしどういう訳か、自分の家の人間と他人との区別だけはついていたようで、私が呼び掛けるとすぐ近くまで来て、抱き上げてもおとなしくしていたが、友達が同じことをしようものなら、必ず手痛いしっぺ返しを食った。
そんな奴の天敵が、フジという我が家の犬で、いつの間にか姿が消えてしまったあのニワトリは、多分フジの腹に納まってしまったのだろうと、これは皆の出した結論であった。
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- 平成14年10月27日(日曜日)
【晴】
緑町を南北に貫く通称「公園通り」は、24時間人通りの絶えない通りだった。
緑町一丁目と二丁目を区切る両毛線の南側には、かつて「日紡足利工場」と「日本ゴム」という大きな工場があり、そこで働く人達の列が「公園通り」を埋め尽すのだ。
あの頃の勤務体制は三部交代の昼夜敢行というものであった。
ほとんどは徒歩か自転車での通勤で、勤務明けの人達の流れと、出勤する人達の流れが、さほど広くない通りで器用にすれ違って行く様子を、通りに面したいつものたまり場に集った近所の仲間と眺めるのが日課となっていた。
あの頃、早朝と夕方には必ず靄が立ち込めて、辺りが乳白色に包まれた。
自然現象としての靄もあったろうが、大抵は全ての家の台所の煙突から上がる炊事の煙が辺りに漂うためでもあった。
それは独特の香りを持っていて、その香りの中に立つと、誰もが同じイメージを胸の内に育てたはずであった。
染色業が家業の私の家の庭は、仕事の性格上かなりの広さがあり、しかも大通りから束に入る裏道の奥にあったことで、子供達にとって又とない遊び場でもあった。
だから夕方になると文字通りの「◯◯ちゃん御飯だよ」の声があちこちから呼び掛けてくる場所であった。
呼ばれた子は、少し悔しそうな顔で「あーばーよー、またあした」とか「グッバイ」とかの挨拶を残して、各々の家に帰って行くのだった。
あの少し焦臭い靄の香りはもう立ち込めることはない。
吹く風が目に見えた頃の風物詩のひとつである。
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- 平成14年10月26日(土曜日)
【曇時々雨】
秋が深まり、山全体が黄色や赤に色付いてくると、椎の実が食べ頃となる。
公園山の椎の森には、ほんのり甘く胡桃のようなコクを持った実を目指して、近所の子供が集まって来るのだが、この実を穫るためには、太い幹を登って枝の先まで行かなければならないため、大抵は長い竹竿の先を割り、棒をはさんで底を広げて、枝の先をはさんで穫っていた。
私は木登りに自信があったので、直接収穫して下で待つ仲間に投げ落してやったものだ。
椎の実の表面を包んでいる皮が弾けて、茶色く色付いたピストルの弾のような実が顔を覗かせると、ちょうど食べ頃となる。
皮を剥し、歯で半分に割って中の白い実を穿り出して食べる。
一枝には2〜3人の子供が食べるなら充分な程に実が付いているので、熟した順に収穫していけば、けっこう長い間楽しめるし、よちよち歩きのチビ達や女の子は、自然に落ちた実を集めるという、まるで縄文人のようなやり方で収穫していた。
誰もがつましく暮していたあの頃の子供達にとって、椎の実や山栗などは又とないおやつであった。
椎の森は東に向いた斜面に広がっていて、その下を通る遊歩道(まるで山道)との境にある1m程の崖には、土蜂の巣がいくつかあった。
私の兄は土蜂の子を穫る名人で、近所の駄菓子屋で1枚1円で売っていたかんしゃく玉を買い溜めて、手製のダイナマイトを作り、夜になると真暗な中でそのダイナマイトを仕掛け、巣を爆破して逃げ帰って来る。
翌朝まだ薄暗い内に起きだして現場に行くと、白い蜂の子の入った巣が辺りに散ばっている。
これを用意した竹カゴに入れて家に駆け戻るのだ。
なぜ駆け戻るかと言えば、現場のすぐ下にある八雲神社(ちなみにこの神社は森高千里の渡良瀬橋の歌にある神社)の神主の目を逃れるためだった。
あの時代は、多くの悪ガキ共にとって天敵のような恐い大人が、必ず何人かはいたものだ。
神主のS先生は、その筆頭のような存在で、昨夜の騒ぎの張本人が、他ならぬ我々兄弟であることが発覚しない内に逃げ切ることが絶対に必要なのだ。
家業を持つ家の朝は目が廻る程忙しい。
子供の一人や二人が、朝のちょいの間姿が見えないからといって誰も気にはしない。
そこがこっちの付け目なのだ。
蜂の子はその日の午後に、香ばしい醤油味のおやつとなって、多くのガキ共の腹に消えた。
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- 平成14年10月25日(金曜日)
【曇のち晴】
新水園のことを、地元の人間はシンスイエンとは決して言わない。
もしそんな言い方をする者がいれば、その人は間違いなく他国者なのだ。
地元では短くシンセンと呼んでいた。
シンセンの北を走る両毛線の柵に沿って、製材前の丸太が積み上げられており、辺りはいつも木の香りがしていた。
入口の向い側に柳の木が一本と、小さな平屋の赤提灯の店がある。
噂ではこの店の奥で、時々賭場が開かれているのだという。
両毛線を渡るには、シンセンの東と西にある踏切を通らなければならないが、子供達はそんな面倒なことはしない。
各々が自分の出発点から最短距離を踏破して来るために、大抵は線路を横断しなければならない。
今とは違い、あの頃の大人は、子供のそうした行動を目にすると、決して黙認してはくれない。
従って見付かれば必ず大目玉を食らうことになるのだが、こっちだってその辺は承知の上なので、見付かるようなヘマなどはほとんどないのだ。
そのすばしっこさは、野良猫と良い勝負である。
そんな毎日だから、きれいな服を着ているなど、絶対と言う程あり得ない。
今の人が見れば難民の子供達よりも酷い有様だったと思う。
とにかく親も呆れて、服装についてはどんな状態でも文句を言うことはなかった。
その代わり、毎晩の風呂は拷問と大差がなかったように思う。
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- 平成14年10月24日(木曜日)
【曇】
新水園は、場末の映画館を絵に描いたような劇場であったが、映写機だけは市内で一番良いのが入っていたので、画面は意外に鮮明であったのを覚えている。
入場料は小学生が10円という安価なものだったので、なんとか小遣でも賄えたが、あの頃一日10円の小遣を貰える子供は、四人に一人位だったろうか。
大抵は5円か、中にはおやつだけしか貰えない子もいた。
それでも入れ替えの周期が一週間なのが幸いして、界隈の子供達のほとんどが、週一の映画鑑賞の恩恵に浴せたという訳だ。
しかし例外はどこにでもあるもので、毎日一緒にいる仲間の中には、家の事情でとても映画どころではない奴も必ず何人かはいたのだった。
そんな奴等のための抜穴が一ヶ所だけあったが、その抜穴を通って園の中に潜り込むには、少し危険を犯さなくてはならなかった。
劇場の隣の製材所を通り抜けて、南を流れる川に出れば、人にとがめられずに園内に入れ、あとは便所を通って館内に潜り込めるのだが、製材所の中を川に抜けるのが極めて難しいのだ。
所内は製材のための機械類が唸りを上げている上に、部外者の出入り、特に子供の立ち入りを厳しく監視していたので、余程の覚悟と幸運を味方に付ける必要があった。
木っ端やカンナ屑が散ばる床の上を、ほとんど這うようにして、物影から物影へと進んで、川に面した壁に空いた穴から外に転がり出てしまえばこっちのもので、あとは園内の遊園地を抜けて、館内に通じている便所に入りさえすればよいのだ。
信じられないが、仲間の一人に、この方法の名人がいて、私も一度そいつと一緒に、製材所からの侵入を経験したことがあったが、あんな面白い経験はめったに出来ない程、スリルと冒険に満ちたものであった。
その時観た映画は、水の江ターキーの「狸御殿」だった。
大きな銀の皿に乗ったニワトリの丸焼きが、それを運ぶ女の人の動きにつれて、湯気を立てながらプルプルと揺れているアップの映像を、生唾を喰み込みながら食い入るように見つめていたのを今でも忘れない。
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- 平成14年10月23日(水曜日)
【晴】
家のすぐ近くにあった新水園という映画館は、それ以前には室内プールやミニ動物園、無料の遊園地などを備えた、今で言えば総合レジャーランドであった。
劇場は当然映画だけではなく、芝居も出来るように舞台もあって、私は記憶に無いが、地方巡りの劇団や浪曲などの出し物で、けっこう賑っていたそうである。
市内で一番最後にフィルムが巡ってくる関係で入場料がとても安く、子供の小遣で充分に入れたのが魅力であった。
館の入口に向って左の壁には、その当時の映画館ではお定まりのスチール写真がウインドウの中に飾られて、道行く人の関心を誘っていた。
入口は時代劇に出てくる関所の門のような作りで、外観からは映画館の雰囲気は得られないのが、かえって面白い。
入口を入ると右側にキップ売場があり、そこから劇場の入口までは石段を下って行かねばならなかった。
石段を降りた正面の売店を横目で睨みながら右側の扉を開けると、そこはもう館内になっている。
座席は木製の長椅子で、床はコンクリートの打ちっぱなし。
少し傾斜がついているのと、スクリーンが高い位置にあったために、後の座席でもなんとか画面を観ることができた。
正面に向って左側が便所の入口で、右側に喫煙室というのがあったが、そこでタバコを喫っている人を見たことがなく、大抵は映画を観飽きた子供達の遊び場になっていた。
場内の後部右側にも小さな売店があり、いつも灯がついていたので、怪談やおばけ映画を観る時には、なるべく売店の近くの席に座った。
あの頃は家に客が泊まると、夕食の後によく家族ぐるみで映画館に行った。
精一杯の客への振舞だったのだ。
いつだったか、親戚の叔父さんが泊まった夜に、いつものように近くの新水園に出掛けた。
昔の子供にとっては、夜7時過ぎは真夜中も同じで、その夜も私は睡魔と尿意に必死の戦いを挑んでいたが、ついに我慢の限界を越えてしまった。
その夜は立ち観の人が後部や左右の通路にまで溢れていて、その人垣を掻き分けて便所に辿り着く自信はとてもなく、そうかと言って映画に夢中になっている大人達に声を掛ける勇気もなかった。
そんな子供に出来ることはただひとつ、私は周囲に気を配りながら長椅子の下に潜り込んで、なるべく音を発てないように注意して放尿した。
だが、まだ出切らない内に前の座席のオバさんが「あれ何これ、オシッコじゃない。やだぁ、誰かオシッコしてるぅ」
出切っていたらなんとかごまかせたのだが、まだその最中だったのが不運であった。
現行犯逮捕となり、父親には打たれるは、お袋は皆に謝るはで、もう映画どころではなかった。
更に不運なことには、その一部始終を近所の悪ガキに目撃されていた。
翌朝、近所中でこのことを知らない者はいないというので、朝からお袋は怒りっぱなし、ようやく学校に逃げてくれば、教室に入ったとたん、黒板の「小便野郎」という大文字が目に飛び込んできた。
それ以来しばらくの間、新水園に入る時にキップ切りのオバさんの「オシッコしちゃダメだよ」の声を背中に投げられた。
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- 平成14年10月22日(火曜日)
【晴】
旅芸人ザンパノと薄幸の女ジェルソミーナの物語は、当時の日本中の人達の心を捉えて放さなかったと言っても言い過ぎではないだろう。
敗戦の荒廃が生々しいイタリーの風土と、ザンパノのすさんだ心とが皮肉な調和を生んで、同じ敗戦の荒廃がまだ癒えぬあの頃の日本人に、強い共感を持って迎えられたのかもしれない。
それでも、モノトーンの少しざらついた画面に映る外国の風景は、まだ幼かった私にとっては、やはり限りなく美しかった。
ザンパノの乗る三輪車は、本人が米国製だと自慢しているところをみると、多分ハーレーダビットソンだろうか。
クッションがふわふわしていて、いかにも楽チンそうであった。
結婚式に呼ばれて芸を見せていた二人が、食事を振る舞われる場面があるのだが、その量の多さと、それに喰い付くザンパノの食いっぷりに、思わず生唾を飲んだ。あれはマカロニと鶏肉だったと思う。
それもかなり太くて長く、大皿に山盛りのそれを、ザンパノと賄いの女性が、ほとんどワンショットの間食い続けるのだ。
旅先で恨みを持つ綱渡り芸人と偶然出くわし、その男を殺して逃げる時は、ザンパノの心に沸き立つ罪悪感が、まるで匂いがあるかのように観客席に伝わってきた。
それが起因となって、次第に狂気に近付いていくジェルソミーナを捨てて逃げるザンパノの運転する三輪車は、まるで敗軍の兵のようであった。
時が経ち、ジェルソミーナの死を知ったザンパノが、夜の海岸で泣き崩れるラストに、当時の大人達がどれ程心を打たれたか、夜毎、その話題に熱中する大人達の声を聞きながら床に就いた私には痛い程伝わってきた。
その映画は「道」という題名であった。
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- 平成14年10月21日(月曜日)
【雨】
子供の頃の映画館には、冷暖房の設備はおろか充分な換気設備さえなかった。
その上今と違って、大抵は立ち観ができる程の超満員であったために、酸欠状態や軽い一酸化炭素中毒で気分が悪くなる人が必ず出たものだった。
一応禁煙のサインはあったが、誰も守らない結果、映写室からスクリーンまで、銀色の光の帯が観客の頭上に踊ることになる。
あの頃は、上映中によく観客の呼び出しアナウンスがあった。
大抵は自宅からの電話呼出だったが、稀にはちゃっかりとタダ観を決め込む奴が、館内にいる知人に会いに来たという理由で呼出をかけてもらうというのもあった。
余程間が悪くない限り、でたらめの住所氏名だから、いくら呼んだって出ては来ない。
すると案内のおネエさんは「自分で探してちょうだい」と突き放してくる。
こうなれば占めたもので、さも面倒くさそうな顔をしながら中に入り、そのまま映画を楽しむという寸法である。
タダ観には買物作戦という手もよく使われた。
この方法は、予め4〜5人の仲間との事前の打合せが必要で、普通は上映の合間の客の動きが活発になる時間帯を狙って、映画館の近くの店に買物に行きたいと頼むのだ。
だめと言うキップ切りの人はまずいないので、とりあえず全員で外に出て形ばかりの買物をすると、隠れていた仲間も一緒に涼しい顔をして館内に戻るという作戦である。
これは全てその当時耳にした話で、私自身は一度も実行したことはない。
今思えば、館の人はこっちの腹など知り尽していたのではないだろうか。
ろくな小遣もない若者への贈物のつもりで、騙されたふりをしていただけなのかもしれない。
貧しかったが、まだ人の心に温もりと潤いがあった時代の、ささやかな反骨である。
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- 平成14年10月20日(日曜日)
【曇】
画室への道すがら、廃校になったI小学校の前を通ると、映画のロケをやっていた。
いかにもそれらしい雰囲気の若いスタッフが、校門から出て来たのでそれと分った。
画室に着いてからそのことを息子にメールしたら、早速現場に出掛けたらしい。
撮影は菅原文太と女子中学生を演じる少女とのからみらしく、校舎の三階のガラス窓が割られる現場に出くわす場面などが撮られたようであった。
息子がロケ現場に駆けつけた理由は、単なる野次馬としてではなくて、機会をみてスタッフの誰かに、アトリエ白美のロケーションを、それとなく伝えるためだったのだ。
長時間現場に居座った末に、とうとうスタッフの一人に、「レトロなロケーションが必要なら、大沼田にアトリエ白美という、築150年の農家がありますよ」と話し掛けるのに成功したという。
そのことをいつか思い出して、ロケに使ってもらえる可能性を作ったという点では、まさに執念の勝利といえるだろう。
多分、それ程遠くない日に、テレビを含めて何らかの取材対象になるのは、様々の理由で実感しているのだが、その時に上手く対応出来るかどうか、全く自信が無い。
なにしろスケッチの現場を見学されるのさえ、あまり好きではない方なのだ。
夕方画室前の街道を通るハイカーが立ち止まり、「ここですよ。肖像画を描いてくれるアトリエは」と、連れに話している声を聞きながら、この画室が映画に出たらどんなに良いだろうと真剣に考えた。
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- 平成14年10月19日(土曜日)
【曇のち雨】
ファドという名の魂を揺さ振る音楽に出会ったのは、フランス映画の「過去を持つ愛情」だったと思う。
今までに聴いたこともなかった切々とした調べが、画面から流れてきた時、子供の私でさえ、心が震えたのをよく覚えている。
後に、それがポルトガルのファドという音楽で、題名は「暗いはしけ」、アマリア・ロドリゲスという歌手が歌っているというのを知った。
その時、ファドは人生の様々な体験を経た女性だけに、唄うことが許されるという話を聞いた。
ヨーロッパで最も有名な巡礼路のサンチャゴ・デラ・コンポスティエラは、フランスを起点にピレネーを越え、スペイン北部をポルトガル国境近くまで進む、全長1,200km余の、文字通り生命懸けの路であるという。
その先のポルトガルという国は、ヨーロッパ人にとっては、やはり地の果てなのだろうか。
不貞の妻を、その相手と共に射殺した男が、逃亡の果てに辿り着いた地ポルトガルで、やはり過去を持つ女性と出会い愛し合うという、見方によればおざなりな話なのだが、戦争に起因する悲劇というところが、時代の共感を生んだのだろうか、今も観賞したい映画の一本である。
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- 平成14年10月18日(金曜日)
【雨のち曇】
友人のTとは、小学校3年生のクラス変えで別れて以来、中学1年でまた同じクラスになるまでの間、ほとんど交流はなかったが、札付きの悪の一人として、その評判をしばしば耳にしていた。
しかし、再会したTは評判とは全く違って、朝と下校後にアルバイトをして家を助けている、勤勉で真面目な子供であった。
放課後、私はよく豆腐を売り歩くTの自転車の後を付いて行ったものだった。
Tの売り歩く範囲は、私の考えていたよりもずっと広く、しかもそのテリトリーは、かなり厳しく決められていたようであった。
木箱に入れられた商品が全部売れるまで、Tはひたすら自転車を走らせ、ラッパを吹き鳴らして露地から露地を行き来するのだった。
そして、商品が売れ残ることは決してなかった。
ほとんどの客は、Tの吹くラッパの音を聞きつけて、鍋を持って家の前で待っていてくれた。
いわゆる常連客というものなのだろう。
Tは普段私達の前では決して見せたことのない大人びた態度で、客の一人一人を見事にさばいていたが、その姿は自信に満ちていた。
Tの母親が急死したのは、中学2年の一学期であったと思う。
三日間の忌引の後に登校したTに、私は何と言葉を掛けてよいか分らず、ただ黙ってそばに寄り添っていた。
クラスメートは、そんなTに対しては決して優しくはなかったと思う。
そしてその日も、私はTに付いて行った。
Tが家に帰ると、Tの姉さんが弁当を作って待っていてくれた。
Tはその弁当を掻っ込むと、もうアルバイト先に自転車を走らせた。
私も無言でその後につづく。
荷掛けが大きく、ごついスタンドの自転車は、私の乗る自転車より一回り大きく、小柄なTが余計に小さく見えた。
それでも声が掛る度に、キビキビとスタンドを立てる時のTは、力強く頼もしかった。
やがて、夕焼けの中を帰路につくTの背中を見ながら、この友に幸多かれと、心の底から祈らずにいられなかった。
Tは中学を卒業すると、東京に就職のため故里を旅立って行った。
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- 平成14年10月17日(木曜日)
【晴】
小学校2年の時に毎日つるんでいたTは、父親が映写技師であったので、市内の映画館は全部顔パスで入ることができた。
その頃のTは、まだ家計を助けるためのアルバイトをしていなかった。
そのおかげで、私達は学校から帰ると、ほとんど毎日映画館めぐりをすることができた。
市内にはその頃、新水園、末広劇場、有楽館、演舞場、高砂館、そして洋画専門のワンプラーとサン劇場の7館があったので、日曜日は休むとしても、一週間では全部を周り切れなかった。
今はよく知らないが、あの頃はちょうど一週間で入れ替えだったこともあって、毎日新しい映画を観るという、当時としては途方もない贅沢を味わう幸運をTを友達にもっていたことで手に入れていたのだ。
Tの母親は、近くの鰻屋に勤めていて、鰻の蒲焼や倶利伽羅、時には鯉や鮒の洗いなどを詰めた箱を、唐草の風呂敷に包んで、いくつかの町内を売り歩く仕事をしていた。
一度その荷を持たせてもらったが、それは大人でも決して軽くはない重さであった。
映画館周りは、いくら低学年とはいえ、下校してから出掛けて行く以上、観終って館の外に出れば、夏場はともかく、大抵は夜になっていた。
映画館が家に近ければ良いのだが、高砂館や演舞場などは、子供の足では家まで一時間以上の道程を帰らなければならない。
冬は空きっ腹をかかえ、その上西風に向って家に帰ることになるので、体は氷のように冷え切ってしまう。
唯一の寒さしのぎは、大通りに何軒かあったパチンコ屋に飛び込んで、暖房用のダルマストーブに当らせてもらうことだった。
今思えば、あの頃は万事が鷹揚な時代だったのだろうか。
小学生で、しかも明らかに低学年と分る幼児が、いかにまだ宵の口だったとはいえ、夜の街をうろついたり、引率者もなしに連日映画館めぐりをしていても、別にとがめだてすることもなかったし、夕食前に家に戻れば、おざなりの説教だけで放免してもらえたのだ。
もっとも、あの頃の小学生には、家計を助けるために、新聞配達や牛乳配達、納豆や豆腐売りをしていた子がけっこういた。
つまり、自立した子供達が身近にいたことで、大人達の見る目が、今とはかなり違っていたのは確かなようだ。
それにしても、私達二人は末恐ろしいガキだったのかもしれない。
そのTも、今では東京で手広く運送業を経営していると、風の便りに聞いた。
秋風が立つ今頃になると、なぜかTのことが思い出される。
闇に包まれた通りに開いた、酒饅頭の店の湯気の香りと共に。
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- 平成14年10月16日(水曜日)
【晴午後西の風】
思えば、私と映画との出会いは、物心ついたのとほとんど同時ではなかったろうか。
あれは満5歳の冬だったと思う。
親子程年の違う長兄夫婦に手を引かれて観たのが、忘れもしない「死の谷」という西部劇だった。
あらすじは全く覚えてないのに、劇中で主人公が女性の給仕で食べていた料理のことだけは、なぜか鮮烈に記憶しているのだ。
蝋燭かランプの灯に照らされた、ほの暗い部屋のテーブルに向って、男が一人料理を口に運びながら、対面する女性と何やら話している。
男の前に置かれた木皿には、煮豆のようなものが盛られており、やはり木製のスプーンで口に運ぶ様子が、5歳の幼児にとってはあまりにも異国的であったのか、ずっと後になってその料理が、ポークビーンズであると知るまでの間は、似たような料理を口にする度に、あの鮮烈な印象と実際の味とのギャップに、かなり苦しめられたものだった。
そう、劇中で主人公が口にしていたあの料理は、絶対に甘いはずがないと、なぜか決めつけていたのに、甘くなかった豆料理は、あの場面に出ていたものと似ても似つかないものばかりであった。
そしてとうとう、私はポークビーンズに出会った。
最初の出会いから10年以上の年月が経っていた。
一匙を口に入れた瞬間、私は既に荒野をさすらうアウトローになっていた。吹き荒ぶ砂塵の中を、行くあてもなく愛鳥の背に揺られて行く、孤独なガンマンが私であった。
あの料理がポークビーンズだと知り、その味も知った私にとって、西部劇はもはやそれ以前とはまるで違うものとなった。
あの時から、いったい何本の西部劇に出会ったことだろう。
ジョン・ウェイン、ランドルフ・スコット、ゲリー・クーパー、リチャード・ウィドマーク、アラン・ラッド、カーク・ダグラス、バート・ランカスター、ビクター・マーチュア、リー・バンクリフ、ロバート・スタッフ、エドワード・G・ロビンソン、ジョン・ペイン、リー・マービン、アーネスト・ボーグナイン、クリント・イーストウッド、スティーヴ・マックウィーン、ユル・ブリンナー、
名をあげたらきりがない。
皆ヒーローだった。
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- 平成14年10月15日(火曜日)
【晴】
秋も今頃になると、忘れもしない、心に深く残る映画との出会いが鮮やかによみがえる。
それは小学二年の時、年の離れた兄と共に観た、ルネ・クレマン監督の「禁じられた遊び」だった。
そう、あの頃の年齢の子供達の例にもれず、私達にも秘密の墓地がたしかにあった。
最初は大切に育てていたヒヨコや小鳥のために、必要に迫られて作った墓なのに、気が付くと仲間達が次々に、ドジョウや金魚、虫やミミズ、亡骸の無い奴は、とりあえずサンマの骨なんかを持ち寄って、小石や十字架の墓標が林立する不思議な空間がいつの間にか生まれているのだった。
参加した仲間は、自分達の秘密の場所を、決してもらさないための誓いで結ばれ、秘密を共有した子供だけが持つことのできる、めくるめく興奮に身をよじるのだった。
ミッシェルがポーレットの愛猫の亡骸を水車小屋に埋めて、十字架を立てた時、私の魂は間違いなく二人と共に小屋の中にいて、小川のせせらぎを聞きながら、湿った土の匂いを感じていた。
モノトーンの画面は、モノトーンであることでより豊かな色彩に溢れ、草きれや土埃までも、生き生きと五感に伝わってきた。
爆撃の閃光が時折闇を引き裂く夜道を、手押車いっぱいに積んだ十字架を運ぶ二人の脇に、同じ恐怖に震えながら小走りに進む私自身を、何度見たことだろうか。
多分、ミッシェルの少年期は、ポーレットとの別れと共に終るのだろう。
最後に残ったロザリオを、水車小屋の主のフクロウにくれてしまう時の、ミッシェルの言葉が耳に刻み込まれて今も鮮やかである。
「ほら、百年持ってな」
あれからいつの間にか50余年の時が流れ、人生の折々に幾度となく観続けてきたが、フランスの名も知らぬ村は、いつの間にか私の原風景となってしまった。
そして、ポーレットは私と共に年を重ねていく。
私と同じ1942年生まれの彼女は、今何処でどんな暮しをしているのだろうか。
時は過ぎ去るものではなく、一人一人の中に積み重なっていくものなのだという。
この時代に生を受け、ミッシェルにポーレットに出会えた幸せに感謝しよう。
(以下サイト管理者)
今日10月15日は、10年前に逝った愛犬ポコの命日である。
その頃私は八王子で一人暮しをしていたため、当然看取ってやることもできず、ポコが死んだという事後報告を受けて学校を休み実家に戻った。
しかし実家に戻ってもポコの亡骸は既に無く、逝った現実を直視する度、声を出して泣きじゃくったことを思い出す。
今改めてポコの魂の平安を心から祈っている…。
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- 平成14年10月14日(月曜日)
【晴】
秋が次第に深まるこの季節は、かつて子供達にとって「おにごっこ」には最適の季節であった。
一口に「おにごっこ」と言っても、色々な種類があり、一番ポピュラーなのはかくれんぼというやつ。
それから影踏みや缶蹴り、そして悪名高い泥棒巡査という名のもの。
中でも特別なおにごっこに「コマおに」というのがあった。
どこにでもあった子供相手の駄菓子屋で、10円で売っていたコマの軸に、どういう訳か同じ10円で売っていた矢先を付けて、出来る限り細いタコ糸を紐にして巻き付け、そのコマを地上では回さずに、コマが紐から離れる寸前に思い切り手元に引き付けて、飛んで来たそのコマを手の平で受け止め、コマが回っている間は移動することができるという、極めて難度の高いルールの下で、オニも逃げ手も争うのだ。
いずれの場合も、オニはルールで決められた場所、大抵は表通りの電柱であったが、その場所で百数えなければ動けなかったのだが、数え方にもルールがあったのだ。
それは、お婆やんが屁をしったはダメというものであった。
オバヤンガヘヲシッタは、ぴったり10文字なので、一回唱えると10数えたことと同じになるので、あの頃はよくこの形で百を数えたのだ。
しかし実際には、あっという間に百になって逃げる間がなくなり、逃げ手には不利になるという理由で、禁じ手となったのだ。
「お婆やんが屁をしった」はダメだぞ。
逃げ手の誰かの念押しに、「わかってるよ」といまいましげに応えるオニの顔が目に浮んできて、思わずクスッと笑ってしまった。
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- 平成14年10月13日(日曜日)
【晴】
昼過ぎに友人のS氏が来室する。
最近パソコンを購入し、教室にも通っているのだそうだ。
そこでウェブ関係の手ほどきを長男に頼みたいと言う。
たまたま別の用事もあったので、家に電話してS氏に電話に出てもらった。
どうやらS氏の希望がかなったようであった。
友人が辞去した直後にH自動車のオーナーが訪ねて来たので、母屋に通ってもらい話を聞いた結果、ほぼ一致点に達する。
あとは提示された金額を持ち帰り、家族と話し合っていずれかの結論を伝えることになる。多分契約することになるとは思うのだが、万一今回保留ということになると少し気の毒な気がする。
話が済んで外に出てみると、既にとっぷりと暮れて夜気がひんやりと身に染みてくる。
真っ暗な画室に手探りで上り、明りを灯けて帰り仕度を急ぐ。
闇はなんとなく気持ちを焦らせる力があるのだろうか、片付けもそこそこに帰路についた。
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- 平成14年10月12日(土曜日)
【晴】
午前中に千葉のM氏より電話があり、午後に画室を訪問したいとのこと。
M氏からは以前に一度電話をいただいていたので、用件の内容も分っている。
午前中は野外レッスンのため外出、昼近くに画室に戻り、間もなくM氏の乗ったタクシーが画室の前に止った。
肖像画の注文内容を聞き、詳細を打合せて慌しく戻って行った。
昨日に比べて今日は暖かく、そのためか風邪気味の体調が少し快方に向っている気がする。
それでも体調が悪い状態での仕事は、決して良い結果を生まないので、今日は下仕事だけをして描き込みはしなかった。
午後7時、自動車販売店のオーナーが来る。
母屋に通ってもらい話を聞く。
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- 平成14年10月11日(金曜日)
【晴】
花粉症かただの風邪かよく分らないが、朝からクシャミと鼻水が止らず、それが段々と激しくなって、イーゼルに向ってもほとんど仕事にならない。
マスクを付けても薬を飲んでも全く効果がなく、午後になると体がだるくてどうしようもなくなってきた。
筆先に気持ちを集中しようとしても、立て続けに出るクシャミに邪魔されてしまい、もうお手上げ状態。
そんな折に車のディーラーの所長が訪れる。
きっと昨日の見積書の返事を聞きに来たのだろう。
その熱心さには本当に敬服してしまう。
コーヒーを入れてもてなし、その金額では期待に添えない旨を伝えた。
貧乏所帯にとって一台の車を買うことは、かなりの研究を要するテーマであることを痛感する。
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- 平成14年10月10日(木曜日)
【晴】
車を買わなければならなくなり、母屋の車の購入先に連絡をとってもらった。
その直後にどこで聞いたのか、別のディーラーの所長から、資料を持って伺うとの電話があったのに驚く。
間もなく本人がやって来たので母屋に通ってもらい話を聞く。
と言っても交渉はほとんど兄がしてくれた。
午後2時30分、朝に電話した販売店がやって来て話をしている矢先に、玄関に誰かの声がする。
まさかと思って出て見ると、別の所長が見積書を持って立っていた。
なんともおかしなことになってしまったので少し当惑する。
とにかく限られた予算内での買物である以上、どちらか安い方を選ばざるを得ないのは仕方がない。
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- 平成14年10月9日(水曜日)
【曇のち晴】
今朝画室へ向う途中で、市民運動場へ向う学生集団と出会った。
おそらく運動会のリハーサルだろう。
あぁ、もうそんな季節になったのかとしみじみ思い、遠い昔に同じ道を同じ会場に向って、大きな町旗を先頭に四列縦隊で進みながら、密かに闘志を燃やした頃を思い返す。
あの頃の運動会は、まず最初に校内運動会があり、次に町内対抗の元町運動会というのが続き、更に、主に旧市内の町内対抗で市内対抗運動会というのがあった。
元町運動会は小学校の校庭が会場だが、市内対抗は市民運動場までの道程約6kmを徒歩で行かなければならなかった。
現在とは違い、すぐに家並が途絶えて、遠くに運動場内の野球グラウンドの掲示板が黒々とそびえているのが望まれ、子供の足では進めど進めど一向に近付いて来なかった。
会場が近くなると、四方から町旗を打ち立てた集団の姿が進んで来る様子が目に入り始めて、目の前に白い光がチラつく程の緊張感と興奮で、ゾクゾクと武者奮いする我が身を抑えられず、周囲はと見れば皆同じような様子で、顔面を紅潮させたり、現状を持て余して身をよじったり、中には断えず地団駄踏んでいる奴までいた。
あの頃の子供達にとって、運動会はオリンピックのようなものだった。
ハイライトはなんといっても町内対抗リレーで、いつもプログラムの最後にあった。
誰もしらけていなかったし、誰も手を抜かなかったし、誰も大人の言い付けに背かなかった。
大人達は体を張って町内の子供達を守った。
着順の微妙な判定には、決って本部前で町内代表者の激しい言い合いがあり、子供達はなによりそれが楽しみだった。
少しの不安も無く、全くの安心がそこにはあった。
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- 平成14年10月8日(火曜日)
【曇のち晴】
母屋に行くと居間に兄の姿が見えない。
さてはと思って玄関に行ってみると、ファックス電話を抱えて何かしていた。
一体何をしていたのかと聞いてみると、時計の針が何秒か遅れているとしか思えないので、電話で時刻を確認していたのだそうだ。
時刻を聞くのになぜ電話を抱えていたのかといえば、本来置いてある場所からでは、時計の針が見えなかったので、すぐ近くまで持ってこなければならなかったのだとの事。
早速捕まって、受話器を握る兄の合図を待って、長針を所定の位置に動かすために、蓋を開けて待機させられた。
一回目は合図のタイミングが一瞬ずれたという理由で無効。二回目は針を合せるタイミングが一瞬遅れたという理由で無効。三回目でどうにかクリアー。
ついでにほんのわずか時刻を進ませてくれという要請に、結局裏蓋を開けることになった。
考えてみると、この一週間は毎日時計にさわっている。
このままだと遠からず本当にいじり壊してしまうかもしれない。
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- 平成14年10月7日(月曜日)
【曇時々雨】
兄が本家から持ってきた置時計の金文字を消したがる訳は、もしも『なんでも鑑定団』に出すような時に、このままでは値が下がってしまうのではと考えてのことらしい。
聞くところによると、先々代がこの時計を贈呈される時に、家一軒にするか時計にするかと聞かれたので、時計を選んだのだそうだ。
なんでそんなに高価なのかというと、どこかにダイヤモンドが付いているからなのだ。
家一軒分のダイヤといえば、かなりの物でなければならないはずだ。
しかし、いくら探してもそれらしい物は見付らなかった。
確かに、この時計が置かれた玄関の佇まいは、その前に比べるとかなり格調高いものになったのだが、ひとつだけどうにも場違いの物も置いてあるのだ。
それは長女の使っていたファックスなのだが、兄の目から見ればファックスは確かにステータスシンボルなのだろうが、いかにもこれ見よがしで、随分昔にテレビにジャガード織かなんかのクロスを被せて、床の間に置いていた頃の感性を思い出す。
その上このファックスがどうにも始末が悪く、今まで使っていた電話機と併用しているおかげで、ほとんど役に立たないのだ。
ファックスは玄関に置く物ではないと、しみじみ思った。
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- 平成14年10月6日(日曜日)
【晴のち曇】
母屋の玄関の絵の下に、本家にあった古い置時計が、これも本家から持ってきた違い棚の上に乗って、何年ぶりかで時を刻んでいる。
昭和3年に先々代が校長職を退任した時に贈られたものだそうで、セイコー社製の大理石のゼンマイ時計である。
母屋の兄にとって、動き始めたこの時計の狂いを修正するのがライフワークになっているのか、暇さえあればその前に座り、ケースを拭いたり、周囲に置いた銅の壷などを撫で摩っているが、時刻合せは台ごと動かすという重労働が必要なので、それはもっぱら私の役割となる。
義姉に言わせると、この時計はいつか必ずいじり壊されるのだそうで、そのことをテーマに議論が始まると、両者共絶対に自説を曲げない。
時計は既に母屋に来たその日に兄の手によっていじり一ヶ所壊されているので、どちらの意見に組するかといえば、やはり義姉の方と言わざるを得ない。
兄の今日の仕事は、時計の前面に金文字で『贈呈 岩本先生』と書いてある文字を消すことのようなのだが、シンナー代りに持ち出してきたラッカーを歯ブラシに付けて擦っているのはいいが、消えるどころか擦る部分だけが妙にテカテカと光ってくるのが気になる。
兄がトイレに入った隙に、見かねてティッシュでその上を拭いたら、更に光り輝いてきたので、慌ててその場を後にして画室に戻り、その件についてはとぼけることに決めた。
そういえば昨日のテーマの1分進ませる件も、実は間違えて遅らせていたことも、わざわざ告げることもないので、合せてとぼけることにし、今日の1分進ませる修正作業を2分にした。
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- 平成14年10月5日(土曜日)
【晴】
午前9時、塾生とレッスン場所の橋に出向き、二時間のレッスンを行う。
足利と佐野の堺を流れる旗川に架かる、稲岡橋という名の古い橋がモチーフなのだが、その橋のたもとに立つ大樹がまた素晴らしい。
樹の根元には小さな祠が、小さな盛土の上に安置されている。
多分かつてこの街道を行き来した旅人にとって、この場所は季節を通じて最適な休み場であったことだろう。
低く張り出した枝の作る深い木陰の中に身を置くと、人は心から安らぐ。
眼下の河の流れは、先日の台風のためにかなり水量を増やしている割には濁りがなく、岸辺にはセキレイの群が盛んに水を浴びている。
先週は河原であった所も、今日は川になっているが、画面は修正しないで仕上げることにする。
時間が経つにつれて気温が上昇し、木陰にいてさえ少し汗ばむ程であったが、風も次第に強まってきたので快適であった。
昼少し前にレッスンを終え帰路につく。
午後は注文作品の制作に専念し、少し早目に切り上げて帰宅する。
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- 平成14年10月4日(金曜日)
【晴】
オークション落札作品の送り出しと追加注文作品の制作準備を終えると、もう午前11時になろうとしていた。
表にポストマンのバイクの音がして、郵便受けに何かが投函された音がしたので出てみると、肖像画の依頼者からの写真であった。
昼近くになると、朝方の肌寒さとは大違いの暑さで、ツクツク法師がけたたましく鳴いて、束の間夏の午後を連想したが、ふと気が付くと暦は既に10月になっており、やはり異常気象なのかと思わず考えてしまった。
そうだ、母屋の義姉が勤務先から貰ってきたレモンの樹が、まだ植えずに置いてあるのだった。
慌ててシャベルを持って庭に出て、なるべく陽当りの良い場所を選んで植えつけた。
その木には青々としたレモンが三個実を付けている。
木の丈はわずか50cm位だろうか。
これから冬に向って無事に育って欲しいものだと心から思った。
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- 平成14年10月3日(木曜日)
【晴】
記憶に誤りがなければ、画室の前に初めて工事中の看板が立ったのだが、その文面が少し奇妙なので、その前でしばらく考え込んでしまった。
「工事中につきこの先の信号は左折できません」
この先に信号機なんて絶対に無いし、第一この辺の道のどこにもそんな物は無いのだ。
しかしなんとなく愉快な気分になって、当事者が気付かずにいれば良いと、密かに願っていた。
誰か地理不案内な人がこの道に入り込み、戸惑う様子を想像するとやはり面白い。
所用で外出して午後早目に戻ってみると、残念なことに正しい文面の物に取り替えられてしまっていた。
「工事中につきこの先は左折できません」
これではなんの面白味もないではないか。
しかし、あの道を左折できないとしたら、こんな所に看板を出しても全く意味がないはずなのを、関係者は分っているのだろうか。
確かに看板の手前に左へ入る道があり、いかにも迂回路のように思えるのだが、この道は車では行き止まりで、その先は歩きか自転車でなければ通れないはずなのだ。
これは面白くなってきたと思った。
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- 平成14年10月2日(水曜日)
【晴】
関東では戦後最大級の台風が過ぎて、今日は朝から晴れ渡り、気温もぐんぐんと上昇して、夏の戻りを感じさせる日となった。
行き掛けに銀行に寄る都合で、いつもより少し遅い時間に家を出たおかげなのか、画室への道の途中、映画のロケ現場に出くわしたのだが、何度見てもあの雰囲気には、ある種の魔力が込められているような気がしてならない。
朝の出勤ラッシュの中に、かなりのスペースを使って、カメラを乗せるやぐらやら、何かレールのような物、それと多勢のスタッフが忙しそうに立ち働いている様子には、独特の華やぎとセンスがある。
多分あの俳優は菅原文太だと思うのだが、着流しの和服姿に下駄を履き、何とか言う服屋のチェーン店から出て来る場面の撮影であるようであった。
周りを取り巻く群衆を入れると、かなりの人数が見守る中を、どうしたタイミングなのか、我が名車はトコトコと現場を走り抜ける形になり、背中から冷汗が噴き出るような思いをしつつ、懸命にスロットルを開いても、この手のバイクの加速力は自転車とあまり変りがないのだ。
足で地面を蹴りたい気持ちを必死に押さえて、どうにか現場から抜け出した時には、正直芯からホッとした。
自分の生きる世界とは、およそかけ離れた世界のひとつが目の前にある時、人はこんなにもまごつくものなのか。
画室への残り道を走りながら、思わず笑いがこみ上げてきて仕方がなかった。
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- 平成14年10月1日(火曜日)
【雨】
画室に着くといきなり強い雨となった。
台風が近付いているために、今日は荒れると天気予報で言っていた通りになったようだ。
それでも午前中の塾生は休まずに来室したので、雨天時のカリキュラムに変更してのレッスンを行う。
レッスン中に川崎市のI氏より代理店申込みの電話があり、今日画室に来たいとのことであった。
午後は外出予定もないので承諾する。
夕方近く風雨の強まる中をI氏が来室。
詳細に渡って打合せをして、午後6時少し過ぎに、迎えのタクシーに乗り辞去する。
横殴りの雨の中を帰路につくが、無事に帰り着けるのか心配になる程すごい天気となり、合羽は全く要をなさなかった。
■アトリエ雑記は平成12年12月15日からスタートしました。
作家と工房のご紹介 ⇒ 肖像画の種類と納期 ⇒ サイズと価格 ⇒ ご注文の手順 ⇒ Gallery ⇒ 訪問販売法に基づく表示
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