アトリエ白美「渡辺肖像画工房」 渡辺晃吉
- 平成16年1月31日(土曜日)
【晴、西の風】
近所の駄菓子屋の中には、大きな平ナベで輪切りにしたさつまいもに塩とゴマを振って焼く、「九里四里うまい十三里」という焼きいもを、5個10円位の値段で売っていたが、これが意外に美味かった。
それとは別に「つぼやき」という焼きいもを商っている店もあったので、その時の気分で足を向ける店を選んだ。
大抵の駄菓子屋には「もんじやき」の台が何台か置いてあり、一杯5円から楽しめたし、玉子などを持ち込んでも良かったので、どこの店もいつも満席だった。
東京では「もんじゃやき」というのだそうだが、足利ではあの頃「もんじゃき」と妙につまった呼び方であった。
夏になると、寒天を使った水菓子やトコロテンが人気であったが、母はそれらを買う事をひどく嫌い、見付かると厳しいせっかんを受けたものだった。
しかし、そんな事で引っ込んでいては、せっかくの美味を味わえなくなるので、何とか目を盗んでは買い食いを止める事は決してなかった。
家から一番近い駄菓子屋のおばちゃん手作りの梅のかす漬けや、大根の梅酢漬けは大好きだった。
小学校1年の時だったが、薬師堂のそばの駄菓子屋で、粉をまぶした風船を5つ買って、近所のチビ達と家でふくらまして遊んでいると、何だか大人達が大騒ぎして風船を取り上げ、親はそれをどこで買ったのかとえらいけんまくで問いただすので、◯◯さんの所で買ったと話すと、腕まくりして店に押し掛けて行った。
今考えると、あれは風船ではなくてコンドームだったのだ。
それを風船として子供達に売っていた訳だが、それまでに買ったどの風船よりも大きく膨らんで、すごく得をした気分だったし、他の奴らも喜んでいたのに、取り上げられたのがとても残念だった事を覚えている。
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- 平成16年1月30日(金曜日)
【晴】
子供相手の屋台店の代表は、何といってもヤキソバ屋だった。
屋台を引くおじさんの鳴らす鐘の音にひかれて、近くで遊んでいた子供達が集まって来ると、おじさんは屋台を止めて、それぞれの注文に応じて焼いてくれる。
ヤキソバの他に、ポテトやどんどん焼きもあり、値段は5円からだったので、何とか買えた。
ヤキソバ屋のおじさんの屋台は、夏に氷屋に変るだけで、ほぼ一年中やって来た。
冬になると、おでんとシュウマイだけを商う屋台もあり、値段はおでんが5円と10円、シュウマイは5円で二つだった。
変ったところでは、しんこ細工、あめ細工、ベッコウ飴、玄米パン、食べ物以外では、バネ鉄砲やゴム鉄砲、吹き矢などをいっぱいに下げた鉄砲売りや、平ゴムを金属の間にはさみ、口にくわえて音を出す、一種の口琴だけを売っていたおじさん。
ゴム動力で動く針金細工のオモチャ売り。
手品の材料を売り、種や扱い方を、買った者だけにそっと教える手品売り。
皆、何となく怪しくてうさんくさいのだが、何となくドキドキする雰囲気があって興味が尽きなかった。
その極めつけは、色とりどりに着色した砂で地面に絵を描きながら、色砂を売る砂絵屋さんだった。
龍や蛇、富士山や竹などを、それは見事に描き分け、流れるような口上を聞いている内に、何だか自分でも同じように描けると思い込んでしまい、つい買ってしまうのだが、いくら頑張っても絶対に描けないのだ。
結局描けないのは自分が悪いからだと勝手に納得し、半年後か一年後かに再び訪れた砂絵屋さんの前に、いつもの連中が座り込み、いつものように買ってしまうのだった。
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- 平成16年1月29日(木曜日)
【晴】
拍子木と提灯を先頭に二列縦隊の集団となり、とっぷりと暮れた闇の中、神社前を出発すると、早速「カッチ、カッチ、カッチカチ」と拍子木が打たれ、それを受けて「ひぃのようじん、マッチ一本火事の元」と大声で呼び掛ける。
ひとつ間を置いて「カッチ、カッチ、カッチカチ」と口で叫ぶのは、本物の拍子木を打てない代りに、せめてその雰囲気だけでも味わうためのもので、端から見れば相当にバカらしいものだったろう。
列の所々で子供会の提灯が、勝手に持って来た懐中電燈の光と一緒に皆の足元を照らし、列の前後を別の集団の灯がちらついて、子供達を包む夜の闇はかえって際立ち、行く道の所々には、まだ夕飯の支度で出したカマドの煙の匂いが、微かに漂っている。
表通りはまだ店も開いているし、外燈も所々点いているので明るいのだが、一旦脇道に入ると、道沿いの家から漏れる灯も疎らとなり、もしも灯りがなかったら、鼻を摘まれても分らない程、闇は深く厚かった。
最初は小さい子に合わせて、列はゆっくりと進んで行くが、道も半分道中を過ぎる頃になると、段々と足が速くなって、チビ達は小走りでやっと付いて来る始末。
その内に必ず誰かが半ベソをかき始めると、そいつの年上の連れがすかさず「ペカーン」という音と共に顔をぶっとばす。
ぶっとばされたチビは、堤を切ったように大泣きを始めると、今まで我慢していた他のチビ共の何人かがそれに唱和し、再び「ペカーン」という音がいくつか耳に飛び込んで来る。
全行程は時間にすると約一時間。
やはり集中できるのは30分が限度というところだろう。
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- 平成16年1月28日(水曜日)
【晴】
夕飯もそこそこに身支度をして家を飛び出し、集合場所の八雲神社へ駆けつけると、既に半数近い仲間が待っていた。
参加は4年生以上という事になっているが、弟や妹を連れて来る連中もけっこういるために、集団の人数は30人を上回るのが常で、中には赤ん坊をおんぶして来る奴もいた。
出発の少し前になると、6年生のリーダーがその晩の役割を発表する。
一番の人気は拍子木当番で、これは6年生以外にはまず廻って来ない。
次は「火の用心」の文字と「緑町子供会」という文字の入った、それぞれの提灯持ち。
中には親に黙って持ち出して来た懐中電燈や、どこから引っ張り出して来たのか、自分の背丈よりも長い錫杖を、さも得意そうに見せびらかしている奴もいる。
それ以外の連中は、ただ列を組んで行進するだけである。
出発前のリーダーのきまりきった訓示がはじまる。
隣組を乱さない事、掛け声は大きな声で元気よく、「屁の用心サツマ一本屁の元だ」は決して言わない事、小さい子の面倒をよくみる事、
誰も聞いてないが、「はーい、わかりました」と返事だけは元気に返して出発するのだ。
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- 平成16年1月27日(火曜日)
【晴】
小学校4年になると、各町内別に組織された「子供会」に編入され、月に一回の「町内常会」という会合に出席する事になるのだが、その会合は大抵土曜日の放課後、それぞれに割り当てられた教室で行われた。
会合のテーマは年間行事についてがほとんどで、12月から2月までは、毎晩夕食後に町内を巡回する、「火の用心」の夜廻りが中心の議題であった。
町内を2〜3の区画に分け、それに合わせて子供達のグループ分けをして、おおよそ一週間周期で交代するのが普通である。
それというのも、夜廻りの時に必ずどこかの家で、甘酒やおしるこなどを振舞ってくれるので、巡回場所を交代しないと、不公平になるからだった。
我が家は染色業であったので、絹糸の照りを出すための水あめや、ぶどう糖などがふんだんにあった。
母は水あめをたっぷり入れた「あめ湯」を、大きなやかんにいっぱい作って、工場のだるまストーブにかけておき、廻って来た子供達に振舞ったものだった。
今の子供達にとっては、甘酒やおしるこなど、珍しくも何ともないだろうが、あの頃は皆目を見開く程の感動を、甘い味と共に味わった。
特に母の作る「あめ湯」には、信じられない程の量の水あめが入っていたので、子供達だけではなく、大人達にとっても美味だったのだろう。
何かと口実を作っては、1人2人と訪ねて来て、相伴にあずかっていたようだった。
母はその人達のために、おろししょうがや、口直しの沢庵などを用意して振舞ったので、冬の夜は遅くまで人の声が聞えて、何となく華やいだ気分になったものだ。
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- 平成16年1月26日(月曜日)
【晴】
正月の遊びの中で一番長続きするのが、コマを使った「コマ鬼」という、一種の鬼ごっこだった。
一個10円のコマの芯に、これも同じ店で売っている矢先を打ち付け、出来るだけ細いヒモを使って廻すのだが、細いといってもコマを廻す以上は、タコ糸位の太さは必要だ。
その一方に穴あき銭を取り付けて指止めにし、2m近い長さのヒモの先を、矢先の先端からきつく巻き付け、それを思い切って投げると同時に、強く引きつけて戻ったコマを手の平で受ける。
そのコマが廻っている内だけは動く事が出来るという決りで、鬼は追い、皆は逃げるという訳だが、時には矢先を研ぎ過ぎて手の平に穴をあけてしまう奴も出て来る。
その時だけは、広口ビンの蓋を利用した受け皿をゴムで止めて使う事が許される。
ジャンケンで鬼が決ると、一、二、三の合図でいっせいにコマを投げる。
運悪くコマを受け損なったり、受ける前に動いたりしたら、そいつらは失格となり鬼を交代するルール。
あの頃はそんな遊びを、何も考えずにしていたものだが、今になって考えると、あの頃の子供達は、ずいぶん高度な技を事もなげに身に付けていたのだと、つくづく感心する。
コマに限らず、日、月という竹を使った遊びなどは、まず道具から手作りしなければならない。
作り方は比較的簡単で、直径7〜8cmの竹を節の上ギリギリで15cm位に切り、節の中央にキリで穴をあけてヒモを通し、約1m程の一方の先を、やはり同じ位の寸法に切った、これは節を底に、口の一部を10cm位の先を付けた形にして、剣先の根元に穴をあけてヒモを止めると出来上がる。
この道具を使って、ちょうど剣玉と同じようにして遊ぶ。
まず1億という形から入る。
これは単に下にさげた筒をまっすぐに引き上げ、手に持った剣先付きの竹筒の剣で受け止めるだけ。
後は2億から99億までを続け、見事100億まで来たら、剣先を下に向け、下にある筒を引き上げ、その底を突き破って終わりとなる。
剣玉を買う小遣いのなかった子供達の遊びである。
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- 平成16年1月25日(日曜日)
【晴】
午前9時頃になると、大小山へ登るハイカーが、画室前の街道をぞろぞろと通って行く。
その内の何組かは、足を止めて土間を覗き込むが、入って来るグループはほとんどいない。
それでも恐る恐る足を踏み入れる人達も必ずいるので、いつもコーヒーは欠かせないし、名刺などの資料もけっこう用意しておかないと、いつの間にか無くなってしまう。
今日最初の来訪者は藤岡から来た中年男性の二人組。
これから大小山に登り、大望山までの尾根歩きを楽しむという。
来る途中で、首都圏からバスで来た一団と会ったそうである。
その一団は多分両崖山ルートの方へ行ったのだろう。
最近は低山ハイキングのブームなのだそうで、足尾山地を背後に控えた足利市は、その方面の人達にとっては有名な地と聞いて、少し嬉しい気持ちになった。
子供の頃はあちこちの山に登り、尾根もずいぶん歩いたが、考えると毎日見ている山々の半分も登っていないと思う。
それも当然で、北を向けば東から西にかけて、どこまでも山また山なのだから、それを全部踏破するのは大変だ。
確かに渡良瀬川に架かる橋から市街地を見ると、どの橋からの眺めも絶景といって良いだろう。
「きれいな街に育ったね…」
森高千里の「渡良瀬橋」の中の詩の一節である。
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- 平成16年1月24日(土曜日)
【晴】
本来なら絶対に見えるはずのない闇の中で見た、小さな白髪のおばあさんの姿は、朝になっても決して忘れるはずがなく、その体験をすぐ親に話したが、父親は多分寝ぼけたのだろうと相手にしてくれなかった。
それでも一生懸命話をしていたところ、母親が突然立ち上がり、一枚の写真を持って来て、「お前が昨夜見たおばあさんはこの人じゃなかったかい」と差し出したのだ。
私はそれを見たとたん直ぐに「この人だよ」と母に告げると、「この人はね、お前のひいお祖母さんで、お父さんのお祖母ちゃんだよ」と話してくれた。
その人がなぜ私の所に来たのか、今もって分らないが、それ以来、私は見えぬ世界の存在を自然に認めるようになっていた。
子供の頃は、その話を仲間にする度にウソつき呼ばわりされ、この類の話は人に話すものではないという知恵を得たが、毎年1月の末になると、いつも思い出すのは、やはり私にとっては、この体験はかなり強烈なものだったのだろう。
それ以来、同じような体験は一度もしていないが、出来る事ならせずに済ませたいものだ。
夕方の事、外でエサを食べる気配がするので、大家さんが戻って来たのかと、ガラス越しに外を覗いてみたら、何とタヌキが軒先で食事中であった。
こっちの気配に気付いて、少し離れた所に逃げて行ったが、あまりに意外な事に驚き、戸を開けて呼び掛けると、立ち止ってしばらくこちらを見ていたが、やがてゆっくりと前の畑を突っ切って消えて行った。
多分これからは毎日来てくれるだろう。
とりあえず今夜の分のエサを出して帰路につく。
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- 平成16年1月23日(金曜日)
【晴】
1月も末に近くなると、小学校2年の冬に体験した不思議な出来事を思い出す。
その頃我が家では、一階の八堂の間に父母と姉二人、そして私と弟が枕を並べて寝ていた。
私の寝床は父の隣で、西の端に敷かれ、頭の上には下の姉の頭が向いていた。
1月の末の真夜中といえば、万物が凍りつく程の寒さである。
それなのに妙に暑苦しく、加えて足元が石を乗せられたように重く、滅多にはない事だったが目が覚めた。
子供ながら足元の重さが気になり、布団をまくって足元を覗いてみると、そこには白髪で小さなおばあさんが、きちんと正座して座っていた。
変だなと思ったのは、両目を力一杯つぶって、口もへの字に結び、何かの痛みを耐えているような、少し不思議な表情が目に入ったからであった。
「おかしいなぁ、隣の部屋で寝ているはずのおばあちゃんが寝ぼけて便所を間違えたのかな」とも思ったが、家のおばあちゃんの顔とは全然違う人なのは直ぐに分った。
「変だな、どこの人だろう」と思いながら布団に入った直後に、とんでもない事に気付いた。
昔の家は大抵そうだったと思うが、夜中は雨戸を立ててしまい、電燈は消してしまうので、たとえ目が覚めても、鼻先に持って来た自分の手さえ見えないはずなのだ。
それが何で人の姿が見えたのだろう。
そう考えたとたん、全身が凍りつく程の恐怖に襲われ、後は布団の中に潜り込んで、出来るだけ父の近くに寄り添うようにして、ほとんどまんじりともせずに夜明けを待った。
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- 平成16年1月22日(木曜日)
【晴】
昼近くから吹き始めた赤城颪は、時を追う毎に激しさを増し、閉め切った戸が発てる音の途絶える間さえない。
隙間から吹き込む風が運ぶ砂埃で、縁側は少しザラついているようだ。
こんな日は彩色には不向きなので、下図から本紙への捻写に精を出す。
体調が良ければ、風で吹き払われて透明感を増した風景を写生するのだが、あと数日は自重した方が良いだろう。
今日のような日に大小山へ登れば、おそらく360度の大パノラマに出会えるだろう。
中でも西方に広がる赤城颪の眺望は、他のどこからよりも素晴らしく、それだけに何度描いても納得のいく作品にならない。
大小山への道は、画室の北に走る街道を東に向かって、少し昇りを行き止まりまで進み、「やまゆり学園」の庭から左に方向を転じ、後は低い松の木の尾根をひたすら登り降りして1時間程である。
距離はさほどではないが、きつい登りを何度もこなさねばならず、結構きついルートなのだ。
大小山ルートをはじめ、足利には低山ハイキングのルートが色々あって、地元の人達よりは、近郊の都市、特に首都圏からのハイカーに人気があり、真夏を含め四季を通して尾根歩きの人影が絶えない。
私は仕事上の必要もあり、山よりは野歩き町歩きの方が多いのだが、今までの足跡を少し整理してみると、多分面白いマップが出来るかもしれない。
所謂名所旧跡ではないが、野や村にひっそりと佇む、心を打つ寸景には出会えるはず。
後で少しまとめてみようか。
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- 平成16年1月21日(水曜日)
【晴】
体調を考慮して少し遅目に家を出ると、外は意外に暖かかった。
この時間なら、多分自転車通学の学生達もあまり通らないだろうが、代りに車の台数は多くなるようだ。
市民会館の交差点には、角の交番から監視のお巡りさんが出ている事が多いので、安全のためにそこを通る事にする。
国道293号を横断すれば、とりあえず安心なのだが、脇道の多い歩道を走るのは、思った以上に危険が多いので、出来るだけ道路の外側の自転車専用ゾーンを行く事が多い。
ここならば、歩道手前で停止せずに突っ込んで来る車から、少しは距離がとれるからだ。
遠回りだが可能な限り露地や脇道を選んで走る。
約45分程で画室に着くと、母屋の義姉は既に出勤した後らしく、セダンが駐車場になかった。
画室に入る前に、大望山から大小山々系に目を向けると、意外に清んだ大気を通して、黒紫色から黄土色にいたるグレートーンに彩られた山腹が、冬特有の色彩の花を咲かせていた。
これからの季節、塾生の大半は、透明感のあるグレートーンを出すのに苦労する事になる。
安易な混色による中間色は、どうしても色が汚く、画面が重ったるくなりがち。
とはいえ、あまり系統的な方法は、発想の柔軟性を妨げる事にもなるから、その辺のアドバイスが難しい。
絵画は確かに小手先の技ではないにしても、技術的な部分を養成する事も大切な事だろう。
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- 平成16年1月20日(火曜日)
【晴】
芝滑りをする斜面は、東に行くにつれて傾斜が緩くなり、幅も狭くなって行くが、西の端は100m程の長さの急な石段で終わっている。
石段の西は、深い雑木林の水道山々腹となり、南から北にかけて広がり、人が踏み入る事は滅多にない。
石段の両側の幅60cm程の浅い側溝は、底が蒲鉾状になっているために、ソリの面を少し細工しただけで、その側溝を猛スピードで下る事が出来る。
しかし、芝滑りとは違って周囲は石だから、余程の覚悟とテクニックがない限り、大怪我をするのは間違いない。
そのため、ここを滑り降りられる奴は文字通りヒーローとなるだけではなく、ソリが降りて行く地は、いつも睨み合っている敵陣の真っただ中という事情もあって、気持ちとしては生命がけである。
大抵の場合、滑り降りる溝は下に向かって左側を使った。
降り切った後、かなりの距離を惰性滑走しないと止まれないために、左の方が下の地形上都合が良いのだ。
石段の下は少し歪んだT字路になっていて、道の合流点が、広場といっても良い程広い。
ソリはその広場に突っ込んで行く事になる。
アッという間に広場を走り抜け、南北に進む道を更に突っ走ってやっと止まるのだが、車など滅多に通らなかった時代だからこその遊びだった。
乗り手は石段の上からソリに乗ると、物凄い急斜面にビビリながら、遥か下に見える広場を覗き込む。
何度かのためらいの後、意を決して溝に飛び込んだとたん、ソリはみるみる加速して行く。
両手に握った棒を使って思い切りブレーキをかけても、いったん勢いづいたソリのスピードはなかなか衰えるものではない。
ぼんぼん跳ねながら、まるで落下するように滑って行くソリを、行程の半分辺りで制御出来ないと、その後には悲惨な結果が待っている。
満身の力で制動をかけて、加速度を殺しスピードを一定に保たないと大変な事になるのだが、同時にソリから落ちないようにバランスを保つ事もしなければならない。
考える間もなくゴールを過ぎ、平らな地面をザーッと滑りながら、速度が急激に落ちて行く時の快感は、他ではちょっと味わえないものだった。
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- 平成16年1月19日(月曜日)
【雨のち晴】
1月も半ばを過ぎると、公園の水道山の南斜面は芝がすっかり枯れて、絶好の芝滑りのゲレンデになった。
斜面といっても、所々にツツジが生えているし、流れる水が小さな沢のように地面をえぐり、決して平坦なものではなく、ここを滑り降りるには、かなりの技術が必要だった。
家にあった材料の中から、厚さ5cm、幅30cm、長さ2m程の板を使い、前の部分を苦労して楔型に削り、底は丁寧にカンナをかけて、何度も蝋を塗り込め、尻が安定するように上面には横木を三ヶ所に打ちつけ、仲間の中では群を抜いた出来のソリを作った。
斜面の上から下までは約50m、しかも下は東西に桜や杉、その間には生垣状の榊やモチの木が密生して、まるで壁のようになっている。
厚く蝋を塗ったソリのスピードは、子供の度肝を抜くには充分過ぎる程で、しかも激しくバウンドしながら滑り降りるために、これを乗りこなせるのは持ち主の私だけだったので、大抵は仲間を二人程後ろに乗せてやっていた。
一番の問題は、一度滑り出したソリは、下の木に激突するまでは、決して止まらない事だった。
だから乗り手は、斜面が終わる10m程手前で、疾走するソリから、上体を思い切り横に倒して飛び降りなければならない。
乗り手は最後の10mを、ソリと共に転がり落ちる事で、木立に激突する危険から逃れるしか方法がない。
芝滑りは、一種の度胸試しでもあったのだ。
それでは飛び降りる勇気のない者は、いったいどうなるのか。
最高に加速度のついたソリは、その切っ先を木立にぶつけて止まるのだから、乗り手は勢い余って前にぶっ飛んで行く。
飛んだ先に木があれば幹に叩き付けられ、大抵は血を見る事になるし、木と木の間に飛び込めば、運が良ければクモの巣に引っかかった虫のような状態で仲間の助けを待つ事になる。
運悪くそこをすっぽ抜けると、向うは3m程の低い崖になっていて、その下の民家の裏に落ち、自力で生還する事はまずない。
休みの日に芝滑りをやらない事はほとんどあり得なかったので、必ず何人かのケガ人が出ていたが、例え自力で帰宅出来ない程のダメージを受けても、真相を親に話す奴など絶対といって良い程にいなかった。
それが原因で芝滑りが出来なくなるよりは、今の苦痛に耐える方を選んだのだ。
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- 平成16年1月18日(日曜日)
【晴】
今日は体調がすぐれず、終日自宅で休養。
朝9時頃だろうか、玄関をノックする音に慌てて出てみると、いかにもそれとわかる風貌の、例の訪問布教の教団メンバーの女性だった。
こちらの様子から直ぐに病人と察知したようだが、それでも片手に持ったパンフレットのような物をかざしながら中に入って来ようとしている。
「あゞ、お風邪でお休みのようで申し訳ありません。私は聖書について皆さんにお話…」
そこまで聞いたところで、手を振って話を中断させ、お引取り願った。
世に独善ほど、当人にも他人にも怖いものはない。
その次元で考える限り、自分に同調しない者は全て誤った理念の持ち主なのだろうし、時には悪人や、真理から遠く離れて闇の中をさまよっている人間というレッテルさえ貼られかねないし、実際にあの人達は、自分達以外の人間を、無知で迷信とぎまんの塊の邪教を信じる、救いを必要とする愚衆としか思っていないようだ。
特殊な反社会的な存在は別として、思想や宗教の多様性を認めるだけの寛容さはないばかりか、その考え方さえ偽善として切り捨てるのは、何度かの対話(対話といっても、先方が一方的に自己主張しているだけなのだが)から推測されて、思わず背筋に寒いものが走る。
自分の話を聞かなかった私は、あのご婦人にとっては、さぞかし無知で愚かな人間なのだろう。
そんな事を思いながら床に戻ったが、今日はどうかその手の人達の訪問は、勘弁してもらいたいと切実に願った。
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- 平成16年1月17日(土曜日)
【曇】
今日は関東地方は雪になるという予報通り、朝からどんよりと曇り、底冷えのする日となった。
少し早目に画室に着き、ファンヒーターを点火したが、最近どうもヒーターの調子が良くない。
目盛は強になっているのに、以前の弱ほどの暖かさにしかならないのだ。
これが故障したら大変なので、来室した長男と共にストーブを買いに出掛けた。
市内のホームセンターだけではなく、少し離れた群馬県の大型店にも行ってみたが、結局最初に見た方が安かったので、その店で買って帰り、二台を同時に使ってみた。
夕方になって益々厳しくなってきた底冷えも、二台点けるとさすがに気にならなくなる程暖かい。
少し贅沢な気がするが、来客の時にはこの位の暖かさが必要だろうし、レッスン中の塾生にも、あまり寒い思いをさせたくはない。
ふと気が付いて、ファンヒーターを画室の北側に移したところ、とても効率良く暖房出来たのには驚いた。
今日は少し早目に帰るつもりであったが、いつになく居心地が良いので、少し頑張って一区切り付け帰路につく。
今日は亡き師の祥月命日、くしくも阪神淡路大震災と同じ日の未明であった。
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- 平成16年1月16日(金曜日)
【晴】
かなり厳しい寒さであるが、風がないのがせめてもの救いである。
今日は終日レッスンのため、朝の早い内に少し筆を持っただけ。
レッスンを終了し、画室を出たのが午後6時少し過ぎ。
既に陽はとっぷりと暮れて、辺りは夜の闇の中にあった。
画室からしばらくの道程は、外燈も少なく闇が深い。
ぶどう畑の脇を通る時には、ライトを点けていないと、危く人にぶつかる程である。
幸いに下り坂が続くために、ダイナモを廻していてもペダルにかかる負担は少ない。
道はやがて住宅地へと差し掛かり、車も人も多くなってくる。
なるべく車の少ない脇道を選びながら、約7km程を、ほゞ直進して、進路を北にとると市街地に入る。
露地を選びながら北西に進み、国道293号を横断するとホッと一息つける。
この先は車も少なく、大きな道路を横断する事もない。
実際に片道約10kmを毎日行き来していると、あわやという危険な目に会う事も少なくない。
それでも何とかケガもなく今日まで来たのは、単に幸運なだけではなく、かなり気を付けている事が大きな要因だろう。
極端な考え方ではあるが、自分以外は車も自転車も、皆気狂いが乗っていると思い、道を行く事にしている。
勿論、そんな馬鹿な事はあり得ないのだが、その位の心づもりで自転車に乗らないと、生命がいくつあっても足らないのが、残念ながら我が町の交通事情である。
- 平成16年1月15日(木曜日)
【晴】
今日も強い西風が、途絶える事なく吹き続いている。
こんな日には兄達が良く大きな凧を、肌を切るような寒風が吹き荒ぶ渡良瀬川の河原で上げたものだった。
時には風速が20mを超える程の烈風にも、糸切れや骨折れのないように頑丈に作られた大凧は、荒縄のしっぽと、藤蔓の皮で作ったうなりを付け、小指より少し細い位のタコ糸で、大空の高みを右に左にと舞っている勇姿は、遠く離れた中橋付近からも見る事が出来た程であった。
まだ幼かった私は、皆の後について行くのは許されたが、タコ糸を持つ事は決して許されなかった。
確かに大凧の操作は、かなり危険な作業で、毎回必ずケガ人が出た。
大抵は糸の擦れによる火傷か擦り傷だが、中には糸の絡まりによる指の骨折や脱臼さえあった。
凧の大きさは畳で3畳程だったろうか。
普段は縦の骨を取り外し、巻き込んで持ち運ぶようになっていて、1人か2人で肩に担いで現場に向かう様子は、心が浮き立つ程誇らしかった。
「びょーん、びょーん」という独特の唸りを耳にすると、何をしていても、おっとり刀で河原にかけつけたものだった。
現場には大抵数人の見物人が遠巻きにたむろして空を見上げ、対岸の土手を行く通行人のほとんどは、皆立ち止ってしばらくの間空に目を向けていた。
実際に凧を上げる連中は、あちこちとかなりの範囲を走り回るので、寒風の中でも体が熱い位だが、ただ見物をしている身には30分が耐えられる限界だった。
その場に留まっていたい気持ちも、息も出来ない程の寒さには勝てず、すごすごと家に逃げ帰るのが常だった。
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- 平成16年1月14日(水曜日)
【晴、風強し】
昨夜からの西風は、朝になっても止む事はなく吹き続いている。
昔は冬になると、毎日のように赤城颪が砂塵を巻き上げていたものだが、最近はあまり吹かなくなってきたと思っていたのに、今年は例年になく風の多い冬となった。
今日の風は特に強いのか、何かが飛ばされて発てる音が、およそ途絶えずに響き続いている。
画室の庭には、どこから飛んで来たのか、黄色の肥料袋が、さっきからあちらこちらと転げ回って、一向に外に出て行こうとしない。
午後1時頃、突然サイレンが鳴り出したので、これは火事かと思ったら、強風警報であったようだ。
昨日は強風の中、自宅近くの山林が火事になり、数台の消防車が出動して行くところに出くわした。
これだけ強い風が吹き続けていれば、木と木が擦れ合って自然発火してもおかしくないだろう。
この季節、風に吹き洗われた大気は凛と清み、遠くの山々がくっきりと浮かび上がって見える。
南西から南東にかけて、遠く上州の荒舟山から秩父山系、そして丹沢山系が望まれ、ほゞ真南には富士山の白峰が頭を覗かせている。
ここからは見えないが、少し南に下ると、東には筑波山、西には赤城、榛名、妙義を従えた浅間山、北には足尾山系を脚下に男体山が堂々とそそり立っている。
その全てを見られる事はめったにないが、去年の冬の事、野外レッスンの帰路にその機会を得た。
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- 平成16年1月13日(火曜日)
【晴】
冬休みが終わり三学期が始まる時、担任の先生が決ってする説教は
「いつまでも正月気分でいないで、しっかりと勉強するように」であった。
それは何も冬休みに限った事ではなく、夏休みや春休みの後にも必ず言われたのだが、考えてみるとおかしな話である。
聞きようによっては、何だか休みを楽しむ事が罪悪であるかのようにもとれるからだった。
そんなに悪い事なら、なぜ休みがあるのだろうか。
いつだったか、その疑問を親にぶつけてみたところ、こっぴどくどやされた事があった。
今の子供達はどうか知らないが、あの頃の子供達はそんな担任の説教を、まともに聞くような奴など、おそらく一人もいなかったろう。
一年中を休み気分で過ごす程、あの頃の子供達は恵まれていなかったし、第一そんな事が出来るはずがない。
だから、あの説教には何の説得力もないし、言っている当人だって、惰性のような気分で話しているだけだ。
それでも、それが新学期を始める時の通過儀礼として必要だったのだろう。
説教する側もされる側も、そんな事は百も承知で、いかにも肝に銘じたような顔をしていたのだからおかしい。
だから、言った方も聞いた方も、終わったとたんに全部忘れてしまっている。
最近は大抵の人にとって、正月気分などというものは元旦から持ち合わせていないのではないだろうか。
そんな事を考えていると、午後3時頃に東京の娘からメールが入り、大至急印鑑証明を送ってくれとの事。
大慌てで画室を閉め、えらく強い向い風の中を帰宅して、探し当てた手帳を持って市役所に飛び込み、何とか印鑑証明を貰う事が出来た。
その場で封筒に入れ、今度は郵便局に急行。
どうやら間に合った事を娘にメールして帰路につく。
この寒空に汗びっしょり。
風邪を引きそうなので、早目の入浴となった。
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- 平成16年1月12日(月曜日)
【晴】
日本画小品用の基底材作りを、今の内に済ませておこうと思い、今日は朝から水張りと画仙のノリ張り、そしてドーサ引きの仕事に終止した。
まずケント紙を水張りして乾かし、その上に画仙紙をノリ張りする。
ノリが乾いたらドーサを引き、乾いたらパネルから一旦剥がして、また同じ作業を繰り返す。
ケント紙に画仙紙を張るのは、日本画本来の本紙作りとしては変則的である。
例えば色紙のように、厚紙に画仙をノリ張りして使う形を、少し変えたと思えばいいのかもしれない。
この方法で仕立てた本紙なら、普通のデッサン額で額装する事も出来るし、水彩画を扱うような雰囲気で扱えそう。
従来のパネルやボードに直張りしたものや、仮張りした画紙と違い、仕立てたものを保存して、使う都度パネルにテープ張りすれば良い。
ただし10号以下の小品向きで、それ以上のサイズは今までのように仕立てなければならないだろう。
今日は風も穏やかで天気も良く、どんどん乾いて行くので、午後3時頃には15枚程作る事が出来た。
これで当座は充分間に合うだろう。
大家さんは今日も来室したが、チビ野良はやはり姿を見せなかった。
今朝アメリカンハスキーの野良犬と出会う。
長女今日成人の日を迎える。
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- 平成16年1月11日(日曜日)
【晴、終日強風】
北関東特有の強い西風が、ここ数日吹き続いている。
今朝も未明から、ごうごうと音を発てて止む事がない。
少し遅目に家を出て、強風に押され画室に向かうが、松は取れたとはいえまだ正月の内なのか、日曜日の朝の道には人影もまばらで、風に吹き飛ばされて妙に清潔な街は、かえって寒々しい。
画室に着くと、土間の入口のそばに大家さんが待っていた。
今日はいつもより遅いので気になったのか、いつもは南の軒下で戸の開くのを待っているのに、我慢できずに北に廻って来たのだろう。
急いでエサを用意して大家さんに与え、母屋に行ってみると、今日出入りの電機屋さんが、プラズマテレビを試験的に観てもらうために持って来るのだという。
観せれば多分買う事になるだろうとの思惑なのだろうが、果してそう上手くいくかどうか。
届いたテレビを観てみると、なるほど我が家のそれとはだいぶ違って、少々カルチャーショックを感じる。
午後4時30分、益々強くなる赤城颪に促され、慌しく帰路につく。
帰路は向い風の中、約10kmの行程を行かねばならない。
苦肉の策にカルトンを使う事にして、前のカゴとハンドルの上に、片手で押さえて風に向かうと、ペダルを踏む足が実に軽くなるのが面白く、色々角度を変えたり、位置をずらしたりしている内に家に着いた。
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- 平成16年1月10日(土曜日)
【晴】
大沼田の谷に入ると、辺り一面は真っ白な霜に被われ、山腹の樹々さえ、うっすらと化粧していた。
露天駐車の車は全て氷結して、その光景は少し痛々しくさえある。
風もなく気温が下がると、これからは毎日こんな風景の中を自転車で走り抜けるのだ。
午前7時過ぎになると、ようやく陽の光が差し込んで来るのだが、北面の山肌に降りた霜が溶け出すには、まだ少し時間がかかるだろう。
画室前の梅林の地面を被っていた雑草も、いつの間にか枯れしぼんで、今は霜の下に沈んでいる。
朝に大家さんが、時々梅林の中から出て来るのを目にしたが、もしかして、この中にねぐらがあるとしたら、冬はとても耐えられないだろう。
画室に入ると、外よりはだいぶ暖かいのは、やはり茅葺の屋根だからだろうか。
とはいえ、茅の上に別の屋根が乗っているので、見た目には普通の瓦屋根だが。
画室の南には、東から西に落ち込む尾根があるので、朝日が尾根を越えるまでは、陽は差して来ない。
冬は午前8時近くにならないと無理のようだ。
コーヒーを切らしているので、代りに紅茶を入れ来客に備える。
午前9時、今年最初の塾生がレッスンのため来室、午前11時までレッスン。
午後3時まで仕事をして後、自転車で約一時間程の姉の家に向かうために画室を出る。
朝に比べるとウソのように暖かな外気の中を西進。
少しづつではあるが陽が延びてきたようだ。
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- 平成16年1月9日(金曜日)
【晴】
途中で銀行に寄ったので、いつもより少し遅れて画室に着く。
大家さんはまだ来ていないようだったが、用意のエサを外に置いて、仕事前の雑用をこなす。
今日の最初の仕事は、ニカワ炊きと胡粉溶きである。
胡粉と黄土で地色を作り、下描きの上から塗ったあと、一部を胡粉で描き起こす。
今回の作品群は、出来るだけ墨の調子を残したものにしたいので、地色をかけずに地隈だけで先に進めようと思ったが、あとから墨で再度描き起こす事も出来るので、とりあえず一回目の地色をかけた。
案の定墨のディテールの効果は半減したが、別の絵肌が生まれ、それがとても面白い。
今回のモチーフは全て花で、サイズはF4と少し小さ目にしてみた。
岩絵具による描き込みの前に水干で着彩し、葉の部分などは可能な限り墨の印象を残してみるつもりである。
今手がけている作品も含め、20点程の小品を描く予定。
チビ野良依然姿を見せず。
新年早々から風邪を引いたらしく、足腰の痛みと頭痛に悩まされている。
薬を喰むとしのぎやすいので仕事は休まずに続けているが、折をみて休養しよう。
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- 平成16年1月8日(木曜日)
【晴、終日強風】
未明から吹き始めた強風を背に受け画室に向かう。
行き交う人も車も忙しなく、やっと平常な日々が戻って来た感じである。
風は益々激しくなり、画室に着く頃には暴風状態。
縁側のカーテンを開けると大家さんの姿がない。
この風だから、どこかにもぐり込んでいるのかもしれない。
と思っていると、どこからともなくやって来た。
用意のエサを与え、雑用を済ませて仕事に入る。
とりあえず日本画作品を五点仕上げたいと思い、花をモチーフに下描きする。
外は風にあおられた物の発てる音が絶えず響き、何度も様子を見に表に出る程である。
昼近くにAギフトの社長来室。
午後は来客や見学者もなく、落ち着いて仕事にうちこめる。
午後5時少し過ぎに予定をこなし帰路につく。
今日もチビ野良の姿を見る事はなかった。
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- 平成16年1月7日(水曜日)
【晴】
日本画の小品を何点か描く予定で、基底材の準備を昨日から始めた。
今回は新しい試みとして、ケント紙に画仙紙を張り、それを水張りしてドーサをひいてみた。
墨描きをしたら少しドーサが甘かったようなので、再度ドーサをひいてみたところ、かなり調子が良くなった。
とりあえず八点分を用意して下描きを完了、墨描きの二点目の途中で時間が来てしまい、今日は終了。
朝には顔を見せた大家さんは、以前と違い夕方になってもやって来ない。
チビ野良は今日も姿を見せず、依然として行方不明。
夕方近く、子供連れのハイカーが土間に立ち寄り、しばらく休憩して行く。
このところ腰痛が続き何かと不自由しているが、普通に生活するには支障がないので助かる。
午後5時画室を閉め帰路につく。
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- 平成16年1月6日(火曜日)
【晴】
画室に着くと土間の入口に大家さんが待っていた。
白い毛の部分が少し汚れていて、表情も何となく険しい。
今日までの七日間、いったいどこにいたのだろうか。
チビ野良を探したが、いるのは大家さんだけだった。
どこかで生きていてくれれば良いが、あんなチビでは食い物だけでなく、性悪な野良にいたぶられる事だってある。
現に何回か追い回されているところを見ている。
とにかく急いで大家さんにエサを用意してやると、さほどガツガツとしている様子もなく食べているので、何とかエサにはありついていたらしい。
食事の後、しばらく軒先で日向ぼっこをしていたが、その内またどこかに出掛けていった。
しばらくして、表に大家さんではない気配がするので覗いてみると、何といつもチビ野良を追い回している集会場のカアちゃんが、大家さんの食べ残しを平然と食べていた。
チビ野良は、このカアちゃんの子供のような気がしてならないのだが、その訳は、集会場の縁の下で育てていたカアちゃんの子供達の内、三匹は確か黒トラだったのだ。
その頃はまだよちよち歩きだったから、確かな事は分らないが、チビ野良の今の大きさから推測すると、その可能性は極めて高い気がする。
もしかしてカアちゃんは、チビ野良をいじめているのではなく、家に連れ帰ろうとしているのかもしれない。
明日あたり、ひょっこりと姿を見せてくれたら良いが。
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- 平成16年1月5日(月曜日)
【晴】
午前8時30分画室に着く。
大家さん達の姿はなく、エサはすっかりなくなっていた。
おそらくスズメが食べたのだろうと思うが、一応エサの用意をして外に置く。
何かのきっかけで戻って来てくれれば良いのだが、やはり三日間の放置は、二匹にとっては生死にかかわる事だったのかもしれない。
母屋の甥が車で東京に帰る。
昼近くにH氏来室し、午後1時30分A氏来室。
救急車が画室近くにとまり、30分近く経っても動こうとしない。
街道には近所の人達が出て来て、あれやこれやと患者の容態を憶測して姦しい。
結局、救急車はサイレンを鳴らす事なく立ち去ったようだ。
午後4時15分H氏退室し、その直後A氏退室する。
午後4時45分画室を閉め姉の家にと向かう。
午後5時姉の家を辞し帰路につく。
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- 平成16年1月4日(日曜日)
【晴】
今朝は来ているかなと思いながら縁側のカーテンを開けると、やはり大家さんもチビ野良も姿が見えなかった。
エサ皿を覗くと食べた痕跡はあるのだが、果して二匹が食べたのかどうか分らない。
その後も時々様子をみたが、とうとう姿を見せなかった。
今日は少し早目に切り上げて画室を後にしたので、帰り路に集会場や心当たりを探してみた。
こんな時に限って影も形も見る事が出来ない。
それでもチッピが脱走した時は四日目に帰って来たのだから、もしかして明日には元気な姿を見せてくれるかもしれない。
今日も暖かかったが風が強かった。
南東から南西にかけて、遠く秩父連山が鮮明に望まれ、その上には富士山が孤高の姿を見せている。
昼少し過ぎに土間に立ち寄ったハイカーのご夫婦は、この風の中を大小山に登ったのだろうか。
空気が乾いているのだろう、コーヒーが美味そうであった。
昨日に続いて椿の図を一点仕上げたが、それを入れたカルトンが前のカゴの中でカタカタと音を発てている。
向い風の中、ようやくに帰宅した。
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- 平成16年1月3日(土曜日)
【晴】
母屋への年始を終え、画室に行ってみると、大家さんもチビ野良も姿がなく、急いでエサを用意して外に出したが、果して二匹はやって来るのだろうか。
とにかく三日間も画室の戸が開かず、エサが貰えなかったのだから、もしかして諦めてしまい、宿を変えてしまったのかもしれない。
画室にはもうチビ達はいないのだが、長い間朝一番の仕事がチビ達の世話だったので、どうしても周りが気になってしまう。
描きかけの作品を二点仕上げると、もう午後4時だった。
もう一度外を見たが、大家さんもチビ野良もいなかったし、来た気配もないようだ。
今年は元旦から暖かい日が続いているとはいえ、夜になれば、やはり冬の寒さが身にしみる。
どこかで食い物にありついていれば良いが、空腹で迎える寒さは、生命の危険さえある。
描き終わった作品を二点梱包し帰路につく。
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- 平成16年1月2日(金曜日)
【晴】
子供の頃の本町(オールドシティの中心)の道の両脇には、直径が約15cm位のマンホールの蓋のようなものが、一定間隔でどこまでも続いていたものだった。
その蓋を開けると、中はコンクリートでできた正方形の穴になっている。
何のためにそんな穴があるのかといえば、年に何回かの祭に提げる提灯の柱や、正月の松飾りなどを差し込むためのもので、その季節になると、どこに立っても目の届く限り提灯や松飾りが並び、風情を醸していたが、今ではとても考えられないだろうが、それがイタズラされたり壊されたりする事はほとんどなかった。
それ以上に、当時、その設置度が日本一である事から、社会科の教科書にも記載されていた「火災報知機」が、心無い者にイタズラされる事さえほとんどなかったという。
火災報知機は赤一色の鉄柱のようなものだが、全体のデザインはアールヌーボ調で、一本の報知機の前に立って左右を見ると、必ず次の報知機が見える程、旧市街地を網の目のように結んでいた。
街の景観として親しまれてきた真っ赤な報知機も、電話の普及によって役割を終え、やがて姿を消してしまったが、今思えばこれも失われた貴重な財産のひとつであったのだろう。
一見無駄に思えるものも、実は人々の心に、想像以上の安らぎを与えてくれる風物なのではないだろうか。
少なくとも私の正月の原風景の中には欠かせない寸景であった。
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- 平成16年1月1日(木曜日)
【晴】
暖かく穏やかな元旦となった。
昨日に続き今日も休養のため外出をせずに終日家で過ごし、年賀などの儀礼は2日からにする。
昨年は喪中のため年賀状は遠慮したが、なるほど聞いていた通り、今年届いた年賀状の少ない事。
結局大抵の人は、この風習を心から望んで実行している訳ではなく、出来ればやりたくないのかもしれない。
しかし、こんな事でもなければ、普段はほとんど交流のない旧知の間には、最低限の便りなのかもしれない。
今年の年賀状には、昨年授賞した作品と同じモチーフである「一里塚」を使用した。
人生が旅ならば、また新しい一里塚の前に立てたという感慨を込めて、お世話になった人に送ったが、果して拙作をどう評価するのか、おまかせというところか。
ともあれ、また新しい年を迎えられたという恵みに感謝し、この年を無事平穏に過ごせるよう、心から祈りたい。
昨年からの手答えから、今年は我が家に大きな進展の機会が到来する予感が強くする。
どうか一日も早く、それが現実のものになりますように。
■アトリエ雑記は平成12年12月15日からスタートしました。
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