アトリエ白美「渡辺肖像画工房」 渡辺晃吉
- 平成16年4月30日(金曜日)
【晴】
祖父の七回忌は、親戚や知己の人達が多勢やって来たので、私や姉達は、客の足手まといにならないようにと、二階の部屋に引き取っていた。
家の中が賑やかなのはいつもの事だったが、今日は特別の日なのだと何となく肌で感じていた。
親戚の人達の中には、普段よく顔を合わせる人よりも、初めて見る顔の方が多かったし、それ以外の人達も、ほとんどは見知らぬ客であったから、直感的にそう思ったのだろう。
やがて一同は長い列を作って、近くの福厳寺へ向かった。
本堂での長く退屈な時間が過ぎ、墓参のために外に出ると、折からの陽が目に眩しかった。
沢山の人達があげた線香の煙で、墓地の周辺はまるで霧がまいているようで面白かったが、皆がお参りを済ませたあとに、叔父を先頭に10人ほどの人が墓前に整列するのを見た時、思わず近くに駆け寄って行った。
やがてその人達は、子供にもそれと分る霊妙な調べを奏しはじめた。
その調べは、たなびく香の煙と共に、辺りにしみ入るように広がって行き、私達は勿論、墓参に来ていた他の人達も、しばらくは居ずまいを正し、広がる調べに己々の祈りを託していた。
尺八本曲「霊慕」という曲だと、後日教えられた。
その時の印象は、幼い私にとってあまりに強かったのか、後年になって叔父のすすめで尺八の手ほどきを受けるきっかけになったようである。
残念ながら、稽古もまだこれからという時に、叔父が逝去したため、中途で挫折してしまった。
清めの席は、母屋の一階と二階の部屋を全部使っても間に合わなかったので、女子供と工場の人は庭にござをひいて作った席に座ったが、その方がかえって開放的で面白かった。
その時に女子高生だった従姉の美佐子さんが、私達の面倒をよくみてくれた。
美佐子さんは秀才だった事から、私が中学生の頃には、東京から遊びに来てくれる度に勉強をみてもらった。
しかし、その頃は姉がまた一人増えたような気がして、美佐子さんがやって来ると、私はそっと逃げ出してしまうので、美佐子さんは自分が嫌われているのかと考え、少し哀しい思いをさせてしまったようだ。
逃げ出した本当の理由は、風呂に入った時に物凄い力で頭を洗われるのが痛くてたまらなかったからだったが、それを言うと母に叱られるのが分っていたから、黙って逃げるしかなかった。
美佐子さんは草津の湯華の入ったお風呂が嫌いだったので、風呂に入れられる前に、素早く湯華を入れて難を逃れる知恵を身に付けてからは、あまり被害に合わずにすんだ。
小学校に入学した頃から、美佐子さんは我が家を訪ねて来なくなった。
疎開先の館林から、東京の家に帰ったのだという。
そして、私が中学に入学した頃に、またたびたび訪れるようになった。
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- 平成16年4月29日(木曜日)
【晴】
朝鮮でいよいよ戦争が始まると、学校の先生達や身近の大人達が、普段とは違って妙に気が高ぶっているのが伝わって来た。
こんな時は近付くとろくな事はないのを知っていたから、教室にいてもなるべく静かにして、先生の目に止まらないように注意した。
あの頃の小学校は、たとえ低学年でもビンタをもらう事があるので、気を付けなければならないのだ。
物心付いた時から、戦争の話を聞かない日はないといって良いほど、いつも耳にしていたその上に、また新しい戦争が始まったと聞いても、先の戦争と今度の戦争を、どう区別してよいのか全く分らなかった。
要するに世界はいつも戦争をしていて、今度は隣の朝鮮に番が廻って来たのかと思ったが、どうもそうではないらしい。
映画館のニュース映画では、朝鮮戦争のニュースがいつもトップに出て来て、「38度線」という言葉が流行り始めると、子供達の遊びは、もっぱら「38度線」ごっこが多くなり、この遊びを校内でやっている現場を捕まえられると、決って火の出るようなゲンコツの仕置きを受けたものだった。
当時の遊びの中でタブーとされたのが、泥棒巡査すなわち「どろじん」と「38度線」だったが、38度線の中身は唯の戦争ごっこで、敵味方の境界を38度線と呼んだだけなのに、隣国の悲劇を遊びにするとはけしからんというのが理由らしかった。
「どろじん」は泥棒が出て来るのと、運が良ければ、泥棒が巡査に勝つ事が出来るというのがまずいのだ。
しかし、大人がダメという遊びほど子供には面白いもので、どんなにきついお仕置きが待っていても、この手の遊びがなくなる事はなかった。
朝鮮戦争では、よくナパーム弾という爆弾が投下される場面がニュース映画に出て来た。
これを遊びに取り入れないはずもなく、大抵は風船に水を入れて相手に投げつけるくらいだった。
私は家の工場から大きなジョーゴを盗み出し、これを使って公園裏の畑の溜めを入れて作った。
かなりの量を入れたやつを敵に向かって投げたつもりが、ナパーム弾はたまたま通りかかった富子ちゃんの顔を直撃した。
何も知らずに歩いて来た富子ちゃんは、くそまみれになった直後、自分の身に何が起きたのかが分らず、不思議そうな表情で棒立ちしていたが、やがて気が狂ったように泣き喚きながら、物凄い勢いで家の方へ走り去って行った。
たとえ故意ではなかったにしろ、女の子をくそまみれにしてしまった以上、無事に済むはずがないので、その日は暗くなっても家に戻れなかった。
しかし空腹には勝てず、勝手口からそっと家の中に入ったとたんに、物影に隠れていた母につかまり、私がどんなに泣き喚こうが、ただ無言で両手を縛りつけ、親指と人差指の間の柔らかいところに、私の目には野球ボールくらいに見えるもぐさを置くと、おもむろに火のついた線香を、もぐさの頭に当てた。
どんなに逃げようとしても、後からガッシリとはがいじめされているのでビクッとも動けない。
目の前のもぐさは段々と赤くなって、その熱が少しづつ指の股に伝わって来る時の恐怖は、死ぬよりも恐ろしいものだった。
気絶寸前のお仕置きからやっと解放され、今度またやったら、次は指ではなくて、チンチンにお灸をすえると脅かされたので、もう絶対にくそを入れたナパーム弾は作るまいと心から思った。
案の定その日の昼間に、富子ちゃんの母ちゃんが半狂乱になって乗り込んで来て、母はどう謝って良いか分らないほど恥をかいたのだという。
富子ちゃんの母ちゃんの心配した通り、それからしばらくの間、皆は富子ちゃんの事を「ためとみ」と呼ぶようになり、富子ちゃんはその度に泣きながら家に逃げ帰った。
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- 平成16年4月28日(水曜日)
【晴】
「大アマゾンの半魚人」という映画がきっかけで、学校では半魚人ごっこが大流行であった。
流行りとはいっても、それは三年生の間だけで、それも大抵は半魚人役の男の子が、女の子達を追い駆け回し、女の子はキャアキャアと金切り声をあげながら逃げ惑うだけの、下らない遊びだった。
そんな時に、金閣寺が林養賢という見習い僧に放火されたという事件が起こり、朝礼で校長先生が、かなり興奮しながら、その話を全校生徒に告げた。
国の貴重な財産が失われたというのに、一部の生徒の間には「半魚人ごっこ」などという、つまらない遊びをしている者がいると聞くが、それはとんでもない事である。
今後は校内で、そのような悪い遊びは決して行わない事。
という事になった。
金閣寺が焼けた事と「半魚人ごっこ」が、どこで結びつくのかよく分らないままに、その遊びは立ち消えとなった。
もう直ぐ夏休みが来る、7月の始めの出来事であったのを覚えているのは、「半魚人ごっこ」が流行った直後の事件だったからだろうか。
そんな事のあとに夏休みが来て、町内単位で編成されていた「子供会」の行事参加に、多忙な毎日が過ぎて行った。
朝6時30分からのラジオ体操は、八雲神社の広場で大人も参加して行われ、首に下げたカードに参加印をもらって家に帰ると、朝食もそこそこに集会場に追いやられて、午前10時まで宿題をやらされた。
上級生が下級生の勉強をみてくれるだけではなく、中学生の兄ちゃん姉ちゃんが交代で面倒をみたので、けっこう楽しかったが、勉強を教える時の、囁くような声の他は、外の蝉時雨がうるさいほど、静かな室内の雰囲気に、相当気疲れをしたものだった。
帰宅して昼食までは、あまり外出する者はいないが、午後になると、水泳に行くため、皆家を飛び出して来る。
ある者は連れだって近くの渡良瀬川に行き、あまり泳ぎに自信のない者は、子供の足で40分ほどの柳原小学校のプールまで行く事になる。
その当時プールのある学校は、市内では柳原小学校だけだった。
私はよく、一級下で、母屋の隣のオチボーと一緒に、柳原小まで出掛けて行った。
プールの帰りには、時々氷屋に立ち寄ってカキ氷を食べたのだが、本当は途中の買い食いはきつく禁止されていたので、店の奥の方でビクビクと表の様子をうかがいながらの楽しみだった。
二人がいつも立ち寄った氷屋は、足利カトリック教会、その当時は「天主公教会」と呼ばれていたが、その教会の斜め向かいだったので、少し高台にある司祭館の回廊を巡り歩きながら、聖務日課をとなえる神父様と目線が合う度に、何だかすごく悪い事をしているみたいな気になって、どうにも居心地が悪かった。
カキ氷を食べた直後は、唇を見ると直ぐに分ってしまうので、親に隠れて川に泳ぎに行った時と同じように、太陽に焼かれて熱くなった石を当ててごまかした。
オチボーの母ちゃんは、自分の子供の悪さを見付ける名人だったから、どんなにごまかしても必ずバレてしまい、オチボーはいつもぶっとばされるか、大きなケヤキの戸が付いた戸棚に入れられてピイピイ泣いていた。
今になって考えると、全部が本当に見付かった訳ではなくて、こいつはやったに違いないという、当てずっぽうの仕置きもあったような気がする。
だから、ほんの少しだったかもしれないが、中には冤罪もあったと思う。
それでも、あまり文句がなかったのは、普段が普段だったからなのだろう。
とにかく目が開いていれば、何かイタズラをするか、親の目を盗んで悪さをするかの、どちらかだったから。
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- 平成16年4月27日(火曜日)
【雨のち曇】
忘却とは忘れ去る事なり。忘れ得ずして忘却を誓う心の哀しさよ…
女性アナウンサーの哀調をおびた誦読が、ハモンドオルガンの調べをバックに流れると、なぜか家中の者がラジオの前に集まって来る。
“君の名はと尋ねる人あり、その人の名も知らず、今日砂山に唯一来て、浜昼顔に聞いてみる”
連続放送劇「君の名は」のプロローグであった。
劇中歌の中に「黒百合の花」というのもあったと思うのだが、たしかこんな歌詞だった。
“黒百合は恋の花、愛する人に捧げれば、二人はいつかは結ばれる、アーアー、アハハアハハハー、アーアー、アハハハハハハ、この花ニシパにあげようか、私はニシパが大好きさ”
ドラマの舞台が北海道に移り、主人公に恋するアイヌ娘が、その心情を切々と唄うという設定なのだが、私には何だか、アイヌの人達を故意に未開人のように扱っているような気がして、あまり良い気分ではなかった。
なぜかというと、ちょうどその頃に学校の授業で、「日本」は、大和人、アイヌ人、ギリヤーク人、オロッコ人、ツングース人、オロチョン人の六民族で構成された国家であると教えられたので、アイヌの人達を、まるで土人のように書いているのが、どうしても馴染めなかったのかもしれない。
大和民族とアイヌ民族を除くと、それ以外の民族の数はごく少数であり、やがては消えて行く運命にあったのだろうが、その中で、ギリヤーク人のシャーマンが、イヌイット独特の大きなうちわ太鼓を片手に、夜の闇の中を、かがり火に照らされて舞う姿をニュース映画で見た時には、背筋がそうけ立つほどの感動を味わった事を、鮮明に覚えている。
邪馬台国の卑弥呼も、きっとこんな風に神託を得るために、トランス状態で舞ったのだろう。
その人は、「世界分化画報」という雑誌にも取り上げられていたと思うのだが、外観は私達と少しも変わらなかったので、とても強い親しみを抱いたのを覚えている。
多分、私の中に流れているウラルアルタイ語族としての血脈が、遠祖の息吹を呼び覚ますのだろうか。
“ドン・ドン・ドン・ドン”という単調なリズムを背景として“ハイヤーハイハイハイ、ハイヤーハイ、ハイヤーハイハイハイ、ハイヤーハイ”と唱える声に、全細胞が呼応するのだった。
気が向くと、見よう見真似のステップを踏みながら、“ハイヤーハイハイハイ・ハイヤーハイヤーハイハイ・ハイヤー・ハイハイハイ”と踊りまくる私を、父母や兄弟が気味悪そうに眺めながら、「この子は少し神がかってるのかねえ」ともらして、ため息をついていたものだったが、八雲神社の神主さんは、そんな私が面白いといつも褒めてくれたので、母もどうやら安心したようであった。
それでも、太鼓代りのふるいを打ち鳴らしながら、妙な声を出して庭中を踊り回る私の姿は、近所の人の目には、どうしても正気とは見えなかったようで、親は自分の子供に「晃ちゃんと遊んではいけないよ」と命じていたと聞いた。
すぐ上の姉は、そんな時の私には、絶対に近付く事はなかった。
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- 平成16年4月26日(月曜日)
【晴】
戦争中捕虜になっていた人達が、ぼちぼちと復員して来始めると、我が家にもよく戦地帰りの人が、挨拶に訪れるようになった。
その中の一人に、出征前は父の元で仕事をしていた正さんという人がいた。
正さんは負傷兵となって身動きの出来ないところを、連合軍に救助されて命拾いをしたのだという。
自分が隊について行けなくなった時、当然自決するつもりでいたのだが、その前に気を失ってしまい、気が付いた時には、もう捕虜の身になっていたのだそうだ。
負傷兵であった事も帰還が早まった理由なのか、皆より一足早く日本に戻れたのだが、傷の後遺症で元の仕事に復帰するのは無理となり、仕方なく納豆売りで当座をしのぐ事になった。
独身という身軽さもあって、朝の納豆売りが終わると、昼間は紙芝居をやって稼ぎ、その内に屋台のヤキソバ屋を始めた。
これが美味しいと子供達の間で人気が出たのは良いのだが、以前からこの辺りを流していた人につかまって大ゲンカとなり、とうとう緑町界隈では商売が出来なくなってしまった。
とにかく正さんのヤキソバは、今までのヤキソバ屋のおじさん達とは違って、まず第一に量が多かったし、具も自家製の野菜や切りイカや干しエビなどかなり豪勢だったし、上にかけるノリもたっぷりだった。
だから、ソバを入れる新聞紙も、他のおじさんのものより倍近く大きくて、何だかすごく得をした気分になれた。
ソバが焼きあがると、正さんは糸を通してぶらさげてある新聞紙を、親指をペロッとなめて一枚引っ張り取ると、それをさっと丸めてじょうごを作り、そこへヤキソバを素早く入れて渡してくれる。
「ホレ、あちいから気をつけな。あわてて落とすんじゃねえぞ」
両手で受け取ると、新聞紙を通してヤキソバの熱が伝わってくる。
少し湿っぽい新聞紙の入れ物を抱えるように持ち、上に刺さった楊枝を使って食べるのだ。
ソースの何とも言えない香りに、少し新聞紙の香りも混じって、しばし至福の時を楽しむ事になる。
正さんはヤキソバの他に、どんどん焼きとポテトも売っていた。
どんどん焼きはヤキソバより美味かったが、少し高いのであまり買う事はなかった。
父は正さんのどんどん焼きが好きで、三時のお茶休みの時など、職人さん達の小腹を満たすのに沢山買った。
そんな時、正さんはわざわざ工場の庭まで屋台をひいて来てくれたので、ついでにとヤキソバを頼む職人さんもいて、けっこう良い商いになっていたようだった。
そんな正さんがこの辺には来られなくなって、私達はとても淋しかったが、代りに同級の友達のオヤジさんが、ヤキソバとおでんとシュウマイを売りに来てくれるようになったのだが、その屋台は今まで目にしたものに比べて、物凄くきれいなのと、おじさんの服が上から下まで白ずくめなのには、子供ばかりでなく、大人も驚いてしまった。
それに、正さんのように鼻水をすすりながら指をなめて新聞紙を剥したりはしないで、ヒゲッ皮で作った舟のような形の入れ物に入れてくれるので、子供より大人達が喜んで買うようになった。
値段はおでんは一本5円から10円、シュウマイは2つで5円、ヤキソバは他のおじさんと同じで、5円から売ってくれた。
その頃の子供の小遣いは、沢山貰える奴で10円、ほとんどは5円だったから、何とか無理すれば買える値段だったが、中には5円はおろか1円の小遣いも貰えない奴もいたので、買える奴の大半は、自分の口に入るのは半分位のもので、あとは仲間へのおごりになってしまった。
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- 平成16年4月25日(日曜日)
【晴】
公園の中にある「白石山房」に行ってみると、今日はいつになく沢山の人が集まっていて、何かをやっていた。
普段見慣れない光景なので、近付いてみると「野立て」だった。
芝生のあちこちに赤いもうせんが敷かれ、着飾った人達が楽しそうに行き来している中に、顔見知りの人達がけっこういた。
なぜか知らないが見付かってはまずいと思い、首をすくめてその場を逃げ出そうとした矢先に、近所のお姉さんと目が合ってしまい、まるで襟首を捕まえられるかのようにして連れ戻され、赤いもうせんの上に座らされた。
今日は「つつじ祭」に来た人達を招いたお茶会なのだそうだが、なぜか皆遠慮してしまい、いくら声を掛けてもなかなか席についてくれないのだそうだ。
そんな時に私がのこのこと姿を見せたものだから、まんまと捕まってしまったという事らしい。
その席には私の他に三人の女の人がいたが、皆きれいな着物を着ていて、髪もきちんとしているというのに、私は泥や土ぼこりであちこちが汚れた、いつものいでたちだから、いくら子供とはいっても、恥かしくて仕方がなかった。
それでも年上のお姉さんに逆らってその場から逃げる勇気もないので、まるで捕虜にでもなったような気分でじっと我慢していた。
両脇に座っている女の人達は、私が小さくなっているのを気遣って、色々話し掛けたり励ましたりしてくれたが、そんな事をされるとよけいに緊張してしまうので、背中は汗でびっしょりであった。
お姉さんの点前は、子供の私が見ても堂に入ったもので、かすかにほゝえんでいる顔には少しの不安もなく、自信満々なのが伝わって来るのを感じている内に、私も少しづつ気が楽になってきた。
正座は食事で慣れているので、あまり気にもならなかったが、大人達にはそれが珍しかったのか「僕はお利口さんね、きちんとお座り出来るのね」などと、さかんに褒めてくれるのが不思議でならなかった。
身近に茶を嗜む人達がけっこういたので、見よう見真似で覚えた作法だが、あとで叱られるのが嫌なので一生懸命にふるまうのがおかしいと、皆が声を立てて笑った。
お姉さんからやっと解放され、ご褒美のお菓子を手にすると、私は一目散にその場から逃げた。
逃げながら、しばらくは「白石山房」には近付かない方がいいと、心の底から思った。
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- 平成16年4月24日(土曜日)
【晴午後より強風】
風邪をこじらせて一週間近く寝込んでしまったのを心配して、担任の佐藤先生が自転車でやって来た。
学校に行けないのが淋しくて仕方がなかった私は、気分が悪いのも忘れてしまうほど嬉しかった。
病状や回復の見通しなどについて、先生と母はしばらく話を交していたが、やがて私の枕元に来ると、カバンから黒アメの袋を出して、薬の横に置いてくれた。
「わがままをせずにお父さんお母さんの言う事をよく聞いて、早く元気になるんだぞ。みんな待ってるからな」と励まし、夕食をすすめる母に「かまわなければ渡辺君と一緒に、ここでごちそうになります」と頼んだ。
母は私のおかゆと先生の食事を枕元に用意し、給仕してくれた。
久し振りに楽しい食事だったが、先生が帰って間もなく、少し下り気味だった体温が、再び39度以上に高くなってしまい、母を慌てさせたが、当の私は、それほどは苦しくなくて、むしろ晴々とした気分だったのが不思議であった。
翌日の午後になると、別に申し合わせた訳ではないのだろうが、同じクラスの友達が二人三人と見舞いに立ち寄ってくれた。
母はいそいそとお菓子やサイダーなどでもてなしていたが、その内おにぎりまで作って、枕元の脇に置いたものだから、それを美味そうに食べる友達を横目で見ている私には、けっこう辛い時間であった。
その次の日、まるでクラス中の友達が家に来てしまったのかと思うほど、あとからあとから見舞いに来るので、母も姉も大わらわで応待する事になった。
その頃には、私も床の上に起き上がれるほど回復していたので、多勢の友達の来訪は、本当に嬉しかった。
幸い私が寝ていたのは、玄関の三和土から仕切りなしに続く、四畳半の部屋の隣の10畳の間だったので、四畳半との間のふすまを開け放つと、かなり広く使えた。
その日はそこに同級の友達がごった返していた。
皆が帰ったあと、母は私がまた発熱するのではと、気が気ではなかったが、幸いに落ち着いていたので、一安心のようであった。
数日後、私はまだ休むようにという母の言葉に逆らって、久し振りに学校に行った。
校門の右側の藤棚から、満開の花の香が漂ってくる。
二宮金次郎の石像の下を通り、校庭の西側の二年生の校舎に入ると直ぐに、私の姿を見付けた友達が駆け寄って来て、また学校に来られるようになって、本当に良かったと喜んでくれた。
あとで知った事なのだが、クラスの皆は、私の病気がとても重く、もう助からないかもしれないと思っていたのだそうだ。
なぜそんな根も葉もない噂が広まったのか分らないが、多分最初に見舞いに来てくれた友達の誰かが、同じ時に我が家を訪れていた客の話を耳にして、その話の内容を私の事と勘違いしたようであった。
その人の奥さんは、つい先日に子宮ガンで亡くなったのだ。
その日も、世話になったお礼にと、挨拶に来てくれたのだが、今思えば、その時の母と客との対話は、相当に深刻だった。
そんな言葉の端々を小耳にはさんだ慌て者が、私が助からない病気だと、勝手に思い込んでしまったようだ。
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- 平成16年4月23日(金曜日)
【晴時々曇】
栄町の薬師堂から、稲荷神社に抜ける道の途中の長屋の一軒に、小さな染色工場があった。
その家と隣の家との間が物置代りになっていて、その中に置かれたミカン箱の中に、まるで小猿のような姿形の子供が寝かされていた。
生まれ落ちて直ぐに奇形と分り、育児を拒んだ母親に代って、その子のお祖母ちゃんが育ててきたのだと聞いた。
年齢は私と同じで、その子の父親と私の父は旧知の仲だった。
その子の存在は近所で知らぬ人もなく、子供達にとっては、残酷な話ではあるが、強い好奇の対象でもあった。
学校からの帰り道に、さりげなく覗き込んでは、家の人に怒鳴られて追い散らされるのだが、またほとぼりがさめた頃になると、悪仲間と示し合せては、スリルに富んだこの悪行を止める事は出来なかった。
その子の身長は生まれたばかりの赤ん坊位で、顔が老人のような事以外は、赤ん坊そのものなのだ。
大抵はうたた寝をしていたが、人の気配にはとても敏感で、私達がどんなに足音を忍ばせて近付いても、必ず気付かれてしまうのだった。
私達に気付くと、その子は「お祖母ちゃん」と大声で泣き叫ぶので、私達は蜘蛛の子を散らすように逃げて来るのだったが、今考えれば、本当にひどい事をしたものだと思う。
赤ん坊の形のまま、知能だけは正常に発達していくというのに、その子の世界は、ほとんど屋外といってよい場所の、小さなミカン箱の中だけなのだ。
どんなに寒い日でも暑い日でも、可哀想だから家の中に入れてやろうと、いくらお祖母ちゃんが頼んでも、その子の両親は、決して家の中に入れてあげる事はなかったという。
私の親は、その子の両親を決して無慈悲な人間とは言わなかった。
むしろ人一倍善良でまじめな人達なのだが、それだけに、自分達の子供が、世にも哀しい姿で生まれたのは、自分達の罪業の結果なのかもしれないと考えてしまい、どうしても我が子を受け入れる事が出来なかったのだと話してくれた。
今なら行政は勿論、場合によっては警察問題にもなったかもしれないだろうが、あの頃は、人が心に限りない柔しさを育てていたのだろうか、そのままそっとしておいてやる事が情と考えていたのだと思う。
その子は結局、生まれたままの姿で生涯を送ったと聞いた。
葬儀はなく、まるで隠れるかのように埋葬されたそうだが、後日、「虐げられた者は幸いである」という言葉を、立ち読みの本屋で見付けた時、なぜかその瞬間、その子の事を思い出した。
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- 平成16年4月22日(木曜日)
【晴】
小学校に入学して直ぐに友達になった佐川は、毎朝新聞配達をして家を助けていた。
新聞は「両毛民友新聞」という名前で、普通のものに比べて、ひとまわり小さかった。
その佐川にすすめられて、私も新聞配達のアルバイトをしようと、学校の帰りに連れて行ってもらった。
案内されたのは足利銀行本店の裏通りのバーだった。
中に入ると、ボックスのひとつに、いかにもその筋の人といった感じのおじさんが、ウイスキーの角ビンを前に座っていた。
佐川が「友達が新聞配達をしたいというので連れて来ました」と告げると、そのおじさんは「そうか、それじゃあ明日から来い」と、あっさり受け入れてくれた。
バーを出て少し行くと塀に(◯◯ボスの新聞、両毛民友を求むな!!)という張り紙がしてあるのが目に入った。
その張り紙がトゲのように心に刺さったまま帰宅し、明日からアルバイトをすると親に告げると、家の中がひっくり返るような騒ぎとなり、そのバイト先が両毛民友新聞だと知ると、両親も兄達も顔を真っ赤にして反対した。
「そりゃあアルバイトをしようという気持ちは偉いけどね、お前はまだ小さいし、何もお前に働いてもらわなくても、別に困る訳じゃないし、第一◯◯というのは普通の人じゃないんだよ。とにかく新聞配達は許さないからね。先方にはこれからお断りに行って来るから」と凄い剣幕であった。
上の姉は「馬鹿だねお前は。こんな小さい子にアルバイトさせるのかって近所の人に思われたら、どれだけみっともないか分らないの」と怒られたが、私にはどうしても働く事がみっともないとは思えなかった。
それから何日間は、佐川の手前、何となく面白くなかったのだが、担任の佐藤先生に呼ばれ、「働こうという気持ちは尊いが、お前はまだ小さいのだから、そんな事は考えずに、一生懸命勉強する事が大切だ」と説教された。
説教を聞きながら、先生の言う事は少し変だなと思った。
なぜかと言うと、どうして佐川は良くて、私はだめなんだろうと思ったからだった。
あの頃は、幼い子らも仕事をしなければならなかったほど、家によっては貧しかったのだ。
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- 平成16年4月21日(水曜日)
【晴】
松井さんがモルヒネ中毒で入院してしばらく経ったある日、父はまたしても人を連れて来た。
何でも、駅で行くあてもなさそうだったので、思わず声を掛けたところが、果して復員して以来、桐生の生家に帰る気にもなれず、あてどなくさまよっていたのだという。
戦争中は将校として部下を死地に追いやった事が、心に深い傷を残してしまったようだと、これは父の言葉であった。
父はこういう人を見過す事が出来ない性分だったし、母も父に輪をかけて情け深い人だったから、結局その人は我が家に居付く事になり、父の仕事の手伝いをするだけではなく、帳簿付けや集金まで引き受けていた。
東京帝大出身で高級将校という前歴の人が、運搬用自転車に大荷物を付けて、太田市や小泉町まで配達したり、汗まみれになって釜場で糸染めしたり、まるで自らに苦行を課しているようだと、大人達はしきりに噂した。
一日の仕事を終えて夕食を済ませ、ひと風呂浴びたあとに、その人と下の兄は、よく二階で歌を歌った。
その人はマンドリンを、下の兄はギターを弾きながらのデュエットであった。
バリトンの澄みきった声が夜の闇の中に流れて、階下の父母や客達は、しばしその声に耳を傾けていた。
その人は私達子供には特に優しかった。
戦争の悲惨さ、戦争の無意味さ、戦争の愚かさを判りやすく話して聞かせてくれた。
その人の生家は、桐生でも指折りの旧家で、家業は織物業だったそうである。
長男が世話になっているというので、親が何度か訪ねて来たが、気持ちの整理がつくまでは家の敷居はまたげない。
そんな事をしたら、自分の命令で死んで行った幾十人もの部下に申し開きが出来ないというのが理由であった。
その頃まだ小学校に行くか行かないかの年齢ではあったが、私には重い十字架を背負って生きる大人の苦悩が、なぜか手に取るように伝わってきた。
慰めの言葉を知らない子供は、黙ってその人の膝に座る事でしか、自分の心を表す事が出来なかった。
新緑の頃に、その人は一通の手紙を残して、前日に集金した有り金を持って、我が家を去って行った。
戦争はかくも深い傷を、おびただしい人達に残し、そして、今も止む事がない。
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- 平成16年4月20日(火曜日)
【晴】
「新水園」は、映画館として作られたのではなく、「末広劇場」や「有楽館」と同じように芝居小屋だった。
それがいつの頃から映画館になったのかは知らないが、兄達はずっと昔に旅回りの芝居を見物した覚えがあるのだと聞いた。
かなりくたびれた外観には、独特の雰囲気があり、入口の左側にある、ガラス張りの掲示板の中に鋲止めしてあるスチール写真も、通を行き交う人の関心をそそるには充分の魅力があった。
向かって右側の入場券売場で券を買い、少しばらつきのある石段を降りて行くと、突き当たりに切符売りのおばさんが一間ほどの木製カウンターのうしろに座っている。
券を渡すと、館の入口を開けて、真っ暗な館内に入る。
座席は木製の長椅子が並べられているだけで、床はなぜかいつも湿っていた。
館内のうしろは石段になっていて、そこに座って観る事も出来るが、誰かがそこに座っているのを見た事がない。
後部の角は売店で、そこだけはいつも明るかった。
舞台の奥にスクリーンがあり、左側はトイレ、右側は喫煙所になっている。
日曜日などは館内は超満員になるので、子供達の一部は舞台の上にあがって観ていたが、少しでも映写を妨げると、座席から怒鳴られた。
大抵は三本立てで、合間には必ずニュース映画がかかるのだが、これがけっこう楽しかった。
インドシナ戦争でフランス軍がベトナムから撤退する場面では、第二次大戦と区別がつかず、まだ戦争が続いているのかと思って大人に笑われた。
警察予備隊の行進練習の場面が出ると、大人達の中から「バカヤロー、また懲りずに戦争始める気か」と罵声が飛び、舞鶴港に復員船が入る場面では「ご苦労様でした。お帰りなさい」と、泣きながら叫んでいる人もいた。
映画のラストシーンで、警官隊がサイレンを鳴らしながら駆け付ける場面になると、館内は万雷の拍手でどよめくのだった。
映画のもうひとつの楽しみは、鑑賞しながらつまむお菓子や食べ物だが、売子や売店から買う人は半分くらいで、大半はおにぎりやさつまいも、煎餅、落花生、お茶、酒などを持参して来ていた。
冬は身も凍るほど寒く、夏は気絶寸前の暑さで、満員の時には、決ってひどい頭痛に悩まされた。
それでも、映画は夢そのものだったし、老若男女全ての人達の最高の楽しみだった。
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- 平成16年4月19日(月曜日)
【曇時々雨】
たけのこの季節になると、子供達は柔らかい皮に数個分の梅肉を挟み、それをしゃぶりながら皮を赤く染める遊びをよくやった。
作り方は、皮の真中に梅肉を置き、ふたつに折って挟むと、皮の元の幅広の部分が、両脇に三角形に飛び出る。
それを身を包むように折り込むと、きれいな三角が出来る。
大きさは作り方によって様々だが、大抵は幅が6〜7cm、長さが10cm前後ほどになるだろうか。
子供達はそれを片手に遊びながら、なるべくゆっくりとしゃぶり続けるのだ。
両脇の角から少しづつ梅肉がにじみ出てくるので、中身は段々と無くなってしまう。
最後に残った皮が、梅肉の色に染まって、きれいな紅色になる。
誰の皮が一番きれいに染まったかを、全員がしゃぶり終わったところで競い合うのだが、不思議な事に信じられないほど公正な判定が出されるのが常で、自画自賛する者や嫌がらせをする者など決していなかった。
もしもそんな事をしようものなら、あいつはきたねえ奴だという事になり、潔さを何よりも重んじた当時の子供にとっては、最悪のレッテルを貼られてしまう。
最後に残った皮には、梅肉の味がしっかりとしみ込んでいるので、食べるとけっこう美味いのだ。
この遊びでいつも勝つのは、ひとつ年上のいとこで、隣に住んでいた京子ちゃんだった。
京子ちゃんは大抵男に混じり泥まみれになって遊びまわっていたので、私達もつい京子ちゃんが女の子である事を忘れてしまい、かなり激しい扱いをしてしまうのだが、京子ちゃんは一向にへこたれないどころか、取っ組み合いのケンカだって男と五分に戦った。
私の直ぐ上の姉は、京子ちゃんよりひとつ年上だった。
いつも家の中で静かに読書したり、母の手伝いをしているので、外で一緒に遊ぶなどという事はほとんどなかった。
京子ちゃんと姉は、全く性質が違っていたのかと思うと、意外に似ているところもあって、私にはそれが不思議であった。
京子ちゃんと私は、毎日一緒に風呂に入らされていたが、私が6年生になった時に、「いやだ一人で入る」と親達に反抗した。
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- 平成16年4月18日(日曜日)
【晴】
日曜日の朝食もそこそこに、外に飛び出ようとしたとたん、祖母に呼び止められ、川向うの叔母の家まで伴をするようにと言い付かってしまった。
しまったと思ったが、もう間に合わない。
祖母は年齢の割には健康そのものであったが、やはり年には勝てないのか、足腰はだいぶ弱くなっていた。
とはいえ、家から約10kmを歩いて行くのだから、今の基準で考えれば、むしろ足腰は達者という事になるのかもしれない。
午前8時頃に家を出て、両毛線の踏切を渡り、緑町2丁目の土橋を通って渡良瀬の土手を越えると、水辺までは広い河原だが、渡し場までの道は、しっかりと踏み固められていて、意外に歩きやすい。
道には私達の他に、向こう岸に渡る何人かの人達が歩いていたので、船頭さんはのんびりと待っていてくれた。
渡し賃を払って向こう岸に着くと、道は急坂となるので、私は祖母の手を引いて土手の上まで引っ張り上げ、続いて急な下り坂を、転ばぬように降ろさなければならない。
土手を降り切った所で一息入れると、土手下の太田街道を横切り、円満寺の深い木陰の下を、東武線の野州山辺駅の方に向かって歩き続ける。
今はその頃の面影はないが、その当時は絵に描いたような農村風景が広がっていた。
道の両脇の農家は全て茅葺で、生垣がどこまでも続いている。
駅に近付くと、家並みがとたんに町屋風に変って、そろそろ叔母の家も近い。
祖母は今日泊る事になり、私はようやく解放されて家に駆け戻ると、帰りを待っていた近所の仲間と連れ立って公園へと向かう。
この季節、公園に行けばいつもお祭が待っていた。
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- 平成16年4月17日(土曜日)
【晴】
雨戸を開けると、外は30cmを越える積雪の上に、少し先もおぼろになるほど降り続けている。
その中を、乳母車を改造した荷車に豆腐の箱を乗せて、いつものようにあいつがやって来た。
「プー、プー」とラッパを吹きながら、雪に埋もれた道を懸命に車を押しているが、やはり幼い子供には無理のようであった。
その様子を見ていたのだろうか、隣のおじさんが外に出て来て、代りに車を雪だまりから出してやり、ついでに豆腐を買ってくれた。
父は母に声を掛けて、母はナベを持って外に飛び出し、あいつの肩を抱くようにして豆腐を買っていたが、やがて手を取って家に連れて来た。
「オース」と私。
「オース」とあいつ。
家が貧しいので、幼くしてバイトに精を出さなければならないのだが、卑屈なところはみじんもなく、むしろ背筋をしゃんと伸ばし、誇らし気でさえあった。
母は温めた牛乳と菓子をふるまい、これは貸すのじゃなくあげるのだからと、ホームスパンの子供用外套を着せてやった。
あいつは喜びをどう表してよいのか分らないのだろう。
ただ黙って笑っていたが、下を見ると盛んに足踏みしていた。
しばらく暖まったあとに、なお降りしきる大雪の中を、あいつは豆腐売りに戻って行った。
早朝に豆腐を売り、学校が終わると、今度は夕方にまた売り歩くのだ。
いくらあの頃とはいえ、小学校1年生のアルバイトなのだ。
その上にバイト料は、ただの1円も自分のものにならず、全て親の手元に入ってしまうのだ。
かと言って、その親は決して無慈悲なのではなく、大人も子供も共に生活を維持するために、力を尽くしているだけなのだ。
そんな家庭がいたる所にあって、そのために家族は強い絆で結ばれていた。
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- 平成16年4月16日(金曜日)
【晴】
母屋で夕食と入浴を済ませ、父母と弟と共に工場の住まいへ戻るために外に出ると、眼前の柳田鉄工所の大屋根の上は、銀白色の天の河が、あたかも流れ落ちるかと思えるほどにたゆたっていた。
夜の闇はあまりに深く、吹く風は花の香を乗せて甘い。
足元さえ定かではない道を、一歩一歩確めながら大通りに出ると、そこには意外なほど人の出が多かった。
午後9時は子供にとっては真夜中だが、大人達にはさほどではないのだろう。
通りを横切り、工場に続く露地に入ると、再び足元は真の闇の中にあった。
工場の住まいに帰ると、父はラジオをつけて床に入り、続いて私達も寝床にもぐり込む。
だからと言って寝る訳ではなく、親子はその日にあった事など、とりとめのない話を交しながらラジオに耳を傾ける。
やがて誰からともなく言葉が途絶え、会話は寝息に変る。
午前4時、父母はもう起き出して、早出の職人達を迎える準備に忙しい。
午前6時、ぼちぼちと通いの人達が出勤して来ると、住み込みの連中も、朝食前の仕事に精を出す。
午前7時、慌しい朝食のはじまり。
食事は母屋の台所と工場の上りかまちの二ヶ所で、私達は母屋に行って食事を摂る。
毎朝立ち寄る納豆屋さんが置いて行く納豆が、食卓の上に山積みになっているので、それぞれが自分のを取って食べる。
おかずは納豆の他には漬物とのり、そして梅干しと煮物、あとはみそ汁と、時には卵が加わる。
私は30分ほど時間をかけて食事を終えると、ランドセルを背負って学校に向かう。
表通りは通学の生徒でいもを洗うような騒ぎ。
自分の前も後も、人の波が目の届く限り続いている。
走る車などほとんどないし、せいぜい自転車が人ごみを縫うように走り過ぎて行くだけである。
- 平成16年4月15日(木曜日)
【晴】
雨の中を傘もささずに、ボロをまとった女の人が、玄関の前に立ち尽くしていた。
その人は公園の古墳跡の石室に最近住みついた、赤ん坊連れの女乞食だとすぐに分った。
脇をすり抜けて家に入ると、台所にいた母にその事を告げた。
母は急いで玄関に出ると、その人を招き入れようとしたが、急に泣き出してその場に座り込んでしまった。
何とかなだめて事情を聞くと、昨夜から子供の様子が変なのだと言う。
母はよくその人に食べ物や小銭を与えていたので、どこにも行くあてのないその人は、思い余って我が家に助けを求めたようであった。
事情を聞くと、母は工場の若衆を一人伴って石室に駆けつけた。
子供達の看護で病気には詳しい母は、赤ん坊の症状をみると顔色を変えてその子を抱きかかえ、公園下の人見医院に飛び込んで、有無を言わせずに診察してもらった。
外科が専門の人見先生も、赤ん坊が肺炎にかかっている事を即座に診断し、当時としてはこれ以上の治療はないという位の入念な手当てをしてくれた。
片時も目を離せない状態の赤ん坊を石室に帰すわけにもいかず、とりあえずは我が家で母子共に預る事にして、母はその人を家に連れ帰って入浴をさせ、母のお古を着替えに与えたあと、食事を与えて休ませた。
その人の名はフサ子だった。
母はその夜一睡もせずに赤ん坊を看病した。
翌朝往診に来た先生から、あと一週間は絶対安静と言われたが、母は一週間どころか、少なくとも一ヶ月は、この母子の面倒をみるつもりだった。
こんな時の母は、背筋が伸びて目は輝き、声までも張りが出るので、子供の私には母の意気込みが手に取るように分るのだった。
結局フサ子さんは、そのまま家に居る事になり、母の手伝いと工場の雑用を、まるで転がるような熱心さで果していた。
半年ほど経った頃だったろうか、フサ子さんの親戚の人が我が家を訪れ、フサ子さんが何で乞食にまで身をやつしていたのか、その事情は全く分らないが、帰郷した後に、時々あった音信もいつか途絶え、10年余が過ぎた時、風の便りにフサ子さんはあれから間もなく病気で死んだと聞いた。
残された赤ん坊は、親戚の手で無事に育ち、今は東大生だという。
弟と二人でよく子守りした赤ん坊だったが、考えるとその子の名前を知らなかった事に気付いた。
葉桜が雨で濡れそぼる頃の、遠い日の話である。
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- 平成16年4月14日(水曜日)
【曇のち雨】
緑町の仲間では人数不足なので、栄町と通7丁目からも応援を出してもらい、何とか50人程度の人数を集めて決戦に臨む事になった。
本町と今福の中学生の兄ちゃんから審判が出て、厳正なルールのもと、八雲神社の神楽殿裏の広場で、公園の東側と西側との果し合いが始まった。
その噂は、たちまち広まって、東からも西からも、それぞれの応援団が集まり、神社の境内は時ならぬ人だかりでお祭のようであった。
本町側の大将は私、西側は誰知れぬ者とてないあいつであった。
中学生の号令で果し合いは始まった。
ルール1、拳で殴ってはいけない
ルール2、足で蹴ってはいけない
ルール3、急所や目を攻撃してはいけない
ルール4、相手がマイッタと言ったらそれ以上攻撃してはいけない
結局、投げるか絞めるか押さえるかしか攻め手がないので、まずケガをする事はなく、勝負の分かれ目は結局胆力に勝る者が勝つ事になる。
両方の熱烈な声援の中を、総勢100名余の勇敢な戦士達が、といっても小学校2年から6年のチビ達であるが、組んずほぐれつの大乱戦を展開した。
双方入り乱れる中を、違反者の監視に走り回るのは中学生の兄ちゃん達である。
戦いのあちこちから、違反者が襟首をつかまれて戦列から引き出され、敗者の屈辱をなめている。
10分20分、そして30分と時間が流れ、残ったのは双方の大将同士であった。
一騎打ちとなった戦場は、異様な静けさに包まれ、勝負は一進一退。
仕方がないので最後はジャンケンで勝負を決めた。
今では考えられない、間の抜けた話である。
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- 平成16年4月13日(火曜日)
【晴】
朝鮮戦争が始まると、地方都市の小さな染色工場にも好景気の波が押し寄せ、子供の目にもそれと分るほど、経済的に豊かになっていった。
あの頃は支払いを銀行口座へ振込むなどという事はめったになく、現金支払いはほとんど直接集金であったので、最盛期には大きなボストンバックに現金を入れて持ち帰ってくるような時もあった。
まだ千円札が発行されていなかったので、最高金額の紙幣は百円札であったから、かなりかさばったという事情もあったかもしれない。
皮肉な事であったが、あの当時の日本は、隣国の悲劇によって、敗戦のどん底から這い上がる機会を得たのかもしれない。
好景気による人手不足を補うために、祖父の妹のつれあい、つまり私にとっては大叔父にあたる人が助っ人としてやって来たのは、その頃の事であった。
小柄で人品のいやしからぬ風貌と、知性の深さを感じさせる目を持った温和な人だったが、信じられないほどの大酒飲みだった。
私は一目でその叔父さんが好きになり、いつもそばにはりつくように過ごしていたが、中でも一番好きだったのは、仕事の終わりに母が出してくれたコップ酒を、この世でこれほど美味いものはないという表情で飲み干す姿を見る時だった。
皿の上に乗せたコップになみなみと注いだ酒は、コップから溢れて皿にたまり、叔父はまず皿の酒をそのままにして、コップの酒をチューッと少しだけ飲むというより吸い込む。
次に余地の生まれたコップに皿の酒を移し、手についた酒を、さももったいないという様子でなめてから、おもむろにコップに口を持っていくと、コップの中の酒は、まるで物理法則を無視したかのように、叔父の口に吸い込まれていく。
酒を飲む前に見せていた、悲壮感さえ漂う表情は、コップ一杯の酒を飲み干した直後には、まるで世界の安らぎを独り占めにしたかのような表情に変貌し、やがて自転車に乗って川向うの我が家へと帰って行くのだった。
大叔父は常に居住まいを崩さない、文字通り武家のしきたりを身上に生きている人だったので、会う度にいつも緊張したが、淡々と語り掛ける静かな口調には、限りなく深い優しさがあった。
「ちゃんと、勉強しておるのか」
「ハイ、先生の言う事をよく聞いて、一生懸命に勉強しています」
「そうか、男はどんな仕事をしても良いが、勉強だけはしっかりしなければだめだぞ」
「ハイ、しっかり勉強します」
「そうか、それで良い、父さん母さんの言う事をよく聞いて、親孝行しなければな」
「ハイ」
いつも、こんな調子であったが、私は大叔父のそんな厳しさがなぜか大好きであった。
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- 平成16年4月12日(月曜日)
【晴】
つつじ祭の夜になると、公園下の広場ではよく素人のど自慢大会が開かれ、地元は勿論、けっこう遠くから、のど自慢達が集まって来た。
歌の伴奏はアコーディオンだけで、歌う曲もだいたい同じような曲が多かった。
異国の岡、人生の並木道、あざみの歌、イヨマンテの夜、さくら貝のうた、湯の町エレジー、上海帰りのリル、別れのプラットホーム、岩壁の母、ツーヤング、枯葉、カモナマイハウス、銀座カンカン娘、東京ブギウギ、りんごの唄、城ヶ島の雨、波ぶの港、帰り船、ダンスパーティの夜、君の名は、お菓子の好きなパリ娘、ペチカ、里の秋、ミカンの花咲く頃、聞かせてよ愛のことばを、愛の讃歌、暗い日曜日、オーソレミヨ、サンタルチア、遥かなるサンタルチア、フニクリフニクラ、カタリー、カミニート、淡き光、エル・チョクロ、スワニー河、オールド・ブラックジョー、
今日も暮れ行く異国の岡に………、泣くな妹よ妹よ泣くな……、山には山の憂いあり、海には海の哀しみが……、麗しきさくら貝ひとつ、去り行ける君に捧げん……、赤いドレスがよく似合う、君とはじめて会ったのは、ダンスパーティの夜だった……、波の背の背に揺られて揺れて……、君の名はとたずねし人あり、その人の名も知らず……、雪の降る夜は楽しいペチカ……、雨は降る降る城ヶ島の磯に……、たとえ山は裂け海は朽ち果てても……、
どの唄にも日本語だけが持つ美しい響きがあった。
ほとんどの出演者は、背筋を伸ばし、きりっと前を見つめ、ひたむきに人生を唄い上げて聴衆の喝采を浴びていた。
古めかしく、所々すり切れてはいるが、精一杯の衣装に身を包み、誇らしくそして高らかに熱唱した。
ある人は涙ながらに、ある人はその都度うなずきながら、ある人はじっと目を閉じ腕を組んで聞き入っていた。
少しくらいの雨でも、皆その場を立ち去らなかった。
子供達も眠い目をこすりながら、一曲の唄に自分の人生の思いを込めて歌う大人達の、切実な心に打たれた。
あの頃、大抵の人は家族や友人、そして恋人や師の死を知る運命を担わされていた。
だから皆が人の痛みを我が事のように知る人達だった。
幼い日々をそんな大人達の中で過ごしてきた。
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- 平成16年4月11日(日曜日)
【晴】
学校から帰ると、庭で見知らぬ人が働いていた。
今日から工場に勤める事になったハルさんだった。
ハルさんはシンガポール攻略作戦に参戦し、その後、敗残兵としてビルマの山野をさまよった末に、マラリアで倒れたところを連合軍に保護され、捕虜生活を送った後に日本に引き上げて来た人だという。
復員してすぐに、ハルさんは戦場で死をみとった多勢の戦友の家を訪ね歩き、その最後の様子を報告する旅に出た。
そうしないと、日本に帰る事になった時から、ハルさんの背中に乗って「俺も日本に連れ帰ってくれ」と哀願する戦友達の重さから解放されなかったのだと聞いた。
普段決して軍歌を歌わなかったハルさんが、祭の酒席で初めて軍歌を歌った。
歌い始めてすぐに、それは歌ではなく絶叫となり、かたく閉じたまぶたを押して、涙がとめどなく流れ、不思議な事に、涙とはうらはらにハルさんは笑っていた。
母も同席の職人さん達も、握った拳を両膝に押し付け、下を向いて暗涙にむせんでいた。
ハルさんは時々、自分の体験をぼつぼつと話して聞かせてくれる事もあった。
それは全て悲惨な話ばかりであったが、なぜか心に強く響いてくるのだった。
無力で名も無き者の一人でしかなかったハルさんの生き様は、そのまま戦争と戦争をおこす者達への痛烈な抗議だったのだと思う。
中には戦争を美化して語る人がいる。
そんな時ハルさんは「てめえ、ふざけるんじゃねえぞ。てめえは一度だって敵の弾を真正面から浴びた事があるんかよ。さっきまで一緒にたばこを吸っていた戦友の顔がふっとんで、脳みそがぶっちらかるのを見た事があるんかよ。まわりでバタバタ仲間が死んでいくんだぞ。一発で死ねりゃあいいが、三日三晩のたうち回って死ぬ奴だってごまんといるんだ。それでも戦争がいいって言うんかよ。知りもしねえで聞いた風な事を言うんじゃねえ」
普段おとなしいハルさんの怒りの前に、皆はただ絶句して沈黙するだけであった。
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- 平成16年4月10日(土曜日)
【晴】
もったりとした宵闇の中に、はっとするほど濃厚な桃の香りが漂って来る。
夕食には少し間がある今頃は、子供にとってあまり好きな時間ではなかった。
そろそろ帰ろうと腰を上げた客のうしろから、「こんばんは」と誰かが訪ねて来た。
見ると、様々の竹細工をリアカーいっぱいに積んだ山窩の清さんが、開け放たれた玄関のガラス戸の外に立っていた。
前の客を送り出し、母は清さんを迎え入れ、みそこしやしょうぎなどいくつかの細工物を買い、これはこちらさんに特別に持って来ましたと、オズオズと差し出した鹿肉の塊も、これは珍しいと大喜びで買った。
足利は日光足尾山地の南端部に接している関係で、昔は町とはいえ、山窩の人達がよく商売に来たのだという。
本来は漂泊の民であった山窩の人達も、戦後は一般人と変らぬ生活をしていたが、やはり時々は昔を懐かしみ、山奥に分け入って沢すじにせぶりを張って数日を過ごすのだという。
先祖から伝えられた藤細工や竹細工の技もさることながら、狩猟採集の民でもあった彼らにとって、鹿や熊などの肉や、キジ、ヤマドリなども、手頃な商品だったのだろうか。
清さんが届けてくれるものの中には、子供の私にとって、ただ気味の悪いとしか思えないものも色々あった。
まむしのみそづけ、ヤマドリのはらわたの塩辛、山椒魚の干物、イモリの黒焼、そして猿の肉。
何でそんな物を食べるのか不思議でならなかったが、それらは食べ物というよりは薬のようなものなのだと、父が教えてくれた。
清さんは大抵何かのオミヤゲを持って来てくれたが、その夜も私を手招きして、手作りの竹笛を手に握らせてくれた。
私はありがとうと礼を言って、そのまま清さんの膝の上に乗って遊んだ。
夕食を一緒にとすすめる母に背を向けて、これから行く所があるからと、清さんは闇の中に消えて行った。
桃の花が香る頃になると、私は清さんの事を思い出す。
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- 平成16年4月9日(金曜日)
【晴】
夜桜見物の人達が、夕靄の中をぼちぼちと出始めた中を、緑町2丁目の踏切を渡ってすぐの「飯島旅館」の土間に入って、「あの〜、ヨッサンはいますか?」と張場に声を掛けると、「あ〃いるよ。二階に上がってみな。もしいなかったら、炊事場にいってみな」
その声を耳にしたのか、ヨッサンが炊事場からナベを片手に出て来た。
「ヨッサン、母さんが晩ごはんは家で食べるようにって」
「おいよ、飯作りかけだけど、すぐに行くからとおかみさんに言っといてな」
「ハイ、分りました。それじゃあね」
「おいよ」
ヨッサンは西行つまり渡り職人で、何年かおきにふらっと家にやって来ては、気が向くと半年近く仕事をして、またふらっと旅に出て行く。
父の話では染色工としては一流であるばかりではなく、渡り職人独特の多彩な技術は、とても役に立つのだそうだ。
祖父の時代まで、立ち寄った西行には、一夜の宿と食事を提供していたのだそうだが、今は住み込みの職人が何人かいるので、近くの旅人宿「飯島旅館」か、長く居座る人には、職人専用の下宿を紹介した。
西行や住み込みの職人の中には、本業の他に副業を持っている人もいて、時計修理や、芸事の教授、変ったところでは杜氏、占い師などもいた。
ヨッサンは指圧の名人で、母はほとんど毎日ヨッサンの指圧治療を受けていた。
私はヨッサンの治療する様子を、いつも飽きずに見ていたが、ある日ヨッサンが「晃坊ちゃん、そんなに指圧が好きなら教えてやるからこっちに来やんせ」と言った。
私は喜び勇んでヨッサンの手ほどきを受けたが、それが仇となって、その後毎晩のように母に指圧をしなければならなくなった。
ヨッサンのおかげで、母の治療を手掛けていた栄町の武市っぁんは、仕事にあぶれて大おくれだったという。
ヨッサンは書も巧みで、気が向くと「吾唯足知」とか「天上天下唯我独尊」とか「一期一会」とか書いて、結構良い小遣い稼ぎをしていた。
同じヨッサンでも、父の弟弟子のボロヨッサンは、琵琶の名手で勿論名取りであった。
まるで乞食のような外見からは想像も出来ないが、演奏会の写真を見ると、それは立派なものだった。
夕食の準備が整う頃、ヨッサンがやって来た。
住み込みの人達を交えての、賑やかな夕食が始まり、食卓には、母の心づくしのおちょうしが並んでいた。
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- 平成16年4月8日(木曜日)
【晴】
福田のおじいちゃんが脳出血で倒れた時には、もうおばあちゃんの痴呆は、子供の目にもそれと分る程進んでいた。
屋敷が人手に渡って、裏庭の一角に建てられた掘建て小屋で暮らすようになってから、私は2つ年下の弟の手を引いて、よくおじいちゃんのところへ遊びに行った。
おじいちゃんは弟を膝の上に乗せて可愛がり、おばあちゃんは干し飯を醤油で味付けしたお菓子を、よく振る舞ってくれた。
おばあちゃんの痴呆が段々重くなり、奇行が目立ってくるようになると、近所の人達はおばあちゃんを柱に縛りつけた。
おばあちゃんは泣き喚いて許しを請い、おじいちゃんは誰かまわず両手を合わせて懇願した。
私の両親は心を砕き、結局おばあちゃんを病院に入院させ、ひとりぼっちになったおじいちゃんは、近所のみんなで面倒をみる事になったが、2月のある夜、おじいちゃんは火の不始末による火事で死んだ。
おじいちゃんの葬式は意外な程多勢の参列者があり、賑やかなものになった。
地元の旧家に相応しく、福田家の墓地は寺の一等地に広々とあった。
おじいちゃんの棺を埋めた後には、長方形の盛土が出来て、その盛土は、そのあと何年もの間、次第に形を崩しながらも、やがて無縁墓地として始末されるまで、消える事はなかった。
私達はその前を通る度に生前のおじいちゃんを思い出し、風の便りに病院で死んだと聞いたおばあちゃんの笑顔も脳裏をよぎった。
墓地の直ぐ上は桜の花見でさんざめき、散策する人達の姿も、深く重なった木の間ごしに見え隠れしている。
私達はそんな雰囲気に訳の分らぬ憤りを感じながら、道すがら摘み取ったタンポポやかたくりの花を墓前に手向けた。
あの頃、公園のいたる所にかたくりが群生し、季節には紫の花を咲かせていた。
桜が散り始める季節になると、なぜか福田のおじいちゃんとおばあちゃんの事を思い出す。
おじいちゃんが逝ったのは、私が小学校2年の時だった。
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- 平成16年4月7日(水曜日)
【晴】
兄のダイナマイト作りは、回数を重ねる毎に完成度が高くなり、得意の模型飛行機に搭載して、動力のバネが半分程緩むと、自動的に落下して爆発する小型爆弾は、もはやおもちゃの領域を越えて、武器といっても過言ではなかった。
何回かの投下実験によって改良を重ねた結果、ほとんど不発のない爆弾が完成した。
いよいよ実験という日の事、隣の柿沼の家に立ち寄って、ぬれ縁に腰を掛けて雑談をしている時に、何気なく脇に置いた爆弾が、縁側を転がり落ちて爆発。
兄と友達が負傷し、縁側の上に吊るしておいた鳥カゴの中のメジロがショック死した上に、奥で寝ていた赤ん坊が気絶した。
今なら大変な騒ぎとなり、場合によれば警察やテレビにも報道されかねないだろうが、あの頃は「あ〃、また渡辺のバカせがれが悪さを始めたな」くらいのところで、たいした事にはならなかった。
それでも母は烈火のごとく怒って、もう二度とダイナマイト作りをしてはいけないと兄に厳命、もし言いつけを守らなかったら、母が嫁入りの時に持って来た懐剣で刺し殺し、かえす刀で自分も死んで、世間に詫びると脅した。
それは母の十八番で、私も何度かその手で脅されたが、脅しと分ってはいても、あの迫力にはどうしても勝てず、平謝りに謝るしか方法がなかった。
兄もオイオイ泣きながら「ごめんなさい、もうしません」を繰り返し繰り返し唱えていた。
それを聞いていた私は、冷たいようではあるが、その約束は絶対に守られる事はないだろうと思っていた。
多分母も同じ気持ちだったのだろうが、近所の手前もあり、その位のパフォーマンスをしないと、示しがつかないのだ。
その場の雰囲気が段々と圧力を増して、もしかしたら、母は本当に懐剣で兄を一突きするのではないかと、本気で思い始めた。
瞬間、「まあまあおかみさん、そこまで怒らなくてもいいじゃないですか。みっちゃんも、こんなに謝っている事だし、今日はひとつ私に免じて許してやってくださいよ。みっちゃん、もうこんな悪さを二度としちゃだめだよ。お母さんによく謝ってな、おじさんも一緒に謝ってやるからさ」
「ハイ、本当にごめんなさい。もう二度としませんから、勘弁してください」
母の顔から厳しさは消えないが、ホッとしているのは誰の目にも分る程で、これで一件落着した事を、その場の全員が実感した。
一番悪い兄は、その直後皆から慰められ、当の被害者からも、背中を撫でられながら、慰められていた。
兄の方はどうでもよいが、兄の友達の腕に巻かれた白い包帯が、やけに目にしみた。
私の小学校2年の時の出来事である。
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- 平成16年4月6日(火曜日)
【晴】
一杯1円のかんしゃく玉には、直径が3mm位の火薬が等間隔に100個ついていて、それを手でちぎってオモチャのピストルに挟み、引鉄をひくとバネの力で火薬が叩かれ、「バーン」と大きな音を発てる。
下の兄はそのかんしゃく玉を100枚ほど買って、毎晩丁寧にほぐすのを仕事にしていた。
取り出した火薬で、手製のダイナマイトを作るためだ。
この火薬は、少しのショックでも発火するので、ほぐしながらよくヤケドをしていたが、親がどんなに叱っても決して止めなかった。
それには訳があって、兄はこのダイナマイトで、公園の弓引場の上の道沿いの崖にある、土蜂の巣を取るつもりなのだ。
何日もの努力が実り、いよいよ今夜蜂の巣を爆破に出掛けるという兄のあとについて行く時、私は興奮のあまり身体が震えて仕方がなかった。
歩いて5分もかからない場所だったが、辺りは鼻をつままれても分らない程の真の闇である。
私の役目は、懐中電灯を持って、ダイナマイトを仕掛ける兄の手元を照らす事で、何かの役に立っているという実感に、足踏みする程の興奮を覚えた。
爆破するのに最も適切な所にダイナマイトを埋め込むと、兄は私を安全な位置まで下がらせ、導火線に灯火すると、全速力で私の隠れている場所に飛び込んで来た。
真っ暗闇の中に導火線の燃える炎が、青白い光を放ちながら、ゆっくりと上に向かって移動して行く。
心臓は今にも飛び出すのではないかと思う程早鐘を打ち、永遠に続くかのような長い時間が過ぎると、突然目の眩むような閃光と、耳をつんざく轟音が、兄と私を押しつつみ、火薬の燃えた時の特有の臭いが襲って来た。
大成功であった。
その直後、兄と私は事前の打ち合わせ通り、後も見ずに家へと逃げ帰って来た。
爆発音の直後に戻って来た兄と私を、母は強い疑いの目で見ていたが、兄はとうとう、あの爆発と自分達とは無関係としらを切り通した。
翌早朝、兄と私はザルを片手に現場に行くと、作戦は見事に成功して、大きな土蜂の巣が、赤土の崖の下に散乱していた。
兄と私は夢中でそれを拾い集めると、まるで戦いの勝利者のような気分で凱旋した。
8歳年上のその兄も、数年前に脳出血を再発し、若くしてこの世を去った。
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- 平成16年4月5日(月曜日)
【晴】
紺の股引きに紺の半天、足袋も手甲も紺づくめの人が、自転車に黒塗りの箱を段重ねに乗せてやって来る。
迎え入れた母の前に、その人は箱を降ろして並べていく。
箱の中身の上にも紺色の布が被せてあり、それをめくると、下には美味しそうな和菓子が並んでいた。
和菓子は一箱に一種類、豆大福、金つば、薄皮まんじゅう、桜もち、羊羹、金玉と、まるで宝石箱のように華やかで美しかった。
来客用のお茶請けにと、母はいつものようにほとんどの種類を数個づつ注文すると、その人は渡された大皿を片手に持ち、注文の品を箸を使って器用に盛り付けていく。
その手際の良さを眺めるのが楽しみで、私はその人が我が家に来ると、いつもそばに付きっきりであった。
何でもその人は、一流の菓子屋で長く修行した人で、腕は人一倍確かであったが、ふとした事で罪を犯してしまい、少しの間刑務所に入っていたのだそうだ。
出所後、その人は新しく出直すために、自分の店を出すつもりで、こうして行商を続けているのだという。
母はその事を知人から知り、出来るだけ協力したいと、訪れる度になるべく沢山買っているのだと、私に聞かせてくれた。
その人の身に付けていたものや、菓子を被せていた布は、藍染めというもので、消毒殺菌効果の強い染め物だという事は、ずっと後で知った。
あの頃は、その人のような生き方をする人間が意外に多くて、文字通り一から出直して着実に基盤を築き上げた人もいた。
そんな人が、ずっと後になって母を訪ねて来た時など、母はまるで自分の事のように泣いて喜んでいた。
恩を受けずに生きる人もいなければ、恩をほどこさずに生きる人もいない。
その事を、もう一度思い返す時が来ているのかもしれない。
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- 平成16年4月4日(日曜日)
【雨】
桜祭りが始まると、公園下の広場には沢山の屋台店が所狭しと立ち並び、ヤキソバやヤキイカの匂い、綿あめやぶっかきあめの甘い匂いなどがゴチャゴチャと混ざり合って、あの祭特有の香りがあふれていた。
少し大き目の音が、あちこちに設置されたスピーカーから流れ、むき出しの土からまき上がる土埃のために、遠くの景色の足元がぼっとかすんで見える。
カラッと晴れた日の桜は、ピンク色というよりは白に近い色をしているのだが、時折陽が雲に遮られると、その瞬間に目にも鮮やかなピンク色に染まるのだった。
幼い子の手にある小遣いでは何かを買う事も出来ず、ただぶらぶらと店をひやかしながら、結局は一本5円のラムネかトコロ天でその日の持ち金は消えてしまう。
広場から公園にのぼって行くには、無数と言って良い程の路が、網の目のように通っているが、その中の大通りのような路を歩く子供など、この近所にはいない。
普段遊びに使う裏道というか、ほとんど獣道のような小路を、自分の背丈の何倍もあるツツジに、なかば本能的に身を隠しながら行くのだった。
公園には、この時期何軒もの桟敷店が生まれ、ゆで玉子やおでんなどを店先で商って道行く人を誘っている。
勿論、酒を出すのが一番の商売なので、大抵の桟敷店は、昼間から多勢の酔客でいっぱいだった。
この時期のもうひとつの名物は「ケンカ」だったが、それは昼間よりも夜が多かったようだ。
夜桜見物に出掛け、道を逸れた暗がりに何人かの人の気配があれば、その半分は「ケンカ」だと思って間違いない。
昼間のケンカは、せいぜい鼻血が出る位が大きい方だが、夜はそんな訳にはいかなくて、時には死人も出る程であった。
近くの組の若い衆で、空手をよく使う人がいた。
この人は私達子供や、近所の人にはとても優しかったが、花見の頃になると、普段では決して目にする事がない程に鋭い目付きになるのだった。
この人は、昼夜を分かたずに公園やその近くを巡回して、「ケンカ」の起きそうな時には止め、始まっているケンカには、恐れ気もなく、その中に割って入り仲裁した。
いわば私設の自警団の一人だった。
そんな人の見えない活躍が、祭の平和と安全を保障していたのだと思う。
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- 平成16年4月3日(土曜日)
【晴】
少女は人里を離れた広野の一軒家に、祖父と二人で暮していた。
近くには遊び相手もなく、いつも一人で野を駆け回っていた。
家の近くを鉄道が一本通っていたので、少女は時々走り過ぎて行く蒸気機関車の機関士に、力いっぱい手を振って迎えるのが日課だった。
やがて機関士達は、手を振りながら線路のかたわらを走る少女に、ドロップや雑誌などのお土産を投げ落とすようになり、ささやかな友情の花が、無人の野に開いたのだったが、昔かたぎの祖父に見とがめられて、他人のほどこしを受けてはならないと少女をきつく叱り、それ以降少女に手を振る事を禁じてしまった。
折も折、少女は重い病にかかり、床に就いてしまった。
少女に会えるのを楽しみにしていた機関士達は、持って来たお土産を野に投げ、いつか少女が、それを見付けて手に取ってくれるのを祈った。
お土産は時と共に風雨にさらされ、やがて朽ちていった。
頑固で人間嫌いの祖父は、少女の病は自分の力で治してみせると、医者にみせる事を拒み、町に出て思いつく限りの薬や食べ物を買い込み、手厚く看護したのだが、少女の病状は日を追う毎に重くなっていった。
そんな時、いつまでたっても姿を見せない少女の身を案じた機関士達は、何人かの代表者を選び、少女の家を捜し当てて訪ねてきた。
代表者達は、けんもほろろの祖父に向かって、少女に手を振って迎えてもらう事が、自分達にどれほど大きな慰めになったかを、切々と訴えるのだった。
そして、もう一度元気な姿に戻った少女に、力いっぱい手を振ってもらうために、ぜひ病院に入院させてくれるように、誠意を込めて説得した。
はじめは、かたくなに拒んでいた祖父も、機関士達の熱意に負けて、少女を病院に入院させる事に同意し、全てを機関士達の好意にゆだねた。
その夜、しばしの別れに暗涙にむせぶ祖父を、少女は優しく慰め、翌朝病院へと我が家をあとにした。
大映映画「緑の野辺に手を振る少女」のあらすじである。
その映画が新水園で放映されると間もなく、両毛線を走る機関車に向かって、力いっぱい手を振りながら見送る子供達の姿があった。
最初は無視していた機関士達も、やがて力いっぱいに手を振り返すようになり、時には急行列車のデッキに立つ制服のお姉さんも、優しく手を振るようになった。
足利公園の南の遊園地から、公園裏のガードを望む崖下から、今泉の煙突を過ぎた辺りから、栄町の踏切辺りまでの渡良瀬川の土手の上から、日紡の工場前の広い畑の中の道から、子供達は懸命に手を振り続け、やがて蒸気機関車に代って、軌道車と呼ばれたガソリンカーが走るようになるまで、そのならわしは続いた。
機関車はその長い車列に、良き時代の美しく穏やかなたくさんの宝物を乗せて、どこか遠くへと去って行ったのかもしれない。
あんなにも優しかった人達、あんなにも潔かった人達、あんなにも誠実な人達、あんなにも爽やかな人達も、走り去って行った長い車列と共に、どこかへ去って行ってしまったようだ。
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- 平成16年4月2日(金曜日)
【晴】
校庭に出てみると、外は強い風になっていた。
登校する時には一緒であった小学校3年と5年の姉達は、まだ授業中なのだろう。
入学して間もない1年生は、大抵午前中で授業が終わり、帰宅する。
傘の用意もなく、家からの迎えもなかったので、降りしきる雨の中をトボトボと歩いて行くと、後ろから声を掛けてくる人がいた。
振り返ると、隣の組の小林さんと、小林さんを迎えに来たお祖母ちゃんだった。
「どうしたの傘がないの。それじゃあ一緒に帰りましょ。お祖母ちゃんこの子傘に入れてあげていいでしょう」
「あ〃そうしておあげ。僕お家どこ?」
「緑町1丁目」
「何てお名前?」
「渡辺晃吉です」
「渡辺って緑町の渡辺染工の渡辺さん?」
「そう」
「なんだそうなの。渡辺さんのお宅の子だったの」
「ねえ、こっちに入って。私と一緒に帰りましょ」
強引に傘の中に入れられ小林さんの家まで行くと、お祖母ちゃんが傘を貸してくれた。
「これをお持ちなさいよ。あとで返してくれればいいからね」
何となく照れくさかったので、お礼もそこそこに借りた傘を手に雨の中を駆けだし、あとは後ろも見ずに家に戻った。
見慣れぬ傘を持ち帰った私を見て問いただす母に、私はその理由を告げた。
母はすぐに手土産と傘を片手に雨の中を出掛けて行ったが、その帰りを待つまでの間、妙な脱力感と悪寒が私を包み、母が帰宅した時には、高い熱も出てきて、その場に崩れていた。
母は大慌てで私を布団に寝かせ、近所の人見医院に駆け付けて行った。
間もなく先生を伴って母が戻ると、私は自分が何かの病気にかかったのを実感した。
母は最初雨に打たれた事が原因と思っていたが、人見先生は首を傾げて、「いや、これは雨に濡れたのが原因じゃないよ。この熱は多分内臓からきているものだと思う」
それからしばらくの間、人見先生は私に色々と質問をしながら、あちこちを押したり叩いたりしていた。
その内、私は強い吐気に襲われて、母が容器を用意するのも間に合わず、その場で嘔吐してしまった。
そのために、人見先生は私が何の病気になったのかを診断できたようで、母に具体的な指示を与えると帰って行った。
「大腸カタル」それが私の病名だった。
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- 平成16年4月1日(木曜日)
【晴】
「あの三千三百二拾番をお願いします」
箱の左側についたハンドルをグルグル廻して、反対側に掛っているラッパのような受話器を耳にあて、ぶっきらぼうで無理矢理嫌な雰囲気で話す交換手に、繋いでもらいたい番号を告げると、まるでこの仕事が芯から嫌いだと言わんばかりの調子で、「三千三百二拾番ですね、あなたは?」「二千百番の2です」
「二千百番の2ですね。受話器を置いてお待ち下さい」と返ってくる。
相手が市内だったら、間もなく電話のベルが鳴り「ハイ、こちら二千百番の2です」と答えると「三千三百二拾番出ました。お話し下さい」とそれは見事にイントネーションのない物言いで告げる。
隣の家のお姉さんは、その当時電報電話局の交換手をしていたが、普段はとても優しくて普通に話の出来る人だったが、時々お姉さんが取り次ぎを担当した時には、まるで別の人のようになってしまう。
近所に住んでいた、物凄く年の離れたいとこも、やはり局に勤めていたが、彼は技術担当であったので、普段も、局の中でも別に同じ調子だった。
あの頃は電話のある家は極めて少なくて、近所の人がよく電話を借りに来たが、終わった後料金を聞くと、その場で教えてくれたので、借りた人は大抵お金を置いていった。
時には三人位が順番を待っていたが、母はそんな時いそいそと客の応待をしていた。
朝から夜おそくまで、本当に人の出入りの途絶える事がなく、一日がまるでお祭騒ぎのように過ぎていく。
特に用事がなくても、通りすがりに立ち寄っていく人も結構多く、湯が沸くのが絶える事はなかった。
お菓子も、冬は落花生や焼きイモ、夏はキュウリを中心とした漬物、季節の野菜の煮物や、ふかしジャガイモ、菜のおひたし、イナゴの佃煮。
甘いものでは豆の煮付け、甘納豆、イモヨウカン、おはぎ、ぼたもち。
変ったところでは大根のたんざく漬や、砂糖をふりかけた梅干、氷砂糖、黒砂糖、時には自家製のトマトやキュウリが、サッと塩をふっただけで出される事もあった。
それらを母は箸で取り、客は手の平で受けて味わい、最後は舌で手の平を掃除する。
あの頃の人達の手は、受け皿の代りだったのだ。
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