アトリエ白美「渡辺肖像画工房」 渡辺晃吉
- 平成16年5月31日(月曜日)
【晴】
N染工所は、公園通りに面して広い門を開け、西に向かって薬師堂の裏まで細長くのびていた。
門を入って直ぐの母屋の奥に釜場があり、そこまでは同じ棟で、幅二間ほどの物置代りの隙間を隔てて、釜場の面と同じ高さのコンクリートの上に建っているために、石段を5〜6段のぼるような感じで出入りする別棟があった。
本来は住み込みの職人が寝泊りしたり、資材をしまっておく倉庫も兼ねていた建物だったのだろうが、その頃は、胸を患っていたお姉さんが、家族と離れて一人治療生活をしていた。
N染工には、ひとつ年上の幼友達もいたし、同じ染色業だった我が家の工場の庭からは、高さ一間半ほどの黒塀を乗り越えると、ちょうどお姉さんの寝ている離れ家の前に出られたので、他人の屋敷内とはいっても、子供にとっては遊び場の延長のようなものだった。
敷地内を自由に出入りする事に文句をつける大人達はいなかったが、ただひとつ、離れ家に近付くのを見とがめられると、決って激しく叱りつけられたものだった。
岡田の叔母さんは、とても心の優しい人だったから、家の北側から簡単に行き来出来る作りも手伝って、直ぐ目の前の離れ家のお姉さんのもとに、足しげく訪ねては、何くれとなく励ましていたらしい。
だから、後年叔母さんが同じ病気になった時、多分離れ家で感染したのだろうと、近所の人達が噂をしているのを、耳にはさんだ事も一度や二度ではなかった。
大人が駄目という事ほど、子供にとっては逆効果になる場合もあるらしく、私も他の仲間と同じように、大人達の目を盗んではお姉さんの所に遊びに行った。
「あんまり度々来てはいけないよ」と言いながらも、お姉さんは私達が遊びに来るのを喜んでいたと思う。
食べ物や飲み物こそご馳走してくれなかったが、「がんくつ王」や「家なき子」、「小公女」や「フランダースの犬」、「母をたずねて三千里」などの読み物を読んで聞かせてくれた。
小柄で色白の、とてもきれいなお姉さんだった。
それまでにも何度か喀血はあったのだろうが、ある夜の事、お姉さんは洗面器から溢れるほどの大量の喀血をしたあと、残っていた最後の命の欠片を使い果たしたのか、家族への感謝とまだ幼い弟妹たちの将来を案じつつ、息を引き取ったという。
息を引き取る寸前まで、その意識は研ぎ澄んでいたと、臨終に立ち会った父と母が話してくれた。
次の朝、いつもの通りN染工の門の前を通ると、近所の人達が慌しく出入りしている様子から、昨夜の話が本当だったのだと、改めて納得しなければならなかった。
あと何日かの後に、お姉さんを送る葬列が家を出る前に、逝く者への供養にと、子供達に配る念仏玉(菓子と小銭)の用意を知らせる銅鑼が、「ジャンボーン、ジャンボーン」と辺りに響き渡るのだろう。
雨にけぶる葬列は、子供にとっても少し重すぎるから、お姉さんを送る日、どうか雨になりませんようにと心から思った。
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- 平成16年5月30日(日曜日)
【晴】
近くに何軒もある酒屋の中の一軒で、店の奥の板の間にでんと置いてある、大きな木の根で作った火鉢の前に座って、一日中酒を飲んでいるおじさんのいる店があった。
客が来ても別に声を掛ける訳でもなく、ただ黙って歯をせせっては、忘れた頃になると、ゆっくりゆっくり盃を口に運んで、また長い間じっと外を眺めている。
火鉢の縁の上には、とても有り合わせとは思えない手間加えた肴と、季節の漬物の皿がいつも乗っていたが、おじさんが料理に箸をつけているところを見た事がなかった。
目が合うと、おじさんは皿を手にとって私に差し出して、食べろという仕草をする時が、極稀にあった。
すると「だめよおじいちゃん、箸をつけたものなんかお客さんに出しちゃ汚いでしょう」と、お嫁さんが叱った。
それでも私は、隠れるようにして料理を指でつまむと、口に放り込んだものだった。
私が笑うと、おじさんも微かに顔の筋肉を動かした。
おじさんは昼過ぎになって近くの銭湯が店開きする頃になると、決って一番風呂に入りに行った。
つるつる顔に手拭いを乗せて、浴衣に草履を引っ掛け、小さな歩幅でゆっくりと少し前のめりで歩いて行く。
季節が頃合になると、湯屋から帰る時のおじさんは、決って越中ふんどしだけで、例によって頭に濡れ手拭いを乗せ、浴衣を小脇に抱えて、気持ち良さそうに道の端を歩いて来た。
おじさんは真っ直ぐに家には帰らず、自分の家から目と鼻の先にある酒屋に立ち寄り、そこのおばさんが一升瓶から注いでくれるコップ酒をひっかけるのが毎日の習慣だった。
その時のおじさんの飲みっぷりは、家にいる時とは全く正反対で、まるで時を惜しむかのように一息で飲み干すのだった。
私は火鉢の前でゆっくりと飲んでいるおじさんの姿も好きだったが、ふんどし一丁で一気にコップ酒をあおる姿も好きだったので、折良く帰路を行くおじさんと出会うと、黙って酒屋まで一緒について行き、おじさんの飲みっぷりを眺めるのが楽しみだった。
そんな時酒屋のおばさんに「コーちゃん悪いけどおじさんと一緒に家まで行ってあげて」と頼まれたので、私はおじさんの手を引いて、50mほど先のおじさんの店まで連れて行った。
おじさんは、夜寝る時と便所に入っている時以外は、いつも酒を離さなかった人に相応しい死に方でこの世を去ったと、後年人づてに聞いた。
今はおじさんの店も、おじさんが通った銭湯もなく、その道筋も区画整理とやらで消え失せてしまった。
あの頃の町内は、例え越中ふんどし一丁で道を歩いていても、違和感がないどころか、むしろ風情さえ醸していたが、今ではとてもそんな訳には行かず、不審者として警察に通報されるのが落ちだろう。
おじさんが生きた時代は、まだ人と人が、当り前のように肩を寄せ合って生きていた時代だった。
夏の兆しがちらほらと見え始める頃になると、私は決ってツルツル頭に手拭いを乗せて、越中ふんどしで道を行くおじさんの姿を思い出す。
おじさんの背には、なぜか夏の陽射しが似合った。
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- 平成16年5月29日(土曜日)
【晴】
堀越山裏の土手下は、この辺では一番深い淵になっていた。
深さはおよそ3mほどもあったから、夏になると泳ぎ達者な者で賑うのだった。
川の淵にはよくある話で、この場所も今までに何人かの犠牲者が出ていた事もあり、本来は遊泳禁止となっていたのだが、あの頃の時代性なのか、結局は各自の判断に任せ、結果は自身の責任として受け入れるという、暗黙の了解があった。
だから、この淵に遊ぶ者の中に、泳ぎの苦手な者などいるはずもなかった。
水泳の得意だった直ぐ上の兄に連れられて、私がこの淵に来たのは、まだ就学前の事だった。
岩壁のような岸に腰を掛け、素足を水につけてパシャパシャしている人達の間で、私も近くにある石を拾っては川に投げて遊んでいた。
兄は時々私の様子を見ながら、泳ぎを楽しむのに夢中だったので、私も独り遊びをするしかなかったのだ。
夢中になって遊んでいる内に、川に投げ入れる石も段々大きくなっていき、ついに石から手を離すタイミングが遅れて、石と共に川底に沈んでしまった。
最初は何が何だかよく分からなかったが、必死になって目を凝らすと、透明な水を通して、整然と並んだ杭の前に振れ動く何本かの足が見えた。
私は幼いながら、あそこまで辿りつければ助かると思い、懸命に手足を動かして水中を移動し、最初に触った足に力一杯つかまって水面に浮かび上がった。
息がつけたとたん、私は大声で泣き喚き、足をつかまれた人は私以上にびっくりしたようだった。
その人は私が水中にいる姿を何となく眺めていたが、誰かが遊んでいて、まさか溺れていると思わなかったのだという。
私が水から助け出された直後、辺りは大騒ぎとなったので、兄は大慌てに慌てて、この事をきつく口止めするために、それから一時間余りを、私の子守りに費やした。
この事は勿論親にも他の家族にも話さなかった。
その淵は今、くるぶしほどの浅瀬になってしまい、昔日の面影の欠片もない。
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- 平成16年5月28日(金曜日)
【曇時々晴】
高際の叔父さんの家に山羊が来たのは、乳を絞って和雄に飲ませるためだと近所の人達が言ったが、和雄一人で飲みきれる訳がないから、たまにはこっちにも廻って来るのかと、密かに期待した。
山羊は館林の叔父さんの実家で飼っていたのを、リアカーに乗せて連れて来た。
私は山羊とその日の内に友達となり、顔を合わせればいつも、頭と頭をくっつけておしくらまんじゅうをして遊んだ。
山羊は物凄い力で押し返すので、私はいつも負けていた。
叔父さんはともかく、叔母さんは子供嫌いだったから、私と山羊が遊ぶのをあまり喜んではいないのが、態度と物腰でよく分かった。
その山羊が子山羊を生んだのは一年後ほど経った頃だったろうか。
そのとたんに、山羊は私が近付くと「メェーメェー」と強く鳴きながら攻撃してくるようになった。
それでも構わずに子山羊をダッコすると、母親の本能なのか本気で噛み付いてきたので、私は体のあちこちに山羊の歯の跡がついてしまった。
山羊は人を噛んだり襲ったりしないというのはウソだと、その時よく分かった。
子山羊が少し大きくなると、一緒に遊んでいても知らんぷりをするようになったので、私はひまさえあれば子山羊と遊ぶだけでなく、公園や川辺の草原に二匹を連れて行って草を食べさせた。
その時には、高際の家では決して出来ない遊びが出来たのだ。
それは母山羊の背中に乗って歩く遊びだが、これをやっているところを見付かると、えらい剣幕で怒られたものだった。
草のある内はいいが、冬になるとワラが主なエサになり、何だか二匹が可哀想だった。
ある日学校から帰ると、小屋の中に山羊がいなかった。
不信に思い叔母さんに尋ねると、もう飼い切れないから、館林の実家に連れて行ってしまったと言った。
私はガッカリして家に戻ると、何とか家で飼ってくれないかと親に泣き付いたが、その時我が家にはシェパードがいたので許してもらえず、その時が私と山羊との別れとなった。
私はいつか必ず山羊を飼うぞと、その時心に誓った。
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- 平成16年5月27日(木曜日)
【曇】
堀越商店は、我が家の庭先の道を西に抜けて、逆さ川沿いの道を右に曲がった最初の角にあった。
幅が二間にも満たない逆さ川は、江戸中期の一大土木事業によって作られた灌漑用水路だが、南北に低く横たわる丘陵である足利公園のすそを巻いて流れているために、川沿いの道の反対側に建ち並ぶ家々の直ぐ背後には、見上げるほどの緑の連なりがせまって来て、風雅な佇まいの風景が続いていた。
そんな風景の中にあった堀越商店は、黒々とした柱や棚、そしてほの暗い店の中に、明治時代からの長い時を積み重ねていた。
母の言い付けで堀越商店に行ってみると、店には誰もいなかったが、声を掛けると店の奥から「裏に廻ってちょうだい」とおばさんの声。
私は「ウン」と返事をして今来た道を戻り、店の裏手に廻った。
一間ほどの間口のガラス戸の一方が開いて、中の様子が見えたが、直ぐの所に布団が敷かれ、そこにおじさん(といっても80歳近い年だった)が腹を出して寝ていた。
その脇には、鈴木医院の大先生が座って聴診器を使っていた。
ふとおじさんの腹を見ると、そこには太い針が刺さっていて、針の根元から黒いホースが、大先生の反対側の金ダライに伸びていた。
金ダライの中には、少し濁った水が半分ほど入っていて、少しづつ水かさが増しているようだった。
「おじさん痛くないの?」と聞くと、「あ〃、少しも痛くないよ」と笑いながら答えたが、あんな太い針を刺されて痛くないなんて、とても信じられなかったので、恐る恐る大先生の方を盗み見ると、大先生は黒くて大きなカバンの中から、銀色に光る箱を出して、その中から物凄く大きな注射器を出しているところだった。
「今度いたずらしたら、これと同じ注射をするからな」と、大先生は笑いながら私に言った。
ウソだと分かっていたし、絶対そう言うと予測はしていたが、やはり現物を見せられて言われると、背中がこわばるほど怖かった。
使いの事などすっかり忘れてしまい、大急ぎで逃げ帰って来ると、母が「どうしたの、お使いは忘れずに出来たの」と言った。
私は何も答えずに慌てて引き返して行ったが、大先生の白衣が家の中にチラホラするのが目に入って来て、どうしても近くに行く事が出来なかった。
そんな様子を庭先から見ていた母が、声を掛けられずにいる私のそばまでやって来て「どうしたの何でそんな所にいるの」と叱った。
私は「だって、大先生が注射するって言うんだもの」と答えると、「バカだね、大先生はふざけて言ってるだけなんだよ」と笑った。
結局私は母の使いを果す事が出来ず、何とも面白くない気分でいたが、いくら強がってみても、あの白衣と黒いカバンと、聴診器と銀色に光る箱と、何よりもそばに寄るとぷうんと匂ってくる薬の匂いは、この世で一番嫌いで怖いものだったから、絶対に勝てないと思った。
子供にとって、白衣を着た人は全部敵で、注射をしたり傷口を洗ったりしないだけ、人さらいの方がずっとましだった。
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- 平成16年5月26日(水曜日)
【晴】
栄町の叔父の家に行く母と共に、渡良瀬の土手を歩いていると、直ぐ脇の草むらから大きな殿様バッタが、人の接近に驚いて飛び出し、数メートル先の草の上に止まった。
私は母の小言も耳に入らずに、またとない獲物を絶対に捕まえようと、必死で追い回した。
ふと気付くと、母の姿がどこにもなかった。
我を忘れて必死で探す私の目に、遥か遠くを行く青い矢絣と白い日傘が飛び込んで来た。
私は夢中で母を追ったが、かなり距離が離れていた事と、大人と子供の足の差で、どうしても追いつく事が出来なかった。
それでも半分泣きべそをかきながら、母を見失うまいと必死で目をこらし、その姿が渡良瀬橋を渡って行くのを確め、汗まみれで走って行った。
ようやく橋の半分まで来た所で、橋を渡り終えて左に曲がり、駅の方に向かって行く母が、角に消えて行く姿をとらえた。
私はどこか見知らぬ土地に捨てられたような恐怖と悲しさで、ワァワァ泣きながら走って行った。
橋を渡り終えて角を曲がったとたん、直ぐ目の前の店の前にいる母を見付け、思わずとりすがってみると、その人は母ではなく、全くの別人だった。
私は死ぬほどの絶望に襲われ、ただ辺り構わずに大泣きする事以外に、なす術がなかった。
事の重大さに人が集まって来て、泣き喚く私をなだめすかして、何とか事情が飲み込めたのか、店のおじさんが自転車のうしろに私を乗せて、とにかく家まで送る事になった。
おじさんに貰ったトマトを抱えて自転車に乗せてもらい、もと来た道を引き返して行くと、向こうから見覚えのある人達がやって来た。
栄町の叔父さんと、従兄のタカちゃんと、心配のあまり顔をひきつらせた母だった。
「よかった、よかった」と喜ぶおじさんに、母は何度も何度も顔を下げて礼を言っていた。
あとで分かったのだが、母は私が殿様バッタを追い駆けた直後に、直ぐ近くの叔父の家に行くために土手を下りたのだそうだ。
通い慣れた道なので、てっきり自分のあとを私がついて来たものと思い込んで叔父の家まで行ってしまい、私がいない事に気付いて驚いてしまったらしい。
ずっと以前に、姉がひとり川で事故死しているために、その時の母の驚きと恐怖は並大抵のものではなかったという。
直ぐに人を頼んで、まず土手下の川を探し、そのあと流れに沿って橋近くまで来た時に、私を乗せた自転車と出会った事になる。
それにしても偶然とはいえ、母と同じ矢絣の着物を着た人が、私達の前を歩いていたとは、何とも不思議な話である。
それから間もなく、私は膝に大ケガをして、半年余りの治療生活を送る事になった。
満5歳の事である。
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- 平成16年5月25日(火曜日)
【晴】
工場で残業していた職人のYさんが、血相を変えて母屋に飛び込んで来たのは、間もなく午後7時になろうかという時だった。
「すみません、おかみさんか親方か、どっちか工場に来てくれませんか。Sの野郎がまた訳の分んねえ事を喚いて暴れだしやがって、どうにも手がつけられねえんですよ」
それを聞くが早いか、慌てて立ち上がる親よりも早く、私は外に走り出していた。
こういう時の早さは、かまいたちか私かと言われるほど、誰にも負けなかった。
工場に駆け付けてみると、Sさんが数人掛りで押さえつけられていたが、それでも振り払われてしまうかと思うほど、すさまじい力で抵抗していた。
「てめえらふざけんなよ、ぶっ殺してやる、人を馬鹿にしやがって、影でコソコソ言いてえ放題の事ほざきやがって。ぶっ殺してやる、ちくしょうめ」
「誰もおめえの事を影で悪口なんか言ってねえじゃねえか。そりゃあおめえの思い過ごしだよ。だから落ちつけよ。これ以上暴れると、またおまわり呼ばなけりゃなんなくなるぞ。隣近所もあるんだから静かにしろよ」
皆の上に立つMさんが、Sさんを押さえつけながら必死になだめていた。
「バカヤロー、おまわり呼べばいいじゃねえか。おまわり呼べよ。早く呼ばねえかよ」
たまりかねたMさんが警察に連絡しようと立ち上がった直後に、父と母が小走りで工場の庭に入って来た。
父は皆にSさんを立ち上がらせて手を離すように言い付け、皆が恐る恐る言う通りにすると、物も言わずに思い切り殴りつけた。
Sさんは黙って、上体をふらふらとさせていたが、やがてその場に土下座して泣きながら皆に詫びるのだった。
戦争中に常用した覚醒剤の後遺症なのだそうだ。
Sさんはどんなに我を忘れても、父と母の言う事だけは聞いた。
幸いな事に、暴れはしても人を傷つけた事はなかったので、たとえ警察に連れて行かれても翌日には帰されて来た。
普段は無口でおとなしく、仕事は陰日向なくする方なので、時々暴れさえしなければ、文句のつけようがないのにと、親は不幸なSさんの身の上に、深く同情していた。
暴れた次の日、Sさんは大抵仕事を休んで家で寝ていたが、そんなSさんの家に、私は母の言い付けでよく使いに行った。
にぎりめしと漬物、そして焼魚か煮物といった食い物を届けるためだった。
Sさんの家は栄町の露地裏にあった長屋の一番奥で、ガラス戸を開けると、長さ二間幅半間位の土間が、あがりかまちと台所で、その奥が六畳一間の部屋になっていた。
部屋は意外と整頓されていて、全体にさっぱりとした雰囲気だったが、水道は共用なので、水はカメに汲み置きのようだった。
Sさんは起きていたので、持って来た食い物を渡すと、「おかみさんによろしくな」と言って、それを脇に置いた。
どうやら直ぐには食べないらしいと思ったので、私は「上がっていい?」と聞いた。
「いいよ、上がんな」
私はいそいそと部屋に上がると、いつものようにSさんが大事にしている本棚に近付き、断りもなく中から本を引き出して見せてもらった。
本棚には、日露戦争からのさまざまな戦争場面やエピソードを描いたマンガの本が、ぎっしりと並んでいた。
Sさんの家に来る度に、私はこの本を見せてもらうのが楽しみだった。
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- 平成16年5月24日(月曜日)
【曇】
ペタン(メンコ)には丸形と長方形の二種類があって、描かれているものにも、源義経や弁慶などの歴史上の人物や、黄金バットや怪人二十面相などの架空の人物、マッカーサーや毛沢東、吉田茂などの政治家や、長谷川一夫や田中絹代などの映画スターなどの人物を中心に、日本や世界の名所旧跡、車や戦車、飛行機や戦艦などもあった。
変ったところでは世界の首都、国内県別の代表的産物の絵などがあったが、何だか勉強させられているようで人気はなかった。
大きさは長方形のもので7cm×4cm位、丸形は直径1cmほどの小さいものから、15cmを越える大きなものまで種類は多かった。
遊び方にも何種類かあって、一番簡単なのは、相手のペタンの脇に自分のペタンを強く叩き付けて、相手のペタンを裏返すと勝ちで、負けた方は勝った方に自分のペタンを取られるというルール。
裏返すだけでなく、相手のペタンの下に自分のペタンが入り込めば、それも勝ちとするというルールもあった。
もうひとつは、地面に書いた円陣の中に決められた枚数を入れ、別に用意した戦い専用のペタンで、円陣の中のペタンを外に出して争うというルールがあり、これが一番面白かった。
一回の打ち込みで円陣の外にペタンが出せれば、また挑戦する事が出来るから、円陣の中のペタンを全部取ってしまう事も可能だが、戦い用のペタンが円陣の中に残ったり、線に少しでも触れていれば、その回の収穫は無効となってしまうので、遊びとはいえ、けっこう複雑なかけひきが必要なのだ。
特に順番の最初の方は、円陣の中に沢山あるペタンが、かえって自分をつかまえる罠になってしまう場合もあるので、よほど良い場所に打ち込まない限りかえって危険なので、むしろ空打ちしてパスした方が安全な時もある。
円陣の中のペタンは、参加する人数にもよるが、あまり多すぎても面白くないので、大抵は5〜6人位が一組になった。
土がむき出しの地面を使う時には、そこを皆でピカピカに磨いた。
よく叩きしめて平らにしたあと、手の平で丁寧に擦り続けると、まるで泥ダンゴのように光ってくるのだ。
アスファルトの通りの端でやる時には、表面を整地する必要がない代りに、打ち込む時の力加減を調節しないと、ペタンが思わぬ方向に飛んで行くので、けっこう気を使った。
学校では、ペタンとタマッキ(ビー玉)、そしてベーごま遊びは、賭博性があるので、良くないから、出来るだけやらないようにと注意したが、実際にはそれほど強く指導するという訳ではなく、出来るならやらない方が良いという位のものだった。
ただし、学校への持ち込みは、見付かると没収された。
それでも皆カバンの中に隠し持って来ていて、休み時間にはお互いの持ち駒を相手と交換し合った。
一度だけだったが、桜祭りの行事のひとつとして「子供ペタン大会」が開かれた事があり、元町の子供達が我も我もと参加した。
しかし、学校側と警察からの助言で、大会はその時だけの幻の大会となってしまい、私達を心底ガッカリさせた。
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- 平成16年5月23日(日曜日)
【曇】
合唱団の練習は、昼食後の昼休みと放課後だった。
放課後は仕方がないとしても、昼休みは色々と付き合いもあるので、よくさぼった。
あまりさぼるので、音楽指導の先生からの訴えで、担任のK先生が私を探しに来て、襟首をつかまえて音楽室に引っ張って行った。
今度さぼったら講堂の倉庫に入れると脅され、嫌々練習に参加させられたが、それでも講堂の倉庫に入れられるよりは、練習の方がずっと良かった。
講堂の倉庫は、正面舞台の両脇のドアから入るのだが、まるで地下牢か化物屋敷のような恐ろしい場所の上に、昔から幽霊が出るという話が伝わっていて、その事を誰一人知らない者はいなかったのだ。
だから、大抵の悪ガキも、講堂の倉庫というお仕置きの前には、全面降伏するしかなかった。
言う事を聞かないと倉庫に入れるという脅しに負けて昼休みの練習に出るようになった事は、たちまち噂になり、いつもつるんでいる仲間達は、昼休みになると用もないのに音楽室の窓の下を通り過ぎながら、わざとらしく中を覗き込んで、私と目が合う度に、ふんと鼻を鳴らして行くのだ。
(あんちくしょうめら)と心では思っても、部屋を飛び出して追い駆けて行く訳にもいかないので、仕方なく我慢したが、いつかきっとやっつけてやると固く誓った。
放課後の練習は短くて二時間位だった。
最初は「コールユーブンゲン」を中心とした発声練習を30分ほど続け、その後にコンクール曲の自由曲練習、そして、その年の課題曲が発表されていれば、それが練習の中心になった。
ピアノ伴奏は同じクラスの内田政子さんが専門に担当し、副担任が補佐した。
昼休み練習は毎日で、放課後練習は、コンクール間近までは土・日が休みだったので、どうやらいつもの仲間との交流の糸が切れずにすんだのは幸いだった。
しかし、付き合う友達のタイプが時と共に次第に変っていくのが少しづつ肌で感じるようになると、私は何だか淋しかった。
課題曲と自由曲が仕上ると、その他のレパートリーからの曲も何曲か入れて、全校生徒の前で発表する日がやって来る。
そんな時は出来るだけ前列に立たなくてすむように祈るのだったが、どんなに嫌でも顔を隠す訳にはいかないので、けっきょくは発表会が終ってからの何日間は、私の前を通り過ぎる悪ガキが「わああらあべええわああみいたありい〜」とすっとんきょうな声を出しながら、両手をひらひらさせるのを追い駆けるのに忙しくなるのだった。
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- 平成16年5月22日(土曜日)
【曇のち雨】
高橋の叔母さんが5人目の子供を産む夜、家族は皆我が家に泊る事になり、お産を手伝う近所のおばさん達の慌しい出入りも重なって、大人も子供もまるでお祭のように浮き立った気分だった。
夕食も終り、子供達は枕を並べて床につかされたが、とても寝られるような雰囲気ではなかった。
大人達の話の切れ切れを聞くと、叔母さんは大変な難産で、このままだと母子共に生命が危ないのだという。
叔母さんのそばには、産婆さんと人見先生が付きっきりで様子をみているから心配するなと、母がヒトシさんやオブチン、そしてマー公とアカタンを励ます声が、タヌキ寝入りをしている私の耳に入って来る。
薄目を開けてヒトシさん達の顔を見ると、さっきとはまるで違って、今にも泣きそうな顔だった。
時間は刻々と過ぎて行き、人の出入りは益々慌しくなって、やがて真夜中を過ぎる頃、母が再び私達の枕元に来ると、ヒトシさん達を起こして言った。
「お前達の母さんは、それこそ命懸けで頑張ったけれど、このままでは母さんも赤ん坊も助からないかもしれない。だから、どちらか一方の命を救うために、どちらかが死ぬ事になるけれど、そこでお前達に聞いておきたい。どちらに助かってもらいたいか」
高橋の叔父さんも母のかたわらに座って、固く握った拳を膝の上に乗せてうつむいていた。
「母ちゃんを助けてください」
一瞬の間も置かずにヒトシさんが答え、そのあとに全員が同じ意見を口にすると、あとは皆黙ってうつむき、ポロポロと涙を流していた。
「そうか、分かった。何も心配しなくていいよ。お前達の母さんを死なすような事は決してしないから、もう心配しないで寝なさい」
母はそう言って皆を慰めると、また叔母さんの家に行くために、その場を立った。
赤ん坊を死産させて、母体もどうやら大丈夫という知らせが届いたのは、もう明け方近くになっていた。
私は時折目覚め、また眠りに落ちるを繰り返していたが、おそらくヒトシさん達は、寝られぬ長い夜を過ごしたのだろう。
間もなく、近所の手伝いの人達の心づくしの炊き出しが振る舞われ、早々に起き出した私達も食卓につくと、戻った母がその場に居た人達に「もう心配ないそうですよ。あとはしばらくの間体を休める事が大切だから、家族みんなで力を合わせていたわってあげなくちゃね」と告げた。
ヒトシさん達は、心からホッとした顔で私達を見ていた。
その朝の食事は、本当に美味かった。
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- 平成16年5月21日(金曜日)
【雨のち晴】
校門の前では、時々ゴザを広げて色々な物を売る人達がいた。
大抵はオモチャだったが、中には今で言うアイデア文具のようなものも売られている事があった。
鉛筆の先を入れて廻すと、誰でもきれいに削れる鉛筆削りは、文房具店に並ぶ前に、もう既に露店に並んでいたと思う。
面白かったのは、幅が5mm位の細長いブリキ板を木の葉型に丸め、その間に薄いゴムを張った口琴は、唇にくわえて息を吹くと、チャルメラに似た音が出た。
練習すると簡単なメロディーや言葉のような表現も出来たし、値段も10円位だったのでよく買った。
影絵のような元絵と印画紙と箱がセットになっていた天日写真は、何度試しても失敗で、なけなしの小遣いがむなしく消えてしまったのを嘆いた。
ガリ板刷りの「秘伝気合遠当ての術」は、売り手のおじさんが1mほど離れて立つこけしを、気合もろとも倒す実演が効いて、先を争って買ったものだった。
それからしばらくの間、校舎裏やゲタ箱の影、露地の隅や通りすがりの家の中から「イヤーッ」とか「ウォーッ」とか、まるで犬がしめ殺される時のような声がしていた。
結局「気合遠当ての術」は誰も成功した者がいなかったのか、いつの間にか消えてしまった。
同じ運命を辿ったものに「神秘の催眠術」と「これさえ読めば暗記の達人」があったが、何度騙されてもなかなか懲りなかったのは、結構面白かったからだと思う。
あやしい物を売ったおじさんは、その後二度と姿をあらわす事はない。
ただ、同じ物を違うおじさんが売っている事はよくあるので、その辺が商売上の秘密なのかもしれない。
「頭の良くなる薬」は、誰も絶対にウソだと思ったが、これが結構よく売れるのだ。
5cm幅位の紙袋に入った白い粉は、おじさんの説明によれば、遠くアマゾンの密林の奥深くにしかない特別の木の実から作られたもので、これを飲んだおかげで、今までいくら勉強しても出来なかった掛け算や割り算は勿論、分数も直ぐに分かるようになるのだそうだ。
絶対にウソだと思いながら、もしも本当だったら大損するという気持ちに追い立てられ、ついお金を出してしまうのだった。
一時間目が始まる前に、担任の先生が「今朝校門の前で頭の良くなる薬を売っていたけれど、この中には、まさかあんなインチキな薬を買ったバカはいないだろうね」と、皆をじろっと睨みながら言った。
女の子のクスクス笑いと、前列の奴らのソワソワで事がバレてしまい、「本当にバカなんだから。あんなもの飲んだって、勉強しなけりゃ出来るようになんかならないんだよ。買った者は前に出なさい」と、結局は買った者全員が黒板前に立たされた。
全部で15人いた。
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- 平成16年5月20日(木曜日)
【曇】
自転車に乗れるようになったのは小学校二年の一学期だった。
隣の政明ちゃんが付き切りで教えてくれた。
勿論子供用自転車など有る訳がなく、大人の、それもごっつい運搬車と呼ばれる自転車を使っての練習だったから、何度も何度も転んでは起きるの繰り返しで覚えた。
乗れるようになったら使いに行けと、父に言い付かった最初のお使いは、通4丁目にあった金物屋まで、工場の釜の焚き口用ドストルを買って来る事だった。
その店までは、家を出て緑町北、通7丁目、通6丁目、通5丁目と、ちょっとした勇気が必要な道程を走破しなければならない。
私は与えられた使命と、長い道程を乗り切る事の重大さに、思わず武者震いをした。
父に教わったドストルの寸法と本数を忘れないように、何度も頭に叩き込み、代金は恵比寿講の時に神社がくれる黄色の金入れに入れて持たされたが、何だか時代劇に出てくるようなサイフだったので、すごく嫌だった。
家から通7丁目の四つ角までの約700mは、いつも学校に行く道なので気も楽に走る事が出来た。
途中で通りに出ていた堀江八百屋のおじさんと、小島菓子屋のおばさんが「おっ、乗れるようになったんだ、よかったね」と声を掛けてくれた。
「父ちゃんのお使いっ」と大声で答え、この位はへっちゃらとばかりに強くペダルを踏んで先を急いだ。
7丁目の四つ角を右に折れて、本通りを東に進みたいのだが、公園通りとは道幅も人の通りも全然違うために、自転車に乗ったまま渡る事が出来ず、降りて転がして横断したが、それでも怖かった。
今とは違い、車は時々通る乗合バスと、オート三輪かトラック位だからあまり怖くはないが、その代り自転車と道を歩く人の数が多くて、その流れに乗って走るのは、やっと乗れるようになった子供にとって、一瞬の気も抜けないほどの緊張感が必要だった。
それでも習いたてと思われるのがしゃくだから、虚勢を張って何とか通5丁目の四つ角までは降りずに走った。
しかし、突っ張りもここまでで、5丁目の四つ角は、まるでサハラ砂漠と同じような広さで目の前に広がっていた。
自転車を降りると、ハンドルは目と同じ位の位置になるので、乗るよりも転がす方が大変なのだ。
結局、道の途中で自転車をひっくり返してしまい、通り掛りの大人に助けられたが、目的の店に辿り着くまでには、二度も倒してしまった。
やっとの思いで店に入り、ドストルを出してもらったが、それを見て呆然とした。
ドストルは鋳鉄製で長さが50cm、重さは一本で4kgほどあり、それが5本だから20kgもの重さになるのだ。
到底一人では荷掛けに括り付けられないので、店の人が座布団みたいに大きな荷掛けの上に、しっかりと止めてくれた。
「大丈夫か、気を付けて行けよ」と心配そうな店の人の声を背に、決死の覚悟で自転車に乗った。
これだけの重さを荷に乗せたら、乗らずに転がして行くのは無理なのだ。
しかし、乗ったら家に着くまでは自転車から降りる事は出来ない。
なにしろつま先でペダルを踏んでいても、下のペダルには足が届かないのだ。
いったんサドルにまたがったら、どんなに足を伸ばしても、地面までは15cm以上長さが足りないから、自転車を降りる時は、荷掛けの荷の重さで必ず倒れてしまう。
信じられないほど長く感じた道程を、なんとか無事に家まで辿り着き、庭の糸干し場にいた父に「買ってきたよ、買ってきたよ」と大声で叫ぶと、全身の力が一気に抜けてしまった。
もう倒れるという寸前にハンドルをおさえてもらって地上に降り立った時には、あまりの誇らしさに胸が張り裂けるような気がした。
15円のおつりはご褒美に貰った。
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- 平成16年5月19日(水曜日)
【曇のち雨】
「通報、通報、只今給食室より出火。全員直ちに第一避難所に避難せよ」
定期的に実施される避難訓練の始まりの合図は、大抵の場合体育のT先生の役割だった。
(なぁんだ、また第一避難所か。つまんねえの)と腹の中で毒づきながら、担任の先生の指示に従って避難を開始した。
「起立、手をおさえて、回れ右、一班から順に昇降口に急げ」
避難手順はこんな調子で進むのだが、手をおさえてとは、左手で右手を脇におさえ付けて使えないようにする事だ。
回れ右は右足を真後ろに引き、両足を軸に180°回転して真後ろを向く事。
教室の廊下側が第一班で、大抵のクラスは六班まであったから、めいめいが勝手に行動したら大変な騒ぎになってしまう。
急げといっても走る事は厳禁で、すり足の急ぎ足が原則。
この日に限って上履きのまま外に出られるので、それだけでも嬉しいのだが、避難場所がいつも第一避難所の校庭というのが気に入らなかった。
因みに第二避難所は、私達の西小学校の北にある県立足利工業高校で、第三避難所は足利公園だった。
避難行動中絶対にしてはいけないのは、前を行く人を押す事と、列からはみ出して勝手に行動する事、そして走る事だ。
校庭に出ると、既に消防車が待機していて、発煙筒の煙がもくもくと立ち込める辺りを目掛けて放水を開始するのだった。
「ウォーッ」という歓声が校庭をどよもし、誰からともなくわき立った拍手が、いつまでも鳴り止まない。
消防士のおじさんの話のあとに、校長の訓辞が続き、台上の先生の指示に従って教室に戻る。
避難訓練の日は、事前に知らされてはいるが、いつ始めるのかは分からないから、その日はスリリングで楽しかった。
教室に戻ると、いつも担任の先生の小言が待っていた。
避難訓練中は笑ってはいけないとか、誰と誰が左手を離したとか、そんな内容だったが、誰もがシュンとして拝聴した。
その訳は、避難訓練の事前に、火災現場の記念写真を、校庭に設置された臨時展示場で見せられるからだった。
特に衝撃的なのは、色々な焼死体が写っている写真だ。
あれを見せられると、理屈ぬきに火事は怖いものだと、嫌でも分からされてしまう。
もっと凄いのは、やはり校庭を会場に警察が展示する、交通事故で死亡した人間の現場写真だった。
手足や首が飛んだ死体や、原形を留めない写真も凄かったが、一番ショックなのは、腹が破れて腸がはみ出しているのに、顔は無傷で目を開けたまま無表情で死んでいる子供の写真だった。
その日から数日の間は、皆少し気がおかしくなっていた。
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- 平成16年5月18日(火曜日)
【曇】
母の行き付けの髪結いの周藤さんの店は、西宮の三宝院山門の斜め向かいにあった。
電話がほとんどない時代だったから、髪結いで留守の母に用のある人が訪ねて来ると、よく私が使いに出された。
家から周藤さんの店まで、子供の足では長い道程だった。
それでも、遠方に使いに出されるのが何となく偉くなった気分がして、けっこう嬉しかった。
道草を食うなと強く言われているから、行く道は小走りも入れて時をかせぎ、用が済んでの帰り道は、ぶらぶらと道草を食い放題だった。
一徳酒屋の店先のたぬきの置物とにらめっこしたあとに、道の反対側の角丸建具の仕事場の前で、父と幼なじみの叔父さんの仕事ぶりをしばらく見物し、すぐ向かいの根岸建具屋の仕事場も覗くのを忘れなかった。
両方の仕事場とも、通りに面した間口を広く開け、ほとんど地面と同じ高さの板の間には、香り高いカンナくずが積っていた。
とりとめのない会話のあとに仕事場を離れ、大谷歯医者の看板を横目で睨みながら、内山薬局のウインドに展示してある、回虫とさなだ虫の標本の前にしばらく足を止める。
こいつは何度見ても気味の悪い代物だった。
次の角はうなぎ屋の鳥常で、出っぱなしの水を満々と受けた大きな石の水槽の中には、コイとフナが泳いでいた。
その脇では、うなぎを器用にさばきながら、いつものおじさんが声を掛けてくる。
腹痛をおこすと、母が決って鳥常からフナの洗いを出前してもらったので、店の人とは顔なじみだった。
顔なじみといえば、緑町から7丁目までの通りにある店の人とは、ほとんど顔なじみだった。
鳥常を出て堀越の門の前を過ぎると、道の反対側に舟定があった。
ここの草雲羊羹と芋羊羹は父の大好物だ。
東京の舟和は、舟定から出た人が開いた店だと聞いた。
何を買うでもなく店先に佇むと、薄甘い餡の香りに混じって、自家製アイスクリームの香りも鼻をくすぐってくる。
隣の柿沼米屋では、一日中精米機が動いていたから、店先は隣とは大違いの糠の香りだった。
精米が終ると、ブリキ製の大きな楕円形で、一方に急須のつぎ口の親方のような口の付いた容器にあけ、その口に麻袋を当てて流し込む様子が面白かった。
店の中には、米の他に麦や豆、そば、小麦粉、何種類もの砂糖と塩などが置いてあった。
使い込んで要所が磨かれたように光っているハカリが、デンと置いてあるのも他の店と同じだった。
福厳寺大門通りの角にある鈴木写真屋は鈴木煙草屋と言った方が店の雰囲気に合っていたが、小さなウインドの中に飾ってあるせんざんこうの剥製は、いつ見ても面白かった。
あんな変な生き物がこの世にはいるんだと、本当に不思議だった。
鈴木写真屋の前の八代自転車屋は、おばさんは優しかったがおじさんが怖かったので素通りして、毎日家に遊びに来る魚栄のおじさんの店の前で、大きなまな板を使って、目にも止まらぬ早さで魚をさばいていく仲良しのお兄ちゃんと立ち話してから家に帰ったとたん、目から星が飛び出るほどのゲンコをもらった。
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- 平成16年5月17日(月曜日)
【曇】
その日は待ちに待った映画鑑賞の日だった。
四年の全クラスが「有楽館」まで二列縦隊で進む。
学校前のさかさ川に沿って、織姫神社参道下までが500m。
そこから北仲通りに入って「ヘビ屋」の前を通り、足利信金裏を右に入ると、もうそこは「有楽館」で全長1.5kmほどの行進だ。
歩調をとるほどではないが、隊列を乱す奴は一人もいないのは、毎日のように分列行進をやらされているからだろう。
小学校に入学して最初に覚える事は、自分の組と並び順だった。
あの頃は登校して教室に入ると、始業時間前に全員が校庭に出て朝礼を受ける。
その時は全学年が朝礼台に向かって組順に二列で整列する。
そのために覚える所作が、「右にならえ」と「前にならえ」だった。
「右にならえ」は自分の右手を横に水平に伸ばし、右隣との間隔を整えるもの。
「前にならえ」は両手を前に水平に伸ばし、前の人との間隔を整えるものだった。
並び順は背の高さ順だったので、時々入れ替えがあった。
朝礼台に立つ先生の号令で、下は6歳のヨチヨチから、上は11歳の悪ガキまでの約2,000名の生徒が、一斉に列を整えていくさまは、今の学校では見られない戦前戦中の名残を留めた、あの時代までの校風だったのかもしれない。
朝礼後に自由解散する場合は、そのまま下校する時に限られていて、普通は行進曲に従って各学年の校舎昇降口まで行進して混乱を防いだ。
行進曲が流されると、先導の先生の号令がはじまる。
「足ぶみい、はじめっ」、この号令で全員がその場で足ぶみする。
勿論両手を振りながらである。
次に「一年一組っ前にいっすすめっ」と号令がかかり、担任に先導されたチビ共が、一生懸命な割にはヘタクソな行進で隊列から離れて行く。
そのあとは両翼から次々に集団を離れ、曲が終るまでには全員校舎近くに散開するのだ。
校外行事で市内を歩く時にも、今ほど交通事情が危険ではなかったが、整然と進み他を妨害する事はなかった。
第一そんな事にでもなったら、引率の先生の恥になった。
映画は「おらあ三太だ」と原爆記録映画「広島」だった。
被爆の衝撃的映像に耐えられず、何人かが気分を悪くして退場していった。
完全ノーカット画面を10歳の子供が見るのだが、その事の意味は実に大きく、害となるものは何ひとつなかった。
全ての日本人の背に、まだ戦火のほてりが消えない頃の、「平和」への切なる願いを込めた教育現場だった。
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- 平成16年5月16日(日曜日)
【曇のち雨】
一口にチャンバラといっても、さまざまのスタイルがあって、ただやみくもに振り廻す「ぶん廻し」は、最も格調のないものとして皆の冷笑の的となった。
「何だ、あいつは、ぶん廻ししか出来ねえじゃねえか」と、口から口へと伝えられて行き、最後には仲間外れにさえなった。
仲間外れは勿論チャンバラごっこの時だけで、他の遊びはいつものように仲良くやったのだが、不運な事に、チャンバラごっこは色々な遊びの中で一番多かったから、結局はいつも仲間外れにされていたようなものだった。
チャンバラに使う刀を、その辺の棒切れで間に合わす奴など、「みそっカス」以外には考えられない。
皆それぞれに工夫してつば付きの木刀を作り、丁寧に使っていたが、中には自分で作る事が出来ない奴もいた。
そんな時には、手先の器用なガキ大将が、そいつの代りに作ってやった。
チャンバラごっこの前には、切り方と受け方を徹底的に稽古して、見苦しい立ち廻りをしないように注意するのも、ガキ大将の大切な使命だった。
模範となったのは、新水園で観た時代劇で、大河内伝次郎や、あらかん、片岡千恵蔵、古いところではばんつまなどを見習った。
そればかりではなく、洋画でも海賊物や騎士物が盛んに上映されたので、剣を使ったチャンバラもよくやった。
洋画の良さは、どこの家にでもある風呂敷が役立って、全員マント姿になれる事と、公園のいたる所に生えていた笹竹が、かっこうの剣になった事だった。
背中にはボール紙で作った矢立てと弓を背負い、手には剣を持って走り回る姿は、やっている本人が子供だから良いが、もし同じ事を大人がしていたら、完全にいかれてると思われても仕方がない。
チャンバラごっこは、ただ敵味方に分かれて切り合うなどという野暮なものではなく、その都度厳然とした筋書きがあって、洗練された雰囲気を失わずに進行させなくてはならなかった。
ガキ大将は、主役と監督、その上に演出家の役割も兼ねて、はじめて皆から高い評価を受けられたのだ。
公園のいたる所が、時には城に、時には砦に、時には秘密基地に、時には牢獄になった。
捕われの身の姫や殿様を救ったり、敵の砦を急襲したり、敵の大将と一気打ちをしたりと、想像の翼はどこまでも広がって限りがなかった。
一対一の勝負も、チャンバラには大切な要素で、特に名勝負の再現は、勝敗が決っているだけに難しかった。
小次郎が武蔵に勝ってしまう訳にはいかないし、武蔵になりたい奴はいても、小次郎になりたい奴はいないからだ。
変則的なチャンバラとしては、西部劇のインディアンと主人公や、海賊と正義のヒーローが繰り広げる、ナイフを使っての決斗の再現だった。
これにはスマートな形と雰囲気を創造するだけのセンスが要求された。
近場にある色々な物を引っ張り出して、船の甲板や荒野の岩場が作られ、完全にその気になった二人は、周囲をぐるりと見物人に囲まれ、それを見てあざ笑う大人の視線を気にもせず、映画顔負けの大決斗シーンを演じるのだった。
「おーい、どっちかがおっ死んだら、早くそこを片付けるんだぞ。じゃまで仕事にならねえからな」
こっちがその気になっている最中に、職人頭の元さんが声を掛けたので、せっかく膨らんでいた想像の世界が、音を発てて崩れて行った。
- 平成16年5月15日(土曜日)
【晴】
あの頃の子供は、してはいけない事と、しなければいけない事が山ほどあった。
してはいけない事は、まず無駄遣い、買い食い、いつまでも遊ぶ事、流行歌を歌う事、長々と食事をする事、いつまでも起きている事、朝寝坊、おしゃれ、けんか、口ごたえ、言い訳、お菓子を食べる事、かき氷を食べる事、贅沢、給食を残す事、好き嫌い、持ち物を壊す事、寝小便をする事、体を洗わずに風呂に入る事、床屋をさぼる事、道草を食う事、弱い者いじめ、その他枚挙のいとまがない。
しなければいけない事は、勉強、宿題、お使い、家の手伝い、早寝早起き、親の言う事を良く聞く、先生の言う事を良く聞く、歯みがき、物を大切にする事、小さい子やお年寄りをいたわる事、整理整頓、礼儀正しくする事、清潔にする事、背筋を真っ直ぐにする事、叱られる時は相手の目を見る事、その他やはり枚挙のいとまなし。
昔とはいえ、よくもまあこれだけ沢山の事を子供に押し付けたものだ。
この内のどれだけを、当の大人が実行できるというんだろうか。
言われる度に、いつも腹の中で思っていた。
よくやられた訳の分らない事の中に、「ハーイ、両手をうしろに回して。目を閉じて。全員の動きが止まるまで、目を開けられなーい」というやつがあった。
その当時から、あれは絶対にウソだと思った。
60名近い生徒の全員が、ピクリとも動かない事なんてあるはずがない。
仮にそれが出来たとしても、あの行為にどんな意味があったのか、今もってよく分らない。
目をつぶって静止していると精神統一になると考えての事なら、少なくても私の場合には全く逆効果で、そんな時には大抵「ああ、また始めやがった。やらせる方は面白いかもしれないが、やらされる方は全然面白くねえよ。ああ、早く終らねえかな」である。
友達に聞いても、誰一人として精神統一になったと言った奴はいなかった。
あれって、本当に何のためだったのだろうか。
もうひとつは、風呂から出る前に100数えなければならない事。
あれって逆に健康に良くなかったような気がする。
その証拠には、時々目の前がくらっとする事があった。
頭寒足熱とか言って、室内とはいえ水も凍るほど冷えた所で勉強させられたが、あれは何にもならない。
やはり、せめてこたつに入り半天を羽織っての方が身に付く。
ブルブルふるえながら勉強したって身に付くはずがない。
親にそう訴えると、決ってお坊さんの修行の話をされた。
(俺はお坊さんじゃねえや)腹の中ではそう思ったが、口には出せなかった。
今とは違い、暖房といえば茶の間のこたつくらいのもので、自分の部屋にストーブやこたつのある奴なんか、ほとんどいなかったと思う。
だから冬の勉強は、家の人が仕事をしている内に、こたつに入ってやるのが日常で、それでも来客があったり、近所の人が来たりすれば容赦なく追い立てられ、すごすごと逃げ出したものだった。
それから歯みがき体操というのも、訳の分らないもののひとつだった。
何でも戦争中に作られたものなのだそうで、78回転のSPレコードをかけると、「ジャンジャカ・ジャンジャカ・ジャンジャカジャンジャンジャーン」という前奏のあとに、まるで軍隊の号令のような大声で「足を開けえっ、左手を腰にいっ、左上からっ始めえっ」という調子で続いたあと、妙に優しい女の子の声で「このようにいっ、朝も夜寝る前にもおっ、忘れずに歯をっ、みがきましょう」で終る。
最初にこれをやった時、終ったとたん先生も生徒も全員その場で笑い転げてしまった。
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- 平成16年5月14日(金曜日)
【晴】
はしかにかかって苦しい何日かが過ぎたある日、長兄の友人の熊谷さんが、袋いっぱいの黒あめを見舞いに持って来てくれた。
口にするものといえば、きんかんのせんじ汁とおも湯くらいだったので、とても嬉しかった。
その時私は玄関前の四畳半の隣の部屋に寝かされていた。
母が客の応待をしながら、私を介護するためである。
部屋の間のふすまを開け放っているので、頭の方には枕屏風が立っていて客の目からは隠れていたが、すぐ身近に人の気配を感じて心が和んだ。
屏風にはにわとりの絵が描かれていた。
目を開けると、にわとりがいつもこっちを睨んでいる気がして少し怖かった。
足利公園の白石山房を画室に創作活動をしていた、幕末から明治の南画家「田崎草雲」の作だという。
土地柄なのか、この辺は草雲の作品を持つ家が多かった。
我が家にも屏風や掛け軸、そして額絵などが数点あったようだが、今はどこに行ったのか全く分らない。
病む子にとって家人が寝静まる夜は辛かった。
それでも隣に寝ている母は、私の身動きするわずかな気配にも目を覚まして様子をみてくれた。
夜が明けるまでの長い時間を、眠りと目覚めを繰り返す日々も過ぎて、体が楽になって来ると同時に、寝ている事が段々辛くなって来る。
食事も普通食になり、少しの間なら床の上に起き上がる事を許されたある日、頑張ったご褒美にと「寿司」をとってくれた。
醤油がないからとソースを付けながら食べた寿司は、それでも驚くほど美味かった。
今になって思うと、醤油がないというのは大ウソで、あれは義姉が、子供のくせに寿司を食うとは贅沢とばかりに私への嫌がらせだったのだろう。
ソース味が、私の寿司の原体験となった。
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- 平成16年5月13日(木曜日)
【曇】
子供達にとって三文字英語は、大抵の場合嫌なものの印だった。
DDT、BHC、BCG、PTA、
DDTとBHCは白い粉の殺虫剤で、校庭に並んで順番に頭からかけられた。
空気入れ位の大きな噴射機を使って、まず頭髪に吹き付けると、次はシャツの前と後から体に吹き込むのだ。
BCGもやはり校庭に並んで順番を待つから、段々と自分の番が近付いて来ると、中には怖さのあまりに泣き出す奴もいた。
今はもう種痘はやらないのだろうが、あの頃は消毒液の入ったトレイの中にギラギラ光るメスが5〜6本つかっていて、それが陽に反射するのが目に飛び込んで来ると、ゾッと首をすくめたくなったものだ。
PTAは親が学校に来るから皆嫌いだった。
何が嫌かといって、親が学校に来るくらい嫌な事はなかった。
だから授業参観の知らせは、全部捨てて家には持ち帰らなかった。
だいたい、校庭を使ってやる事にろくなものはなく、子供にとっては校庭に整列という指示があるのが何より怖かった。
まず各種の予防注射は、大抵は校庭が実施場所だったし、歯の検査や色盲検査も校庭が使われた。
子供には関係なかったが、大人達が受ける色々な試験会場にも、校庭はよく使われたが、これは見ていて面白かった。
並べた木の箱に石炭をシャベルで投げ入れるボイラーの試験や、一周100mのトラックを走ったり、ウンテイをのぼったりする消防士の試験は結構面白かったが、中にはいったい何の試験なのか、よく分らないものもあった。
近くのテント屋のおじさんも、帆布の裁断を校庭の隅でよくやっていた。
ハサミはジョキジョキと使わなくても、ずっと押すだけで切れるのだという事を、このおじさんに教わった。
上級生達の役割であった本の虫干しは、校庭に花が咲いたようできれいだったばかりでなく、何となく儀式めいた厳粛さがあって、かたわらを通る子供達の顔も、本を並べる上級生達の顔も、心なしか引き締っていた。
雑草が生える頃になると、校庭の隅や校舎の裏などの草刈りが年に数回行われた。
これは三年生以上の全員が参加する午前中二時間ほどの楽しい行事だったが、左利きの私は、皆と鎌の使い方が逆なので、いつも列の一番左と決っていた。
親もさすがに左手用の鎌までは用意してくれないので、普通の鎌を使う都合上、刃が外を向いてしまい、左側の友達が危険なのだ。
鎌は一応刃物だから、家から学校に持参する時には、刃を手拭いで巻いて運んだ。
使う時に少しでも切れ味を良くしておこうと、大半の者は前日にしっかりと砥いで来ていた。
あの当時、砥石のない家は皆無で、小学生ともなれば一応の刃物は自分で砥ぐ事が出来たし、安全カミソリの刃を使った鉛筆削りが文房具屋に並ぶ前は、皆鉛筆箱の中に小刀を入れて使っていたから、時々砥がなければ使い物にならなかったのだ。
小刀は大抵肥後守で、値段は10円から20円だったろうか。
折りたたみ式で、普段は銀色のサヤに納まっている。
肥後守は鉛筆削りだけでなく、工作やおもちゃ作りには無くてはならぬ、男の子の必需品であった。
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- 平成16年5月12日(水曜日)
【曇】
「先生、便所へ行って来ていいですか」
さっきからそわそわしていたAが、手をあげて言った。
「ダメだよ、何で休み時間に行かなかったんだ。次の授業の用意をしたり、便所に行ったりするために休み時間があるって、先生がいつも言ってるだろう。ダメッ、次の休み時間まで待ってなさい」
一年四組の教室は、本校舎の東に南北にのびる平屋の木造校舎の一番南だった。
便所は東校舎と本校舎の東端を結ぶ渡り廊下のつけ根の所にあった。
教室からは相当離れていたから、つい面倒になって行きそびれてしまう事も時々あったので、Aの奴もきっとそれかなと思っていたが、少し経つとまた「先生、腹が痛いんで便所に行って来ていいですか」と、懇願するように言った。
「ダメだよ、今は授業中なんだから終わるまで我慢しなさい」
担任のS先生は、とても優しくて良い先生だったが、その頃の教師にはよくいたタイプの、厳格なしつけを生徒に課する人でもあった。
怒るととても怖い先生だったから、Aは必死で我慢していたが、ついに半ベソをかきながら「先生、便所に行かせて下さい」とまたも頼み込んだ。
その時のAの顔色は、青を通り越して黄色っぽくなっていた。
さすがの先生も、これ以上我慢をさせるのは無理と思ったのか、「よし行って来い。これからは休み時間に済ませるんだぞ」とAを便所に行かせてやった。
それからどの位経ったのか、Aはなかなか教室に戻って来なかった。
先生は心配して、私に様子をみて来るようにと言った。
東校舎から渡り廊下までは、石段を三段ほど下るために、石段の上に立つと、便所棟が見下ろせた。
Aの首から上が、女便所の半分開いたガラス戸から見えたので、「A、どうした?まだ終らないのか」と声を掛けると、Aは土気色の顔をこっちに向けて、もうほとんど泣きながら、「パンツのヒモがほどけねえよう」と訴えるのだった。
「何、ほどけねえんだったらヒモ切っちまえよ。早くしねえと先生にまた怒られるぞ」
「ヤダよ、ヒモ切ったりしたら母ちゃんに怒られるよう」
「じゃあ早くヒモほどいてしちゃえよ。そうじゃないともらしちゃうぞ」
その一言が良くなかったのだろう、今まで必死にこらえていた最後の壁が崩れ、Aの顔はみるみる内にクシャクシャになって、わーっと泣き出し「もらしちゃったあ、もらしちゃったあ」と叫ぶのだった。
私は急いで教室に戻り「先生、Aがパンツのヒモがほどけなくてウンコもらしました」と告げた。
先生は「何ィ、もらしちゃったのか。しようがねえな」と、とりあえず授業を中断して隣の教室に駆け込んだ。
一年三組はM先生という女の先生だった。
「M先生すみません、うちの生徒が今、便所でもらしちゃったんですが、助けてもらえますか」
「あらっ、それは大変、今すぐ行きますから」と教室を出て便所に走った。
なぜだか分らないが、私も先生と一緒に便所に行き、泣き喚くAの世話をする様子をずっと見ていたのだが、先生は別にとがめなかった。
M先生に肩を抱きかかえられながら、ガニ股で保健室に向かうAのあとに、所々Aのウンコが落ちていた。
私はAがすごく可哀想だった。
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- 平成16年5月11日(火曜日)
【晴】
河原から砂利を運ぶ荷馬車の馬方と道沿いのガキ共とは、文字通り仇同志の仲だった。
通り道の物影に隠れて馬車をやり過し、荷台のうしろに取り付いて遊ぼうとしても、馬方は一枚も二枚も上手をいっていて、荷台に乗ったとたん手に持った竹のムチを振りかざしながら駆け寄って来て、思い切りひっぱたくのだった。
「このでれすけ野郎共が。何度言ったら分るんだ。てめえらのために馬引いてるんじゃねえんだぞ。ぶっ殺されなきゃ分かんねえのか」
大の大人が手加減せずに振り下ろすムチの痛さは、やられてみた者でなければ分らない。
痛いだけではなく、あとにできる真っ赤なミミズ腫れが、親に見付かると、「また馬車にいたずらしたね」という言葉と共に、思い切り尻を叩かれる事になる。
荷馬車の荷台に飛び乗るのが、なぜそれほど悪い事なのか、どうしても分らなかったが、実は以前に、ふざけて馬車に飛び乗った子供が、足を踏み外して落ちたところを轢かれて死んだ事があったのだそうだ。
それ以来、馬車に飛び乗ろうとする子供を、厳しく叱るようになったという訳で、馬方が決して意地悪だったのではないという事が分ると、ムチの痛さも我慢が出来た。
馬方は皆似たような格好をしていた。
頭には幅が5cm位にたたんだ手拭いを巻いて、クレープシャツの上に半天を着て、毛糸の腹巻とニッカズボン、足は地下足袋だった。
夏になると麦わら帽子を被ったが、どういう訳か帽子の上から手拭いを巻いている人が多かった。
片手で手綱を握り、片手にムチを持っているけれど、それで馬を叩いているのを見た事がないので、ムチはもっぱら悪ガキ用だったのだろう。
馬車は前輪が後輪より少し小さくて、四つともゴムタイヤが入っていたから、大八車のようにガラガラと音を発てて進む事はなく、パカパカという馬の蹄の音だけがいやに大きく響くのだった。
馬は俗に駄馬と呼ばれた荷引き専用のでかい奴で、乗馬用のそれに比べると相当不恰好だったが、長いまつ毛と大きな目は、とても可愛かった。
糞は歩きながらするが、オシッコは止まっている時でないとしなかった。
その代り一旦始まると、物凄い量をいつまでもしているので、辺りは馬の小便だらけになるのだった。
通りを自動車が走ると、子供達は珍しさの余り、そのあとを追い駆けて、排気ガスのニオイを楽しんだ。
公園の広場から折り返す乗合バスは、カーキ色のボンネットバスで、時々見かけるハイヤーは全て黒一色の箱型だった。
通りの真中に立っていても、ほとんど危険はなかった時代だった。
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- 平成16年5月10日(月曜日)
【雨】
正門脇の二宮金次郎の石像の下に坐って、一緒に帰る友達がいないか待っていると、担任のK先生につかまって校舎に連れ戻された。
最初は何で連れ戻されるか分らずに、どんな悪戯がバレたのかと、思わず首をすくめたが、今日から合唱団の練習が始まるので、その顔合わせをする事になっていたのを、うっかり忘れていたのだ。
学校を代表する合唱団は、四年生以上一クラス四名位で編成されていたので、全体では60名近い人数になった。
団員は担任と音楽の先生が一方的に選択するため、選ばれた者は嫌でも何でも参加するしかないのだ。
一学期の頭の音楽の時間に、簡単な試験があったから、多分その時の結果で団員が決ったのだろう。
ひとつは発声練習で、先生がピアノで弾いた一節を聴いて、「ハイッ」を合図に「アーアーアーアーーーー」というやつだった。
もうひとつは、先生が弾いた和音を聴き取る試験で、ボーンと弾いた直後に「ド・ミ・ソ」とか「ファ・ラ・ド」とか答えるやつだ。
和音の聴き取りはほとんどの奴が苦手だったが、発声練習は特に女子は上手だった。
しかし、大抵は「こぶし」を入れたり音さぐりをするので、それを先生はとても嫌がった。
あの頃は、歌謡曲や軽音楽は低級な音楽という偏見が強く、そういう歌を口ずさむ子供は不良といわれた。
それが正しいとすれば、子供達の大半は不良だった。
一音の音階から次の音の音階の間に他の音を入れず、ましてや「こぶし」「うら声」を入れずに発声出来る者は限られていて、おおかたは普段よく歌っている流行歌と同じ歌い方で、発声は当然地声だった。
先生は地声の発声を目のかたきにして怒ったが、私はひそかに「どうしてそんな汚い歌い方をするの」とわめきたてる姿が面白くて、次の奴も地声で歌わないかなと期待した。
ベルカント唱法なんて、あの当時の悪ガキ共にやれと言っても無理だと思った。
姓の関係で出席簿の一番最後になる私の番が来ると、教室の中に、間もなく授業から解放される期待のあまり、声なきどよめきがわき起こって来るのが分った。
「アーアーアーアー」の最後、思わず「……と来たもんだ」と入れてしまうと、教室中が爆笑の渦となってしまった。
(しまった)と思ったが後の祭で、激怒した先生に出席簿で頭をひっぱたかれたあげく、昼休み中職員室前の廊下に立たされた。
そんな事があったので、合唱団に選抜された時には本当にびっくりしたが、姉達や母親は、これで私も少しはおとなしくなるだろうと密かに期待したらしく、担任の先生にも、そのような話をしたという。
卒業までの三年間、大過なく役割を果したものの、母や担任の先生の密かな期待は、見事に裏切られた。
私は最後までトム・ソーヤである事を止めなかった。
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- 平成16年5月9日(日曜日)
【曇のち雨】
四年の一学期も終わって、そろそろ夏休みが近付く頃に、転校生が来る事になった。
担任のK先生は、転校生が登校する前に何か伝えておきたい事があるらしく、ある日改まってこんな話をした。
その子は神経の一部に障害があって尿意を感じる事が出来ず、いつもオシメをしているのだという。
私達がその事を種にからかったりいじめたりしたら、先生は絶対に許さないからそのつもりでいるように。
弱い者や身体の不自由な者をいたぶる奴など人間のクズだから、このクラスに置く事は出来ない。
一人でどこか山の奥にでも入って暮しなさい。
私達がまだ何もしない内から、顔を真っ赤にして怒っていた。
何日か経ってSという転校生がやって来た。
目が大きく穏やかな顔立ちの子だったが、その表情には、いつもおびえが見えていた。
たしかに腰のあたりが異常にふくれていて、ズボンも特別にあつらえたもののようだった。
S君の席は私の左隣に決った。
慣れないクラスと皆の好奇な視線に、少しおどおどしているS君は、席についても落ち付けないのか、絶えずすわる位置をずらせていた。
私は「S君、僕は緑町だけれど家はどこ?」と話しかけてみた。
するとS君は助かったとばかりに「僕は通5丁目で鉄橋の近く」と答えた。
「何だすぐ近くじゃないか。今度遊びに行くよ」
「うん、来てよ。待ってるから」
私は結局S君のガード役を引き受ける事になったのだが、先生はそれを期待して、S君の席を隣に持って来たのだと、後日に聞かされた。
S君の近くに行くと、オシメにしみた尿が強く臭ったので、まだ子供だった私達のほとんどは彼に近付かなかった。
腕力では学年でもトップクラスだった私が、校内では無論、学校から帰ったあともよく一緒にいるのは衆知の事だったから、S君に直接悪さをしかける奴はいなかったものの、S君はやはり孤独だった。
この学校に転校して来る前は、どんな毎日だったのか彼の家に行くと容易に想像できた。
決して豊かではないのは、何となく分るS君の家庭だったが、S君は私など及びもつかない沢山の本を持っていて、それがとても自慢だったようだ。
「少年王」や「冒険王」、「探偵王」、「譚海」、「少年少女世界文学全集」、「少年少女探偵冒険小説全集」。
決して新しくはないが、丁寧に読んでいるのが手に取るように分り、整然と納まっている本棚は、S君の部屋のほとんどを占めていた。
S君はおそらく、一日のほとんどを本を友に過ごして来たのだろう。
私はよくS君を近くの河原に連れ出したり、家に呼んで公園を案内して遊んだが、それはS君よりもお母さんにとって何より嬉しかったようだ。
お母さんの話によると、S君の障害は手術で良くなる可能性もあるのだが、その手術には大きな危険が伴っていて、成功しても下半身がマヒしてしまうかもしれないのだそうだ。
そんな辛さにじっと耐えているS君を、私は心から尊敬した。
ある日、登校してみるとS君が欠席していた。
一時間目の始めに、先生がS君の転校を告げた。
(あ〃っ)と私は心の中で叫んでいた。
昨日珍しくS君が自分から訪ねて来て、砂鉄がいっぱい入ったビンと、S君の本の中で私が一番好きだった、南洋一郎の「獅子王の宝剣」を「これあげるよ」と置いていったのだ。
あれはS君の別れの挨拶だったと気付いた時、私からは何もS君にあげられなかった事を心の底から悔いた。
放課後、その足でS君の家に急いだが、もう無人だった。
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- 平成16年5月8日(土曜日)
【晴】
公園裏の崖下を流れる蓮台寺川は、途中から白石山房の下を穿った水路を抜けて逆さ川となり、市の北部の田畑を潤す灌漑用水となり、一方は大きく東に弧を描いて、緑町2丁目の土橋の下から、新水園の南を流れて渡良瀬川本流に入る。
土橋下の船着場は、渡良瀬川最上流の廻船問屋のもので、祖母の若い頃には、百石船が白帆をなびかせて上って来ていたのだそうだ。
江戸との交易のための水路を、沢山の船が行き来する様子は、文字通り絵のような美しさだったと聞いた。
キャサリン台風のすぐあとから始まった堤防補強工事の前には、土橋を渡って渡良瀬の川岸までは、何の障害もない平らな河原が続いていた。
最初はニセアカシアなどの林が続き、やがて草地が広がって、それがまばらになると砂浜になる。
波打ち際には砂金のような黄鉄鉱と黒い砂鉄が帯を作っていた。
草地にはヒバリの巣、小砂利の原にはセキレイの巣がよく見付かったが、あまりいたずらはしなかった。
そのかわり、自生する桑の木が季節になると付ける実は、腹をこわすからと止める親の小言など無視して、皆と貪り食った。
あまり美味くはなかったが、葦の芯や野甘草の白い茎なども食べられた。
夏には野いちごがいっぱい実り、形の悪さに反して意外に甘い実は、子供達にとっては手頃なおやつだった。
初夏に林の中に分け入り、篠竹の竹の子を採って、川原でおこした焚火で蒸し焼きにしたものに味噌をつけて食べたが、これはけっこう美味かった。
魚は淡水魚なら大抵の種類が採れた。
この辺の人達の例にもれず、父も魚採りには目がなく、母屋の一角には、専用のタナに数10本の釣り竿と、物置には幾張かの投網が保管してあった。
私は父が投網で採った雑魚のかきあげが好きで、大人達にまじってよく相伴した。
まるで怪物のような顔の雷魚は天ぷらにすると淡白で美味く、なまずは刺身が意外にいけた。
どじょうは父が大好物だったが、下の兄は死ぬほど嫌いだった。
満々と水をたたえた清浄な流れは、豊かな恵みをもたらしてくれたが、やがて魚どころか、水に入る事も出来ないほど汚染されていった。
原因は最上流の足尾銅山ではなくて、流域の工場が流す汚水や、一般家庭の生活雑排水だった。
それでも中学一年の夏までは、緑橋の下流に学校指定の水泳場があって、夏休み中泳ぎに行っていた。
水の汚れは、人の心の汚れなのだと思う。
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- 平成16年5月7日(金曜日)
【晴】
蛭が仕置きの種にならないのは、子供達の多くが普段蛭を遊び相手にしているからだった。
遊び方は実に簡単で、ズボンの裾をまくってドブの中を歩いて蛭が吸い付くのを待ち、その蛭を足から引っぱがして、道の端の細かい土のたまりの上で、手の平を使ってゴロゴロと転がす。
すると蛭の表面のヌルヌルが取れてゴムのようになる。
それを両手の指に挟んで引っ張り、誰の蛭が一番長く伸びるかを競うのだ。
蛭は、表通りの両端のドブの、特に糸井染工の前から大越染工の前までの、20mほどの所が一番良く吸い付いた。
ほとんどは白御影石のドブ板で蓋をしてあるのだが、どうした訳か、この部分だけは蓋がしてなかったから、どうしてもそこを使う事にもなったけれど、ここにはたしかに蛭が沢山いたのだ。
この遊びをしている脇を通る大人達は、大抵すごく汚いものを見るような目で見たあと、慌ててその場を去って行ったが、中には「そんな事をしていると、いまに病気になって死んじゃうよ」と厳しく叱る人もいた。
しかし、あの頃の子供は、バイ菌よりも汚かったから、めったな事では変なものに感染する事もなかった。そのかわり傷口が化膿する奴は多かったかもしれない。
この遊びは蛭以外のもの、例えばミミズでやっても上手く出来ない。
ミミズはすぐにつぶれてしまい、形にならないのだ。
ナメクジは全く問題外で、唯一ドジョウだけは何とかヌルは取れるのだが、蛭のような弾力性がないのでつまらなかった。
あの当時は、道を馬車がまだ通っていたので、路上には馬糞がよく落ちていた。
道の両端にたまった、土とも砂とも埃ともつかない細かい土砂の中には、けっこう馬糞の粉になったものも混じっていたのかもしれないが、今となっては、どう気味悪がったところで後の祭である。
第一その土を使わなければ、泥だんごに照りがつかなかったから、男の子だけでなく女の子だって、だんご作りの時には道の端に座って一生懸命両手で土をかき集めては、それを唾でのばしてだんごにまぶし、何回も何回も手の中で廻したのだから、ずいぶんと汚染されたはずだ。
不潔といえばそれまでだけれど、けっこう楽しい遊びだった。
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- 平成16年5月6日(木曜日)
【曇】
緑町2丁目の土橋のたもとにある「渡辺酒店」から始まり、公園通りを7丁目の角まで歩く間、全ての酒屋と酒を飲ます店に立ち寄って酒を飲めるかどうか、昔の職人はよく賭けをしたそうだ。
最初の店では盃に一杯、次の店では盃に二杯という風に、倍々にするのがルールで、今までに最後の酒屋まで辿り着けた人は一人もいなかったと聞いた。
その頃では、酒屋から違う仕事に商売変えをした店もあったので、昔ほど数は多くなかったが、それでも数えてみると、まず一軒目が渡辺酒屋、次が川万、また渡辺酒屋、そして大宮、大塚、鳥常、本島、内山、昭和軒、岸田屋、そして最後は柾木屋と、全部で11軒あった。
最初は盃に一杯、二軒目で二杯、三軒目四杯、四件目八杯、五軒目16杯、六軒目32杯、七軒目64杯、八軒目128杯、九軒目256杯、十軒目512杯、最後の店で1,024杯だから、全部で2,047杯となる。
一合を盃10杯と計算すると約1斗2升だから、人間なら絶対に無理な話だ。
それでも職人の中には、信じられないほどの頑固者が多勢いて、「てやんでい、くだらねえ理屈なんざ、あとから荷車いっぱいくっついてくらあな」とばかりに、この賭けに挑む人は絶えなかったが、ついに死人が出てしまい、その後はほとんど挑戦する馬鹿はいなくなったそうだ。
緑町の悪ガキ共がこれを真似しないはずがなく、酒の代りに水を使ってやってみたが、さすがにルール通りは無理なので、誰が最後まで残るかで勝負した。
水の補給は、そこらの露地に入れば、共同水道がいくらもあったので不自由しなかった。
最初から五軒目あたりまでは、さほど無理をしなくても楽々クリアーできたが、六軒目を過ぎると脱落者が出始めた。
最後の勝負は、大抵「内山百貨店」の128杯を、どこまでこなせるかが分れ目になったが、店の前にたむろしてくだらない事をやっているガキ共を見付けると、内山のおばさんが店から出て来て「あんた達、また馬鹿な事やってるんでしょう。いいかげんにしないと、いまに腹っぴりおこすよ」と叱った。
言われるまでもなく、この勝負のあとには、必ず誰かが腹をこわし、学校を休んだ。
緑町界隈で「酒飲みごっこ」をやる子供は、馬鹿ガキと相場が決っていたが、私の知る限り、この遊びをしなかった奴は一人もいなかったはずで、知らぬは親ばかりだったと思う。
最下位の奴の罰は「ヒルたかり」だった。
両足をまくってドブに入り、ヒルが10匹たかるまで出られないという罰だったが、この罰はあまり効き目がなかったので、あとからは「ミーおっつけ」に変った。
「ミーおっつけ」は、我が家のメス猫の「ミー」をつかまえて、最下位の奴の顔におっつけるという罰である。
「ミー」はこれをやられると、間違いなく相手の鼻に食いついて離れないので、これは罰としてかなり効いた。
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- 平成16年5月5日(水曜日)
【雨】
学校の正面玄関脇のポールに鯉のぼりがあがるのは、4月の20日過ぎあたりからだったが、実際に鯉のぼりをあげるところを見た事は一度もなかった。
クラスの仲間の何人かは、今年こそその現場を見届けたいと、早朝に学校へ行ったが、結局見られずに終わってしまった。
ポールの高さは2階建校舎の屋根よりも高いのに、どうしててっぺんの飾りが、玉から矢車に変えられるのか、大きな謎だった。
そんなある日の事、図書室の整理で居残った帰りに、正面玄関の前を通りかかると、男の先生達がぞろぞろと出て来たので、これは鯉のぼりをあげるのに違いないと近くに駆け寄ると、「こらっ、危ないからそばによるんじゃない」と叱られた。
少し離れて見ていると、なるほど今までの謎が解けた。
先生方は、ポールの根元の石の柱を貫いている角棒を、大きな木槌で叩いて抜くと、2階の教室からポールまでのびたロープを、注意深く緩めながら、ポールを地面に倒したのだ。
(なんだ、そんな事か)と思ったが、現場を見るまでは全く想像していなかったので、すごく嬉しかった。
そばで見る金の玉は思っていたよりもずっと大きくて、竹で編んだカゴのようなものだった。
矢車はそれ以上に大きく、まるで自転車のタイヤを2つ並べたほどにも見えた。
先の形を取りかえると、今度は柱を立てるために女の先生まで出て来て大騒ぎだった。
立て直した柱の縄に用意した鯉のぼりと吹き流しをつけながら、その縄を引いていくと、柱の半分を越えたあたりから、鯉のぼりは生命を吹き込まれたように泳ぎ出すのだった。
小学校に入学して5年目の、記念すべき出来事だったが、明日登校して友達にこの事を話しても、果して本気にしてくれるかどうかとても心配で、その日の夕食はあまり食べられなかった。
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- 平成16年5月4日(火曜日)
【晴】
赤や黄色の濃いセルロイド製の船の大きさは、一番小さいもので長さが3cm位だった。
それでも10円位したから、それよりも大きいものは小学生には買えなかった。
校門の前に敷いたゴザの上に、大小取り混ぜて100個ほどの船が並び、その周囲には登校して来た生徒が群がって騒いでいる。
いつもの朝の風景なのだが、今朝は特に人だかりが多いのは、オヤジさんの前に置いた金だらいの水面を、売り物の船がスイスイと走っているからだった。
この船はナフタリンで走るのだが、その扱いは難しくてなかなかうまくいかないのだ。
オヤジさんは小刀でナフタリンを薄く切り、刃の平らな部分で押しつけるようにして更に薄く伸ばし、それを2mm角位に切ると、船尾のバネのようになったところにはさむと、静かに浮かばせる。
すると間もなく、船はかなりのスピードで走り出すのだ。
船の底についている舵を調整してあるので、船はタライのヘリに沿って、ナフタリンが水に溶けてなくなるまで走り続ける。
船が大きくなると船尾のバネの数も増えていき、一番大きい100円のものになると、ナフタリン取り付けバネは4つもあった。
こんな朝早くに金を持っている奴なんかいないだろうと思うのだが、それがけっこういるものなのだ。
船がたちまちの内に売れていくのを見ていると、自分がとても損をしているような気になって、「オジさん、今日は何時頃までいる?」とつい聞いてしまうのだ。
もしも昼休みまでいてくれたら、急いで家に帰って金を貰ってくれば何とか手に入れられると思ったからだが、「そうさな、10時位までかな。そのあと柳原小学校に廻るから、よかったらそっちに来な」
「学校終わったらすぐに行くから、それまでいてくれる?」
「あ〃いいよ、お金貰って急いで来な」
放課後何人かの仲間と駆け足で家に戻ると、なかなか財布を出してくれない母に追いすがり、何とか小遣いを手にして柳原小まで行ってみたが、校門の前にはオヤジさんの姿はなかった。
私達はがっかりして、トボトボと帰に戻った。
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- 平成16年5月3日(月曜日)
【曇】
行田から静江姉さんが、菊江姉さんを訪ねて来た。
静江姉さんは、台湾で戦病死した亀六叔父さん(父の一番下の弟)のお嫁さんで、叔父さんが死んだあと、行田市の実家に戻っていたが、何かというと訪ねて来ては、色々と気を使ってくれていたらしい。
それが縁で、今度は妹の菊江姉さんが、私の長兄のお嫁さんに来る事になったのだと聞いた。
その日は二人連れ立って、静江姉さん達が以前住んでいた太田市の知り合いを訪ねる事になっていた。
菊江姉さんは身重の身体だったが、私も一緒に連れて行ってくれた。
弟はまだ母親のそばを離れられなかったので、その頃の私は菊江姉さんが母親代りだった。
電車が太田駅の構内に近付くと、線路の両側には赤サビ色の残骸が山積みになって続いていたが、大抵の物は原形を留めていなかった。
中でも一番目についたのは、ばらばらになった飛行機の機体の一部で、何やら得体の知れない瓦礫の中から、もとは主翼や尾翼だったものや、胴体の一部、ねじ曲がったプロペラを付けた機首の部分などが、あちこちから突き出ていた。
鉄サビとグリースの入り混じった金属的な匂いが、いつまでも電車を追いかけて来たが、私はなぜか、この荒涼とした風景や匂いに強くひかれた。
太田駅を出ると、静江姉さんは菊江姉さんを気遣って、タクシーに乗せてくれた。
生まれて初めてのタクシーであった。
目的の家は、呑龍様の北裏だったので、菊江姉さんと私は境内の公園で遊びながら待つ事にした。
公園の大きなオリの中にはクジャクが何匹か飼われていたし、すべり台やブランコもあって楽しかった。
帰りは市内を見物していこうという事になり、門前町のおみやげ屋に寄ったり、道の両端に並んだ闇市の露店を見ながらぶらぶらと歩き、駅の近くにあったコーヒー屋に入った。
開け放った2間ほどの間口を入ると、丸いテーブルが2つほど置いてあり、木の床は土足のためにひどく汚れていたが、店内に流れる音楽も香りも、幼い私にとっては異界に足を踏み込んだようで、ただ目を丸くして驚くばかりだった。
まだ小さいからと、私のために店のオーナーがいれてくれたコーヒーは、ミルクがたっぷり入った甘いものだったが、それでも充分にコーヒーの香りが体中に広がっていく感じで、味を楽しむ以前に、大人に混じって大人の飲み物を口にしている事に興奮した。
電車の時間があるから早く飲むようにと促す姉さん達の言葉を聞き流しながら、一口一口をゆっくりと飲んだ。
いっぺんに飲む事など、もったいなくてとても出来なかった。
やっと飲み終わったカップの底に、黒い粉のようなものが残った。
その黒はカップの白い肌に際立って目に焼き付いた。
隣のテーブルに座っていたGIが、私と目が合うとウインクして来たが、私は恐かったのでうつむいていた。
太田市は進駐軍の駐屯地で、隣の小泉町の旧中島飛行場は基地になっていた事もあり、沢山のアメリカ兵が町を歩いていたのだ。
隣の町なのに、ここは異郷だと思った。
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- 平成16年5月2日(日曜日)
【曇】
その記憶は、父と信三叔父さん、そして長兄と清ちゃんと一緒に、無蓋荷車に乗っているところから始まる。
荷車には、私達の他にも沢山の人達が乗っていた。
寒風の吹き抜ける中を、さえぎる物のない風景に魅了されて、荷台のヘリにつかまりながら、いつまでも立ち尽くしていた。
やがて前方に、切り立った崖の山が見えてくると、荷車はそこで止まり、私達も下車した。
そこは岩舟という駅で、先ほどから見えていた崖は、今、眼前にせまっていた。
長く急な石段をのぼり、ようやく辿り着いた寺は、普段見慣れている近所の寺に比べると、ずいぶん小さかった。
大人達がなぜここに来たのかは、まだ幼い私には全く見当もつかず、ただ全てが珍しくて仕方がなかった。
お昼を食べようと山頂に出ると、そこは平らな草原になっていた。
信三叔父さんに手を引かれて草原の端まで行くと、足元は垂直の崖となり、遥か下に駅舎の屋根があった。
私は背筋が寒くなるのと、足がすくむのを同時に味わい、思わず叔父にしがみついた。
「いいか、ここから落ちたら死んじゃうんだぞ、だから一人で歩き回ったりしちゃだめだぞ」
私は骨の髄まで言う通りにしようと思った。
昼食の弁当を広げると、なぜか私の箸だけが入っていなかった。
父は近くの丈の低い木の枝で、私の箸を作ってくれた。
弁当のおかずは焼魚と大根のぬか漬だったが、中でも大根のぬか漬が、とても美味しかったのをよく覚えている。
アルマイトの水筒から水を飲むと、急に腹痛に襲われ、少し離れた茂みの影で用を足すと楽になった。
帰路は普通の客車だったので、朝乗って来た無蓋荷車よりは面白くなかった。
中は行きと変らないほど、人でいっぱいだった。
足利駅からは徒歩で家に向かったのだが、道中の事はほとんど覚えていない。
唯一、橋の上から眺めた渡良瀬川の水量が、今とは比較にならないほど豊かだった事だけは、なぜか記憶に残っている。
季節は冬。多分正月の事だったと思うのだが、私が乗物に乗った事と、どこかへ旅した事の最初の記憶であり、後日その折の事を尋ねた時の父の話では、昭和22年、1月末だったそうである。
その時私は満4歳で、6月に満5歳になった。
長兄はまだ独身、弟は乳飲み子だった。
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- 平成16年5月1日(土曜日)
【晴】
校庭の藤棚が満開の花を垂らしている下には、近所の人がよく子守りに来て、ヨチヨチ歩きの子を遊ばせていた。
その中に清ちゃんの姿があったので、近付いて声を掛けると、清ちゃんは少し照れくさそうに笑って、「悦子の子守りを頼まれたんで、ぶらぶら来たんだ」と言った。
清ちゃんの名は清五郎、父の一番下の弟だが、生まれて間もなく脳膜炎にかかり、それが原因で少し知恵遅れになってしまった。
祖母はそんな叔父を憐れんで、手元から離さなかった事がかえってわざわいとなり、適切な教育と職業訓練を受ける機会を失った。
それでも読み書きは大抵の大人に負けなかったし、力仕事をやらせれば、手早くはなかったが、何でもよくこなせた。
子供の時から、それなりの教育環境にあったら、立派に手に職を付けた、一流の職人か工芸家になれたかもしれないのに、それが可哀想だと、母はよく言っていた。
悦子は隣に住む叔母の三女で、まだ乳飲み子だったが、その頃叔母の家は煎餅屋をしていて、叔母も叔父を手伝うのに忙しく、まだ手のかかる悦子の子守りを、時々清ちゃんに頼んでいた。
清ちゃんは子供が大好きだったから、いいつけられる仕事の中で、多分子守りが一番楽しかったのだろう。
悦子や高行(私の長兄の子)を背負って、根気よく面倒をみていた。
ただ、時々とんでもない遠方まで出掛けてしまうので、本人は勿論、背中の子供までヘトヘトになって帰って来る事もあり、そんな時には、けっこうきつく小言を言われていた。
清ちゃんのもうひとつの仕事は、雨の時に私達へカサを届ける事だったが、上の姉はそれが泣くほど嫌だったようだ。
清ちゃんの背中から降りて遊んでいた悦子が、ヨチヨチと歩きながら私の所にやって来て、手にした藤の花を差し出した。
「アナ、キレイキレイ、アナ、キレイキレイ」
高行の妹の千恵子も、悦子と同じ年だったので、よく清ちゃんと学校に遊びに来ていた。
私からすると、二人は同じ年なのに、悦子は従妹で千恵子は姪というのが、何とも不思議でならなかった。
10分休みのベルが鳴ったので、「清ちゃん、もうすぐ昼休みで給食だから、それまで遊んでて」言い置いて教室に駆け戻った。
給食のコッペパンを食べられない奴から分けてもらい、急いで藤棚の下に行ってみると、清ちゃんと悦子が二人だけで遊んでいた。
私の姿を見付けた悦子が「コータン、コータン」と寄って来たので、悦子にもコッペパンをひとつ持たせてやると、「ウマウマ、ウマウマね」と、ろくに歩けもしないくせに、飛び跳ねるようなしぐさで喜んでいた。
教室に戻り、窓越しに外を見たら、コッペパンを大事そうに抱えて、校門を出て行く二人の後姿が目に入った。
藤の葉も花も風にそよぎ、若葉は陽に照り輝き、空は青く雲は白く、校庭正面の国旗掲揚柱のてっぺんにある矢車が、カラカラと乾いた音を発てて、小学校2年の5月がはじまった。
昭和24年のことだった。
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