アトリエ白美「渡辺肖像画工房」 渡辺晃吉
- 平成17年5月31日(火曜日)
【曇】《30日の続き》
徹の姉ちゃんは、私達が弟と遊ぶのをとても喜んでいるようで、いつも小屋の前に立って、ニコニコと笑いながらこっちを眺めていた。
私はその姿を見る度に、なぜか心がキュッと痛むのだった。
まだ子供とはいっても、私にはこの世の不条理や矛盾が、どうしようもない不幸を人にもたらす事を、半ば本能的に理解していたのだろう。そのひとつの例を、徹とその家族に見ていたのかもしれない。
私は徹の姉と私の姉達をどうしても比べてしまい、私の姉達の方が、徹の姉より恵まれている事に、ある種のうしろめたさを感じるのを押さえられなかった。
徹の母親は所謂おこもさんで、緑町から栄町を中心に、物貰いをして暮らしを立てていたようで、私達が学校から帰る時に、軒先に立つ姿をよく見掛けた。
古びた三味線を弾きながら、子供にもそれと分かる程の美声に加えて、とても素人とは思えない唄い振りで門付けするのだった。
その音曲がどんな種類のものなのか知る由もなかったが、練習を重ねて初めて身につくものである事だけは、部外者の私にもよく分かった。
ある日の夕方だった。私はフジを散歩させながら徹の小屋の近くを通ると、薄闇を通して黄色い光がコモの間から漏れていた。
(あ〃、徹の家は電気ではなく、ローソクが明かりなんだな)と思った矢先に、まるで私が近くに来るのを待っていたかのようにコモが分かれると、徹の姉ちゃんがこっちを見ながら手招きしている。
一瞬ためらってその場に立ち止まった私に、姉はしきりに手招きを繰り返すのだった。
私は恐る恐る小屋に近付くと、照れ隠しに「徹君は居ますか」と他人行儀な挨拶をした。
「徹は少し具合が悪くて、今寝てるんです。退屈しているから良かったら話し相手になって下さい」
初めて耳にする徹の姉ちゃんの声は、母親に似て美しかった。
姉ちゃんの名は明子だと、その時初めて知った。
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- 平成17年5月30日(月曜日)
【晴】
ルンペンといえば、渡良瀬川に架かる中橋の付け根には、むしろで囲った小屋が何軒かあって、ある種の名所になっていた。
一本上流の渡良瀬橋は、構造上の理由から旧市街地側の付け根以外は居住空間を作りづらく、そのためにルンペンが住みつきづらかったが、流れに立つピーヤの上部は、橋げたまで約150cm程の隙間があって、橋の途中からその場に入り込むと、そこは意外に快適な空間なので、一時期住みついたルンペンもいたらしく、私達が探検した時には、人の住み暮らした跡が残っていた。
もう一本上流の緑橋は、洪水の度に流されてしまう木橋だったので、さすがに本格的なルンペンハウスはなかったが、やはり旧市街地側の付け根に、時折コモ掛けの小屋が出来た。
小学校5年の初夏、しばらく不在だったその場に、新しいコモが下がり、人の住み暮らす気配が立ち始め、やがて女の人と、その子供らしい姉弟の姿がチラホラと見えるようになった。
姉の方は私よりも少し年上だったろうか。そんな生活をしているにしては、素直そうな顔立ちの弟の面倒をよくみる、おとなしい子だった。
弟の方は、見るからに悪ガキ風で、おまけに不潔な奴だったが、人懐こい性格なのか、私達が川原で遊んでいると、必ず近くまで来てはニコニコと笑いかけて来た。
そんな事が何度かある内に私達はいつの間にか昔からの友達のような仲になって、よく一緒に遊んだ。
そいつの名は徹といって、年は8歳だと本人は話していたが、その年にしては少し大き過ぎる感じがした。
徹は多分学校には行っていないと思うが、私達はその事を本人に確かめようとはしなかった。
今思えば、その件には触れない方が徹にとっていいのだと、子供ながら考えたのかもしれない。
もし我が身に振り替えて考えれば、やはりその事に触れてもらいたくないと、誰だって思う。
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- 平成17年5月29日(日曜日)
【晴】
東京に出掛けた父が、数年前に倒産がもとで、蒸発した知人を浅草の三谷で見付け、逃げるその人を捕まえて家に戻るように説得したのだけれど、頼むからそっとして置いてくれと泣きつかれ、やむなく連絡先だけは無理矢理聞き出して、その場は別れて来たのだという。
父は帰るなり、その人の無事を家族に報告すると、みんな涙を流して喜んでいたそうだ。
その人は父にとっては同業者であるだけでなく、気心の知れた幼なじみでもあったから、その人の家出は、決して他人事ではなかったのだ。
父はルンペンに身をやつした知人の姿に、少なからずショックを感じたのだそうだが、仕事の失敗が原因で命を落とすよりは、ずっとましだと、心から思ったのだそうだ。
何があっても生きてさえいれば、必ず道は開けると、父は知人に切々と訴え、再会を約して電車に乗ったのだという。
その人が生きていた事は、あっという間に近所中に知れ渡って、しばらくはその話でもちきりだった。
大人ばかりでなく、子供達も集まればいつもその話になり、その度に何だかなくしたものを見付けた時のような、嬉しい気持ちになった。
「だけどよ、夏や春はいいけど、冬はつれえだろうな。浮浪者とかルンペンの生活って」
一人が大人達の話を聞きかじって来たのか、一丁前の事を言い始めた。
「やっぱり橋の下とか穴倉みてえな所に住んでいるんかな」
「そうじゃなくって駅で寝るみてえだぞ」
「へえー、東京の駅って人が寝泊り出来るんか。でもよ、冬なんか吹きっさらしで寒いだろうな」
「東京の駅は足利なんかとは全然違って、物凄くでけえし、地下道だってあるから、雨も風も大丈夫なんだって」
誰かがそんな事を言うのを聞くと、私は何となくホッと安心して、心が暖かくなって来た。
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- 平成17年5月28日(土曜日)
【晴】《27日の続き》
こんな事が起きる前から、私には嫌な予感がしなくはなかった。
いくら事情があるとは言っても、小学生が色眼鏡を掛けて学校に行ったり、通りを歩いていれば、どうしても奇異に映るし、何とも不自然なのは否定できない。
だから近所の悪ガキ共のほとんどは、その理由を百も承知しているのに、何かと意地悪を仕掛けて来るのだった。
そんな訳で、私は目の症状が軽くなるまでの間、下校後はほとんど家の中で過ごし、仲間との接触を避けるようになった。
例の先生は、私が色眼鏡で登下校する時には、意識して視線をそらして遠ざかるのだったが、内心不愉快で仕方がないだろうとは、容易に想像する事が出来た。
青木眼科には、ほとんど毎日通院して治療を受けた。
目をこすらなければ、辛いゴロゴロは起きないけれど、その代わりいつも痒くてたまらず、それが先生に治療してもらう時には、ちょうど痒い所を掻いているような感じになるので、通院はそれほど辛くはなかったのが、せめてもの救いだった気がする。
それから約二ヶ月後、先生からやっと許しが出て、私は色眼鏡から解放された。
あれ以来、その先生は少なくとも私に対しては言いがかりを仕掛けて来なくなったが、他の気に入らない奴らには、相変わらず意地の悪い仕打ちを続けていたようだ。
現在、その人は孤独な老後を送っていると、風の便りに聞いた。
会う人毎に、今でも自分を慕って訪ねて来る人が絶えず、多忙な毎日を送っているといかにも本当らしく語りながら。
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- 平成17年5月27日(金曜日)
【曇のち雨】《26日の続き》
母からは私の眼鏡着用の事を、学校に知らせて許可をもらってあると聞いていたから、まさか、こんな大騒ぎになってしまうとは夢にも思わず、担任クラスの一部の生徒以外からは、犬のクソのように嫌われている例の先生には気の毒だったが、正直いい気味だと思った。
その先生は川島先生に引率されて我が家を訪れ、両親の前で涙を流さんばかりに謝罪したが、父はともかく母の怒りは、そんな態度では納まらなかったようだ。
しまいには、お前のような奴は教師をやる資格なんかないから、今すぐ辞めてしまえとまで言い放ったが、そんな時の母のすごさは大の男が震え上がる程だったので、その先生は文字通り塩をかけられたナメクジみたいになってしまった。
「とにかく何の罪咎もない子供の大事なものを、憎さのあまりに壊したんだから、この足で直ぐに直して来なさい。話はそれからだよ」
母にかかっては、その先生など子供と同じだった。
「おめえか、ガッコの先生のクセしやがって、こんなちいせえガキをいたぶって喜んでるってロクデナシは」
気の荒い職人達の罵声に、その先生はもう半分死人のようになってしまったが、誰も同情する者はいなかった。
その先生が、芯からみんなに嫌われていたのを、今更ながら知るにつけて、こんな奴が、何で教師なんかになるのだろうかと、私は子供ながら不思議でならなかった。
生徒の好き嫌いが激しくて、ちょっと荒っぽい相手には直ぐに暴力をふるい、弱い者を力で押さえつける事を平気でやる奴なんか、いざとなれば大した事もないんだと、私はその時つくづくと知った。
首をうなだれて昭光堂に同行したその先生は、眼鏡が直って私の手に戻るまで、とうとう一度も顔を上げて私を見る事が出来なかった。
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- 平成17年5月26日(木曜日)
【晴】《25日の続き》
川島先生は怒りに唇を震わせながら抗議すると、その先生は自分の失態に気付いたのか、明らかに動揺して口をつぐみ、うつむいてしまった。
「川島先生、とにかく保健の森尻先生の所に、この子を連れて行って手当てをしてやって下さい。◯◯先生には私からよく言っておきますし、後ほど父兄の所にお詫びに行かせますから」
校長先生の忠告に、川島先生は私の手を引くと、その先生に非難の視線を送りながら校長室を出た。
大したケガでもなかったので、傷口を消毒してバンソコウを貼っただけで済んだのだが、肝心の眼鏡の破損は素人ではどうにもならず、川島先生が糸で縛って応急の処置をしてくれた。
時間も迫っていたので、私達は校長室には戻らず、保健室から教室に駆け付けると、思った通りみんな好奇の目で私達の来るのを待ち構えているのだった。
今朝、私が色眼鏡を掛けて登校した事と、それを見咎められて校長室に連れて行かれた事は、もう全校に知れ渡っていたので、5年5組の仲間としては、その結末が知りたくて授業どころではなかったのだろう。
「今日は朝から騒がしかったけれど、みんなよく聞くんだよ。渡辺君はね、急性結膜炎という重い目の病気のためにね、昼間は紫外線よけの眼鏡をしないと、失明してしまうかもしれないんだって。だからしばらくの間、渡辺君は色眼鏡を掛けるけれど、みんな笑ったりからかったりしてはだめだよ」
川島先生は授業の始まる前に、私の事情を皆に説明したが、いくら理屈では分かっていても、教室の中に一人だけ、しかも妙に不良っぽい様子の色眼鏡野郎がいるのは、どうしても不自然だったのだろう。誰かが必ずチラチラと私の方を盗み見ているので、授業が何となく落ち着かなかった。
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- 平成17年5月25日(水曜日)
【晴】《24日の続き》
子供をいたぶる正当な理由を見付けた嬉しさを顔に出しながら、その先生は私の襟首を掴むと、まるで犯人を逮捕した刑事のように、多勢の見物人を意識して校庭を横切り、正面玄関から中に入った。
廊下に居た生徒達は、いったい何事が起きたのかと好奇の目で私達を見るものだから、その先生は益々調子に乗って、皆の見ている前で私の頭を小突き回すのだった。
鬼の首を取ったようなつもりで校長室に入った先生は、「校長、5年5組の担任を呼んで下さい。こいつはとんでもない奴で、あろう事か色眼鏡を掛けて学校に来たんですよ。これは本人だけの問題ではなく、担任の日頃の教育方針にも問題があるんじゃないかと思うんです。オイ、いつまで掛けてるんだ。早く取らんか」
その先生は完全に逆上して、私の顔から眼鏡をむしり取ったのだが、腹立ち紛れに力が入り過ぎたのか、片方のツルが付け根から折れてしまった。
その時に、どこかが引っ掛かったのか、目の脇が切れて血が出て来たのには、さすがの先生も少し狼狽したようだった。
「◯◯先生、そんな事をしてはいけませんよ。第一先生は、この子の言い分を聞いたのですか。もしかしたら、この子が場違いな眼鏡をして来るには、それなりの訳があるのではと考えなかったのですか」
校長先生は、さすがにその先生の狂気ぶりに腹が立ったのか、かなり厳しい口調でたしなめるのだった。
間もなく担任の川島先生が校長室に駆け付けて来ると、私がケガをしているのと、色眼鏡が壊れているのを見て、大体の事は察しがついたのだろう、その先生に向き直ると「この子はね、大変な目の病気で、仕方なく色眼鏡を掛けてるんですよ。それを何ですか、子供達に聞いたら、物も言わずなぐりつけて引っ張って来たそうじゃないですか。いったいあなたは自分を何様だと思ってるんですか」
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- 平成17年5月24日(火曜日)
【晴】《23日の続き》
「ヤベーよ、そりゃあ、いくらなんでもヤベーよ。学校に色眼鏡なんか掛けて行ってみろ、それこそ退学か感化院(少年院)にぶち込まれるかもしんねえぞ。やめろよ晃ちゃん、それだけはやめろよ」
一つ年上のオブチンが、大真面目に忠告してくれたが、悪さにかけては私の遥か上を行くオブチンも、さすがに色眼鏡を掛けて学校に行くというのは経験がないのだろう、相当にブルってしまったのが愉快で、あれほど嫌だった色眼鏡が、何だか面白くなって来た。
私は自分のいたずら心が、みるみるふくれあがって行くのを感じて、思わずニヤニヤと薄笑いを浮かべてしまった。
「何がヘヘヘだよ、俺ぁ知らねえからな。今まで学校に色眼鏡掛けて行った奴なんか一人もいねえと思うよ。絶対に退学だぞ」
私は何で色眼鏡を掛けなければならないかを、わざと説明しないで隠す事にした。
表通りを学校に向かって歩き出すと、道いっぱいに進んでいる小学生や中学生が、まるで化け物でも見るように私を見ている。
中には物問いたそうに近付いて来るのだが、私と向き合うと慌てて視線をそらせて離れて行く奴もいる。
私は益々調子に乗って、外股で肩を揺すりながら歩いたりして面白がっていた。
校門をくぐって校庭を横切っていると、ひいきと意地悪で有名な先生が、信じられないような表情で睨みつけると、全速力で走って来て私の胸ぐらを掴んで「この野郎、きさま何のつもりだ。ふざけた真似をしてタダで済むと思ってるのか。こっちへ来い、校長先生の前でしめてやる」と、顔を真っ赤にして怒りまくるのだった。
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- 平成17年5月23日(月曜日)
【晴】《22日の続き》
「どうして眼鏡掛けないんだい。せっかく作ったのに勿体ないじゃないか」
勿体ないという理由で、こんなみっともない物掛けられるかと、内心は思ったのだが、それを正直に口にすれば大目玉を食らうのは分かり切っているので、「うん、外に出る時は掛けるから」と調子を合わせた。
しかし、目の届かない所まで来ると、慌てて外してポケットに隠し、何食わぬ顔で家の近くから逃げ去るのだった。
そんな事をしている内に、眼の症状はどんどん悪化して、外出の時には、紫外線よけの色眼鏡をしなければ、どうにもならなくなってしまい、死ぬ程恥ずかしかったが、半分は開き直りで色眼鏡を掛けたまま登校した。
登校の時に、この辺の仲間が何となく集まる、表通りに面した糸井染工前に、色眼鏡を掛けたまま黙って立つと、先に集っていた仲間達は、最初オモチャかと思ったのか、チラッと見ただけで大した関心もなく、(あのバカが、朝っぱらからロクでもねえ事しやがって)というのが見え見えの態度だった。
それから間を置かずに、その場にいた全員がポカンと口を開けたまま動かなくなると、私はおもむろに色眼鏡を外して、それを奴らに見せびらかしながらてぬぐいでレンズを拭くと、またおもむろに顔に掛けた。
(どうせボロクソに言われるんだ。だったら逆に見せびらかしてやれ)
私は完全に開き直って、やぶれかぶれの行動をとった。
「それ本物?」
大越のオッちゃんが、私の顔を指差して、かすれたような声で聞いた。
「この間昭光堂で買った」
「ソレ学校にして行く気かよ」
まるで私を怪物でも見るような目付きで言うもんだから、私も「あたりめだんべ、わざわざ掛けるために買ったんだからよ」と、本当の事を告げずに答えた。
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- 平成17年5月22日(日曜日)
【晴】《21日の続き》
母と店の人は、私の好みや考えなど全く無視して話を進めて行き、結局真ん丸で濃い紺色のレンズの入った黒ブチのドンチャン眼鏡が、私の手に乗せられた。
「ホラ、これ掛けて鏡を見てごらん」
母に言われるまま、生まれて初めて眼鏡を掛けた顔で鏡を覗いてみると、思わずワーッと叫びたくなった。
丸坊主のガキが、一丁前に真ん丸の濃い色眼鏡を掛けている顔なんて、滑稽を通り越しておぞましい。
まるで質の悪いマンガに出て来る奴みたいな、現実離れしたガキが鏡の中にいた。
私はショックのあまり、眼鏡を顔から外すのも忘れて、しばらくの間呆然としていた。
母も店の人も、そんな私を見て、同じようにショックを受けたのだろうけれど、引きつった顔を無理に笑わせながら、「良くお似合いですよ」とか、「結構顔に合ってるよ」とか、心にもない事を口走っている。
こんな眼鏡を掛けたところを誰かに見られる位なら、その日の内に家出して、足利には永久に戻って来るもんかと、心密かに決心して店を出た。
「ホラッ、せっかく作ったんだから掛けてごらんよ」
「ヤダッ」
「何がヤダなんだよ。目が見えなくなってもいいんかい。その眼鏡を掛けないでお日様の下を歩いていると、もしかしたら失明しちゃうかもしれないんだよ。それに比べたら少し位カッコ悪くても仕方がないじゃないか」
(それみろ、やっぱり俺カッコ悪いんじゃねえか)
私はさっきの決心を改めて強くしたのだった。
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- 平成17年5月21日(土曜日)
【曇のち雨】
原因は分からないが、目が痒くてたまらず、つい指で擦ってしまうと、そのあとはゴロゴロして実に嫌な気分になってしまうのだ。
仕方なくぬれてぬぐいを目に当てて横になり、ゴロゴロが去るのをじっと待つのだが、10分もすると元に戻るので、親にも告げずにいたら、その内に目を開けてもいられない状態になってしまった。
母は大慌てで私を青木眼科に連れて行き、先生の診察を受けたところ、急性の結膜炎にかかっているという事だった。
とりあえず失明の危険はないが、毎日治療に通う事と、当分の間は目を守るために色眼鏡をかけるようにと告げられた。
母は青木眼科を出ると、その足で先生から渡された書類を持って、井草通りにある「昭光堂」に私を連れて行った。
店に入って母が事情を説明しているのを聞いていても、私には自分が色眼鏡をかけるという現実を、受け入れる事が出来ず、店の人と母が交わす会話が、まるで他人事のようにしか思えなかった。
しかし、眼鏡のツルやレンズなどが目の前に出されると、私は身震いする程の拒絶感に、思わずワッと泣き出してしまったのだ。
「コレッ何で泣くの。眼鏡をかけたからって、別にどこも痛くないんだよ。すみませんね、この子はきっと眼鏡をするのが、きっと痛い事するのかと思い違いをしてるんですよ」
母は店の人に見当違いの言い訳をしていたが、いくら私が子供とはいえ、眼鏡をしても痛くない事位は知っている。
私には自分が色眼鏡をかけて人前に出る事が許せないのだ。
そんな事をしたら、いったいどうなるのか、言う必要もない位にはっきりしている。
私はその日から色眼鏡野郎として、皆のさげすみの中で生きなければならないのだ。
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- 平成17年5月20日(金曜日)
【晴】《19日の続き》
タローの葬式のあと、列に加わった女の子達は、ほとんど毎日のようにタローの墓に花を供えるために森に入っていたようだった。
それからしばらくすると、子供達は大切に飼っていた動物が死ぬと、皆そこに埋葬するようになり、それほど広くない場所には、犬や猫だけでなく、ウサギや小鳥、そしてカエルや金魚の墓が沢山出来て、足の踏み場もない位になって行った。
元々古墳の斜面だから、墓所としては又とない場所だったのかもしれない。
日が経つにつれて、墓地は次第に広くなって行き、それぞれが墓標を工夫したり、クレヨンで色を塗ったりして飾るものだから、いつの間にか半ば公認の墓地のようになってしまい、私達は聖域と遊び場を兼ねた不思議な空間を、なぜかとても大切なものとして守り続けた。
ケー君はそれから一年程して、別の町に転校して行った。
ケー君が去る日に、私達はタローの墓の前で、これからもタローを守って行く事を誓ってケー君と別れた。
父が大の動物好きだったので、我が家には犬と猫がいつもいたから、その死にもよく立ち会って来たのだが、父はなぜかその亡骸を屋敷の外に埋めるのを嫌って、ほとんど庭の片隅に埋葬した。
別に涙する訳でもなく、黙々と深い穴を掘り進める、父の荒い息遣いを耳元で聞いていると、私には父の悲しみが痛いほど伝わって来た。
死んだ犬や猫の命日になると、私はそれぞれの墓所に野の花と煮干を備えて冥福を祈った。
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- 平成17年5月19日(木曜日)
【晴】《18日の続き》
タローがツツジの花に埋もれて見えなくなると、今度は大叔父が「さあみんな、タローの上に少しづつ土をかけてやろうな」と言って、手に持ったスコップでツツジの花の上にパラパラと土を乗せると、スコップをケー君に渡した。
ケー君はゆっくりと土をすくい、そっとツツジの花の土にふりかけた。
みんなが次々とスコップを受け取って土をふりかけて行き、やがてタローの上には、こんもりとした山が出来た。
その上を女の子達が、さっきと同じようにツツジの花でおおうと、午後の木漏れ日を受けたタローの墓は、この世のものではない程美しかった。
「さあ、タローが天国に行けるようにみんなでお祈りしような」
大叔父はそう言うと、持って来た線香に火をつけて、それを一人一人に渡し、自分もタローの墓の前にひざまづいて、どこで見付けてきたのか、平らな石の上に線香を置いて手を合わせ、静かに祈るのだった。
次にケー君が、そして私達が続いて線香を手向けると、辺りには線香の香りと煙がたゆたって行き、そこはもう聖域となっていた。
最後に全員がタローの墓の前に並んで合掌すると、それがタローの葬式の終わりの合図になったのだろうか、誰が言うとなく私達は大叔父とケー君を先頭にして山を下った。
帰り道は誰も言葉を口にする事もなく、耳に入る音といえば、みんなの足音と木々を渡る風と、小鳥のさえずりだけだった。
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- 平成17年5月18日(水曜日)
【晴】《17日の続き》
「さあ、この位広ければ、タローも楽に休めるだろうよ。みんな、穴の底に落葉を敷いてやりな」
大叔父の指図で、まずケー君が落葉をひとつかみ撒き散らすように落とした。
「ホラ、みんなも少しづつ入れてやりな」
大叔父が言うと、私達は落葉を掴んで一人づつ穴の前に進み、丁寧に撒いて行った。
ケー君と大叔父は穴の両脇に立って、私達が落葉を手向ける毎に、軽く目礼を返す。
全員が終わったあと、穴の底には軟らかそうな落葉の床が出来ていた。
「ケー君、タローをそこに寝かせてやりな」
大叔父が言うと、ケー君は「ウン」としっかり返事をして、一本の椎の木の根元に安置していたタローを抱いて、全員が見守っている中を穴の所に戻って来た。
「落葉の上に寝かせてやりな。そっとな」
「ウン」
ケー君はゆっくりとタローを穴の底に横たえると、タローの頭を静かに撫で続け、やがて意を決したように立ち上がった。
「もう一度タローの上に落葉を撒いてやりな。そうすればタローはふんわりと休めるからな」
私達はケー君のあとに続いて、さっきのように落葉を手向けて行くと、やがてタローの姿は、落葉に包まれて見えなくなった。
「それじゃあスコップで少しづつ土をかけてやりな」
「あっおじさん、ちょっと待って」
何人かの女の子が大叔父に声を掛けると、一斉にその場を離れて、茂みの中に入って行った。
しばらくすると、女の子達は両手にいっぱいツツジの花を抱えて戻って来た。
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- 平成17年5月17日(火曜日)
【晴】《16日の続き》
タローの葬列は、大叔父の先導で青年団集会場前の橋を渡って公園に入り、弓引場と椎の森の間の道をのぼり、たぬき便所の前を通って「四阿山」の斜面の林の中に入って行った。
四阿山は昔の古墳の頂上に四阿を作ったところから、地元の人達が呼んでいる場所で、その南斜面はツツジの他にどうだんツツジが群生していて、斜面を西に巻くにつれて深い椎の森になる、人のあまり入り込まない場所だった。
大叔父が私達をその場所に導いて来たのには、実は訳があって、そこには昔大叔父の家に飼われていた犬や猫が、静かに眠っている場所があり、大叔父はタローとケー君を、そこに連れて来たかったのだ。
その場所は4本の椎の木が、ほぼ四角形を作っていて、緩やかな斜面の上には、古いツツジの木の茂みが、四阿山の頂上を囲むように続いているので、森の下の道からも、四阿からも視界が閉ざされている場所だった。
下生えがほとんどない地面には、椎やカエデの落葉が積もっていて、4本の太い椎の木の間を、まるでこの場所を囲むかのようにツツジが生えているので、そこは静かで落ち着いた雰囲気のある、何か特別の場所のように感じるのだった。
「さあ、ここにタローを埋めてやろうな。仲間もいるし、きっと淋しくないだろうよ」
そう言って大叔父は、一本の椎の根方近くに、持って来たスコップで深い穴を掘った。
私達は大叔父が息を切らせながら掘り進める穴を、じっと見続けていた。
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- 平成17年5月16日(月曜日)
【晴】《15日の続き》
母はそんなケー君を笑いながら見ていたが、「みんなよさないか、子供が本気にしてひきつけでも起こしたら、それこそ医者騒ぎだよ」と、形ばかりのたしなめでケー君をかばった。
「それじゃあケー君はどうしたいんだい。おばさんに言ってごらん」
「おらあタローを公園のどっかに埋めてやりてえんだよ。そしたらいつでも会いに行けるし、タローは多分公園生まれだもん。一人でも淋しくねえと思うんだ」
「分かったよ。だけど公園は、やたらの所に埋められないし、誰か大人をつけてやろうかね」
母はそう言うと、岩本の大叔父に声を掛けた。
「叔父さん、お聞きの通りなんで、何とかこの子を助けてやって下さいな」
「ハイ、承知したよ、ボクもうそんなに泣かなくていいよ。おじさんがタローをちゃんと埋めてやるから安心しな」
岩本の大叔父は父の叔母のつれあいで、私達と直接血の繋がりはなかったが、優しさが衣を着て歩いているような人だったから、私も心から安心して大叔父に任せる事にした。
タローが死んだ事が、いつの間にか近所のガキ共の間に知れ渡り、ケー君と私と大叔父が公園に出掛ける頃には、工場の庭に10人以上が集まっていた。
私達が歩き出すと皆ぞろぞろと後をついて来るので、タローを抱いたケー君を先頭にした葬列のようなものが出来てしまうと、近所の人達も両側の家から外に出て来て、両手を合わせながら私達を見送ってくれた。
「ケー君可哀想にねえ、力を落とすんじゃないよ」、「ケー君気をしっかりね、タローは間違いなく天国に行けるから、頑張るんだよ」などと、みんなケー君に声を掛けてくれた。
ケー君は背筋を真っ直ぐに伸ばして悲愴な顔をきりっと前に向け、堂々と先頭を進んだ。
大叔父は「皆さん大変ご心配をおかけしまして、あいすみません。ありがとうございます」と、周囲に挨拶を欠かさなかったし、あとに従う子供達も下をうつむいて悲しそうに歩を進めた。
途中で大叔父は母屋に寄ると、線香の箱とマッチを持って来て、「お前これ持ってな」と私に渡した。
微かに線香の香りが漂い、私は急にタローの死を実感して、思わず身震いをした。
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- 平成17年5月15日(日曜日)
【晴】
ケー君の家の犬のタローが今日死んだ。
子犬から大人の犬になりかかったタローは、白に黒いブチの入った雑種で、少し臆病だったが素直ないい奴だった。
今朝ケー君が起きてタローの飯を持って外に出ると、いつもなら飛びついてうるさい位に騒ぐのに、その日に限って姿を見せなかったのだそうだ。
変だなと思ったケー君が軒下の犬小屋を覗いてみると、タローが死んでいた。
大急ぎで親に話してから、そっと小屋から抱きかかえて玄関に用意した新聞紙の上に横たえ、みんなでオイオイ泣いていたのだという。
土橋のたもとにある「中山床屋」で散髪を済ませた私が、家に帰ろうと歩き出した所に、冷たくなったタローを抱いたケー君が、ベソベソと泣きながら踏切を渡ってやって来るのに出くわし、何事かと問いただして訳が分かったのだ。
「ケー君どしたんだ?」
「タローが死んじゃった。母ちゃんが川原に捨ててこいって。おらあやだって言ったんだけんど、思い切りぶっとばされて、もしも捨ててこねえんなら、飯ぬきだって。仕方ねえからここまで来たけんど、おらあタローが可哀想で、とても川原になんか捨てられねえよ」
ケー君はそう私に話すと、中山床屋と川万の角にあるポストの脇にしゃがみ込んで、またオイオイと泣き出してしまった。
「ケー君泣くな。分かったから一緒に俺んち行こう。それで誰かに助けてもらおう。なぁに大丈夫、俺んちは大人がいっぱいいるから、きっといい方法を教えてくれるよ」
私はさっき中山のオジさんから貰った星形の大きなドロップを、本当はやりたくなかったのだが、泣いているケー君にやった。
ケー君は物凄い早さでドロップを口に入れると、またオイオイと泣き出した。
私はケー君を連れて家に戻ると、母に訳を話して助けを求めた。
「本当はね、ケー君のお母さんが言った通り、野ざらしといってね、タローを野に置いて風と雨にまかせるとね、タローの体が他の鳥達や虫達のごはんになって、タローも浮かばれるんだけど、ケー君はそれじゃあ嫌なんだ」
「ヤダー、おらあタローを川原なんかに捨てたくねえよ」
ケー君はそう言うと、また大きな声で泣き出したものだから、そばを通りかかった職人達が、「何だぼうず、タローをそんなに捨てたくねえんだったら、俺が今晩夕飯のおかずに焼いて食ってやるからオジさんに渡しな」などと、おもしろずくで構うものだから、ケー君はタローを必死で抱きながら、身を揉むようにしてギャーギャー泣き喚くのだった。
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- 平成17年5月14日(土曜日)
【晴】
足利公園は桜まつりからツツジまつりに変わって、少しの間、人の流れが消えていたのも嘘のように、連日花見客で賑わっている。
表通りの両側に立てられた柱には、セルロイドのツツジの造花が現実離れした色で咲いているのが、何となくお祭気分を誘って面白い。
平日の昼間は、広場の舞台も歌謡曲を流すだけで、これという演目はないのだが、夜は毎晩のように浪曲や手品、曲芸に踊りなど、様々の出し物で賑やかだった。
日曜日は昼間も舞台がかかり、大抵は芸自慢の素人が、歌や楽器演奏などを披露していたが、これが結構人気があって、出演申し込みも後を絶たないのだそうだ。
今ならカラオケという事になるのだろうが、私が小学生の頃も、やはり舞台の主役は歌だった。
ツツジまつりは、花の息が長いのに合わせて一ヶ月近くあったから、素人の出る幕も充分にあったのだ。
その頃ラジオの人気番組だった「浪曲天狗道場」を真似て、名前も全く同じ「浪曲天狗道場」というのがあったが、これには大人も子供も申し込みが殺到して大変だった。
何しろ当日その場で出演申し込みをするのだから、もし誰も参加する人がいなかったら、本当に大変な事になるだろうに、あの頃の担当者は、そんな心配など全くしていなかったようだ。
出演者が素人とはいえ、ちゃんと演台や曲師も付いていて、脇にはどの家から持ち出して来たのか、立派な盆栽まで飾られて、普段着で出演するのが少し恥ずかしくなる程だった。
同級生のNは、子供ながらサビたノドで、鈴木米若の「佐渡情話」を唸らせたら大人顔負けだった。
しかし、みんなにおだてられて舞台に上ったOは、「遊女は客にホレたといい、客は来もせで又来るというう〜」と、顔をしかめ首を振りながら大真面目でやらかした途端、辺りは爆笑の渦となり、Oは馬鹿にされたくやしさに、とうとう舞台の上で泣き出してしまった。
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- 平成17年5月13日(金曜日)
【晴】
新水園の前にある縄のれんの居酒屋の脇には、大きな柳の木が長い枝を垂らしていて、暗くなってから外に出る時など、観て来た映画によっては物凄く気味が悪かった。
居酒屋の裏を走る両毛線で命を落とした人の幽霊が、この柳の木の下に出るという話は、町内で知らない人などいないという程に有名だったから、怪談映画を観たあとなど、私一人ではどうしても前を通る事が出来なくて、誰か大人が通る時をねらって、そのすぐあとについて通り抜けた。
居酒屋の前を通り過ぎたといっても、月のない夜では足元さえ見えない位に真っ暗な道なのだから、川万の四辻に出るまでは本当に怖かった。
そこまで来ると外燈の他に、右角の旅人宿の飯島旅館の灯や、角を右に曲がった正面の踏切の灯で、辺りはさっきとは大違いの明るい道になるのだ。
5月の夜の闇は深く重いのは、いったいなぜなのだろうか。
踏切の直ぐ脇にあるはずの番小屋からもれる明かりさえ、なぜか遠くに感じるのは、闇がそれだけ深いからなのだろう。
踏切を渡ると、道の両脇の電柱に付いている外燈が、深い闇を規則正しく切り裂いて、どこまでも続いている。
両側の店は、家人が寝るまで戸を閉める事はないので、渡辺酒屋、大宮煙草屋、石井菓子屋、大塚酒屋と、家に戻るまでの足元が暗くなる事はない。
しかし、大通りから脇道に入ると直ぐに、道はまた闇の中に沈む。
あの頃、夜の8時は子供にとって真夜中だった。
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- 平成17年5月12日(木曜日)
【晴】《11日の続き》
力士達は、まわしだけの姿でいるのに、誰もが全身に汗をかいていた。
それを付け人が竹を薄く削ったものをUの字に曲げて、絶えず削ぎ取るように落としているのが面白かった。
付け人は髪がザンバラで見るからに若かったが、体だけは一人前の力士と同じ位にたくましい。
顔を見れば直ぐに誰と分かる有名力士が沢山いる中で、その日の一番人気は何といっても当地出身の「八染」だった。
ご当地力士は必ず勝つという評判通り、その日「八染」は見事に勝利を納め、万来の拍手を受けて退場した。
私は「とったり」という、まるで漫才のように面白い道化相撲と、「相撲甚句」という歌に初めて出会い、取り組みの凄さとはまた別の楽しみがある事を初めて知った。
それにしてもお相撲さんというのは、どうしてあんなに歌が上手なんだろうか。
私は、「天は二物を与えず」というのは嘘だなと思った。
二物どころか三物も四物も与えられている人だっている。
勿論与えられたという事は、人一倍の努力を伴って初めて手にするのだと思うけれど、人間の可能性というものは無限なのかもしれないと、私はその時思った。
取り組みの本番はニュースで観るのとは大違いの、物凄い迫力だった。
時間いっぱいで立ち上った両者がぶつかり合う時には、まるで石と石がぶつかったような「ガシャッ」という音がして、砂かぶりにいる人には文字通り砂や汗が飛んで来るのだ。
私達は本物の相撲の凄さにただ驚くばかりで、ポカンと口を開けて一番一番に魅入るばかりだった。
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- 平成17年5月11日(水曜日)
【晴】
大相撲の地方巡行が足利に来たのは、戦後初めての事だと大人達が話していたが、私達は学校で4年生以上の全員が校外授業として見学に出掛けた。
会場の鑁阿寺まで二列縦隊で進み、西門から入って野外の座についた。
当時の鑁阿寺は境内の半分が深い森に覆われていて、力士達はあちこちの木陰に陣取って、裸の上にタオルをかけてくつろいでいた。
生まれて初めて見る力士は想像以上に大きく、特に大太刀は群を抜いて私達の前にそそり立っていた。
5年5組が座っている背後の森の中に、横綱千代乃山の控え場所があり、付き人の世話を受けながら碁を打っているのがよく見えた。
私達は何とか千代乃山にサインを貰おうと相談して、岡田が代表で頼みに行く事になった。
「何だか俺おっかねえな。おこられねえかな」
岡田は行く前から相当ビクついていたが「大丈夫だよ、とにかく頼んで来いよ」と皆に励まされ、恐る恐る森の中に入って行き、太いケヤキの根元に敷いたゴザの上で碁を打っている横綱に近付いて行った。
「すみませんサインしてもらえますか」
緊張した岡田が声を殺して頼み込んだとたん、横綱は顔もあげずに「エーイ、うるさい」と手を振りながら岡田を怒鳴りつけたものだから、岡田は泡を食って私達の所に逃げ戻って来た。
「ヤベーよ、やっぱり怒鳴られちまった。ああ、おっかなかった」
それでも横綱の直ぐ近くまで行った岡田を、みんなは羨ましいと思った。
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- 平成17年5月10日(火曜日)
【晴】
黄金週間も終わり、次は夏休みまで気の遠くなるような長い日を過ごさなければ、まとまった休みはないと思うと、物凄くげんなりしてしまい、いくら先生や親が気持ちを切り替えてシャキッとしろとハッパをかけても、なかなかそんな訳には行かないのだ。
本当は学校なんか行きたくなかったが、サボったりしたら何をされるか分からないので、朝食が済むとカバンを引きずって、ダラダラと表通りまで出た。
通りには顔見知りの悪ガキ共が、デレーッと休みボケした顔をぶら下げて、いかにも嫌そうにズルズルと歩いている。
「オース」、「オース」
死んだ魚のような目が、半分開いたまぶたの奥からトロンとこっちを見ながら、お座成りの挨拶を交し合う。
「あーあ、また学校が始まるんかよ。何で学校なんかあるんだんべな。俺ぁ、学校のねえ国に行きてえよ」
「本当だよな。大人は何で学校なんか作ったんだんべ。学校がなけりゃ、毎日が日曜日なのになあ」
そんな私達を、まるでゴミ箱でも見るような目つきで睨みながら、良い子のグループが追い抜いて行く。
「何だよオメエ達は、いい子ぶりっこしやがってよ。本当はオメ達だって学校行くの嫌でたまんねえくせによ」
「フン、あんた達と一緒にしないでよ。そうやって、学校を嫌ってると、将来きっと泣く事になるんだから」
「ヘン、誰が泣くもんか。だいたい子供のくせに学校に行くのが好きだなんて、オメ達どうかしてるんだよ。コラッ近付くな、キチゲーがうつる」
「バアカが、キチガイがうつる訳ないだろうに。そっちこそ馬鹿がうつるからそばに寄らないでよ」
「バカで結構利口で困る」
変な節をつけて歌うようにはやすと、近くにいた奴らが一斉に大笑いした。
私はそんなやりとりを聞いている内に、何だか気分がスッキリして来て、学校への道が楽しくなって来た。
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- 平成17年5月9日(月曜日)
【晴】《8日の続き》
帰り道にヤッさんの家に寄って、市役所での話をすると、「全くあいつらときたら、弱い者をいたぶる事しか能がないんだから。本当に嫌だよね」と腹立たちそうに言った。
まさか役人全員がそうであるはずはないだろうと内心は思ったけれど、余計な事を言うとオバさんに叱られそうなので、黙って知らん振りをしていた。
「ヤキソバ焼くから食べてちょうだい。ヤスオが世話になったお礼だよ」
(そら来た)と私は顔には出さなかったが、期待通りになった事に思わずヒザを打ちそうになった。
オバさんの店のヤキソバは絶品だったから、ごちそうになれなくても、お金を払って食べるつもりでいたので、オバさんの一言は、この上なく嬉しかった。
オバさんはヤキソバの台の前に立つと、いつものように手慣れたヘラさばきで、あっという間に二人前を焼いた。
「ヤスオ、お前もコーちゃんと一緒に食べちゃいな」
どう見ても、いつも売っているよりは5割増し位の盛りで出て来た皿からは、ゆらゆらと立ちのぼる湯気と一緒にたまらなく美味そうな香りも漂って来た。
「いただきます」、「いただきますオフクロ様」
ヤッさんのおどけた言い方には、さっきまでの不安感はなく、私もホッと一安心だった。
二人で食べたヤキソバの味は、いつもよりずっと美味かった。
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- 平成17年5月8日(日曜日)
【晴】《7日の続き》
あの頃の小学校5年生といえば、精神の成熟度は多分現在の高校生程度だったろうから、当時の大人もそれなりの目で見ていたろうし、個人差も手伝って、結構存在感があったのだと思う。
だから身長のある子供は、大人と五分のケンカが出来たのだ。
それに、殴り合いや取っ組み合いは日常茶飯事だったから、下手な大人など苦もなくねじ伏せる位は朝飯前の奴も少なからずいた。
現に遠縁に当たる吉田などは、5年生とはいえ身長が170cm以上あったし、その分腕力も凄かったから、そこらのチンピラ共なんか吉田が通ると背を丸めて脇によけた位だった。
私も負けん気だけは人一倍だったので、こんな時には相手が大人でも大抵はタジタジとなったものだ。
それに理はこっちにあるのだし、何の後ろめたさもなかったから、表ざたになれば都合の悪い相手とは違って勢いがある。
そんな訳で相手の旗色は悪くなって行き、周囲の連中も関わり合いにならないようにと、その場を離れてしまっていた。
「分かった分かった、ほんの冗談で言っただけなのに、何もそんなに怒る事はないだろうに。ボク悪かったな。泣き止んでくれよ」
さっきとは行って帰る程コロッと態度が変わって、私は何だか拍子抜けしてしまったが、ヤッさんが母ちゃんの用が足せればそれでいいのだから、そのままおとなしく引き下がって口をつぐんだ。
急に親切になった職員の指導で、無事用を済ませたヤッさんと市役所を出ると、ヤッさんは「コーちゃん市役所っておっかねえとこだな。母ちゃんが来るの嫌がるのも無理ねえよ。俺もう二度と来たくねえよ」としみじみ言うのだった。
私はいつの日か皆が嫌な思いをする場所や人達が、社会から姿を消す日が来ればいいなと、心から思った。
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- 平成17年5月7日(土曜日)
【晴のち雨】《6日の続き》
私も両親の使いでよく市役所には来ていたので、窓口の連中の意地悪さには慣れていたが、親一人子一人のヤッさんにとって、市役所に来る事そのものが大変な行為の上に、高いカウンターの向こうから頭ごなしに怒鳴りつけられたので、ただポロポロと涙を流して立ち尽くす以外になかったようだ。
「何メソメソ泣いてるんだ。手続きしないんだったら、他の人の邪魔になるから脇にどいてろ」
泣き出したヤッさんの姿を見て苛虐的になった職員は、歪んだ薄笑いを浮かべながら、まるで野良犬でも扱うかのように手を振って、ヤッさんをカウンターの前から追い払った。
口の端にくわえたタバコの煙が目にしみるのか、薄笑いに加えて歪んだ顔からは、誠意の欠片も見出せなかった。
「オイッ、いい加減にしろよ」
私はカウンター越しに職員の正面に立つと、低い声でその職員に言った。
相手は目をむいて「何だこのガキが、大人に向かって小生意気な口をききやがって。学校はどこだ、先生に言いつけるぞ」
「ふざけんじゃねえ。大人だったら何でこんな弱い者いじめするんだ。いいとも、俺は西小学校5年5組渡辺だ。担任は川島先生、家は緑町だ。言いつけるんなら言いつけてみろ。そうなったら俺もテメエのふざけた態度を洗いざらいぶちまけてやるからな。このろくでなし野郎が」
今や完全に開き直った私は、町内のケンカで見聞きしているセリフや振る舞いを一生懸命思い出しながら、精一杯すごんだ。
「このっ、このっ、…」
相手は出鼻を挫かれて二の句が出ずに、顔を真っ赤にして私を睨みつけていたが、一歩も引かない私に、元々自分に非がある事も手伝って、急に目を背けると黙ってしまった。
「テメエは本当にロクでなしだよ。子供相手にそんな意地悪して、恥ずかしくねえのか、このバカヤロー」
私は大声で相手を怒鳴りつけて追い討ちをかけた。
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- 平成17年5月6日(金曜日)
【晴】《5日の続き》
市役所の建物は、足尾の鉱山事務所を移転した木造洋館づくりで実に魅力的なのだが、多くの市民にとって、特に子供には親しみにくい場所であった。
今では全く考えられない事だが、あの頃の役所ときたら、国鉄や私鉄の駅員や警察官、それに郵便局員や電報電話局の局員と同じように、他人に親切にする事を禁じられているのかと思う程に、礼儀を欠いた根性悪が多かった。
今でいう市民課の窓口に用があって出向くと、まるで退屈凌ぎでもしているかのように、ねちねちと難癖をつけたり揚げ足を取ったりで、何だか市民が市役所に来てはいけないのかと思える程のいじめ意地悪が日常化していた。
そのくせ少しでも強面する相手には、ニコニコともみ手で応待するのだから、弱い者には強く、強い者には弱い人間の見本のような連中が多かったのだが、勿論立派な人格者も沢山いた事も確かで、そんな人に当たると、とても嬉しかった。
ヤッさんはオズオズとカウンターに近付くと「あのー、母ちゃんに頼まれて戸籍抄本を貰いに来ました」と、タバコをくわえて向かいの職員と雑談を交わしている男の人に声を掛けた。
しかし、その人はヤッさんの声を聞こえない振りをして、顔を向けもしないで談笑に余念がない。
「あのー、すいません、戸籍抄本はどうすれば貰えますか?」
ますますオドオドして語り掛けるヤッさんをチラッと見ると、直ぐ何もなかったように雑談の輪の中に戻って行った。
雑談相手の職員は、俺には関係ないとばかりに、ニヤニヤと薄笑いを浮かべながら、ヤッさんをまるで迷い犬でも見るような目で見下ろしているだけであった。
ヤッさんはしばらく黙って下を向いていたが、やがて少し泣き声になって「すみません戸籍抄本…」と言ったとたん、「ウルセーな、さっきから戸籍抄本戸籍抄本って馬鹿のひとつおぼえみたいに繰り返しやがって。抄本が欲しかったら用紙に書いて出さなきゃ駄目だろうが」と怒鳴りつけて来た。
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- 平成17年5月5日(木曜日)
【晴】
校門を出ると直ぐに、ヤッさんが何かにおびえたような顔で、こっちにやって来るのに出合った。
「ヤッさん忘れ物かい。それともお使いか」
「あっコーちゃん、悪りいんだけど一緒に来てくんねえかな。カーちゃんに言われて市役所に行くんだけど、俺ああいう所に行くの、すごく嫌なんだよ。だって色々聞かれても、何て答えたらいいか分かんねえし、市役所の人って、みんな意地悪べえだから、俺おっかなくって仕様がねえんだよ」
ヤッさんは半分泣きそうになって頼み込むのだった。
「いいよ、一緒に行ってやるよ。市役所のどこに行くんだい」
「戸籍係、戸籍抄本を一枚もらって来るん」
「分かった一階だな。大丈夫心配するなよ。あいつらがまた意地悪したら、俺がそいつをぶっとばしてやるから」
あの頃の私は全く怖い物知らずで、相手が人間の時は、親と先生以外だったら、理に合わない時には、たとえ大人にだって飛びかかって行った。
そんな私の事をヤッさんもよく知っていたので、心細い気持ちの時に都合良く出合ったのを好機とばかりに、私の腕を掴んで離さなかった。
小学校5年生の時に、私の身長は160cm近くまでになっていたから、たとえ子供とはいっても、それなりに押し出しが良かったので、こんな時には用心棒代わりになるのを、ヤッさんは知っていたのだ。
私も気の良いヤッさんが意地悪役人にいじめられるのが可哀想だったから、二つ返事で同行を引き受けた。
学校から役所までは、歩いて20分位のもので、逆さ川沿いの道を日赤病院まで進み、あとは川を離れて東に行けば直ぐだった。
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- 平成17年5月4日(水曜日)
【晴】《3日の続き》
母の歌は時々耳にする事はあったが、父が歌っているのを聞いた事は、子供の頃には一度もなかったと思う。
私が父の歌を初めて聴いたのは、もう20歳を過ぎていたろうか。
従業員の慰安旅行の車中で、請われるままに披露した「どどいつ」だった。
父が若い時には、同業者との付き合いから、結構旦那遊びもしたというから、きっとその頃に習いおぼえたのだろう。
子供の耳にも年期の入った節回しだったが、「旦那は本当は小唄の方が得意なんだけどな」と、隣に座った政どんが耳打ちしたのには、正直驚いてしまった。
家には古いマンドリンやヴァイオリンがホコリを被っていたが、聞けば父が習っていたのだそうだ。
両方とも結局は物にならず、二つとも他のガラクタと一緒に放り出されていたもののようであった。
本当は琵琶を習いたかったのだそうだが、最愛の弟弟子がその道の大家となってしまったので、気抜けして習わなかったのだそうだが、果たして本当だろうか。
父の直ぐ下の弟は綿古流尺八の名人だったし、知人の中には琵琶などの専門家も多くいたから、多分父にはその方面の才能がなかったのだろう。
その代わり父の歴史に関する知識は驚嘆に値した。
本人も勉強の中で歴史が一番好きだったそうで、特に日本史の知識は、古代から近代までをカバーしていたので、宿題の時には本当に助かった。
歴史の関連として万葉集、古今和歌集などにも相当精通していたし、俳句は蕪村を愛した。
間もなく、父の享年と同じ年を迎える。
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- 平成17年5月3日(火曜日)
【晴】《2日の続き》
母が子供の頃には、年に数回は瞽女さん達が巡って来て、何日か逗留して近在を騒がして歩いたそうだ。
瞽女さん達は、門付けの事を騒がすと言ったと聞いた。
今と違って娯楽などほとんど無い時代だったから、瞽女の到来は大人だけではなく、子供達にとっても楽しみだったに違いない。
きっと母も目を輝かせて瞽女さんの芸に魅入り、何曲かをおぼえたのだろう。
子供の頃におぼえたものは、決して忘れないから不思議だ。
母は瞽女歌だけでなく、のぞきカラクリもなかなかうまく歌えたが、私は何となく品を欠いた節回しがあまり好きではなく、興が乗って母が歌い始めると、私はさり気なくその場を離れて聴かないようにした。
歌そのものより、母の歌い方が嫌いだったといってもよい。
変なノド声と妙な調子で延々と歌い続けるのだが、聴いている人が「ハーどした」とか「アどっこい」とか合いの手を入れるのも気に入らなかった。
その頃の私は、毎日のように「コールユーブンゲン」やその類の発声練習、楽典の勉強などに追い回されていた事もあり、世俗的な音曲に対する小生意気な偏見を持ち始めた時期でもあった。
母はそんな私の変化に気付いたのか、事ある毎に「古いならわしや伝統を馬鹿にしてはいけない」と説教した。
私もやはり戦後の世代の一人であったのだろう、少しずつ親の価値観や考え方に反発するようになっていった。
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- 平成17年5月2日(月曜日)
【雨】
コーラスの練習で家に帰るのが少し遅くなり、母屋の玄関近くまで来ると、珍しく母の歌声が耳に入って来た。
母の歌など、子守歌以外めったに聞いた事はないが、何かの折に酒でも入ると、思いのほかの美声で、古い歌を切々と歌いあげるのだった。
子守歌以外に母が歌うのは、その頃でもめったに聞かなくなっていた瞽女歌といわれるもので、語られる歌の中身とは違って、早い調子の陽気な響きをもった不思議な歌だった。
玄関の戸を開けると、上り框には小林のオバさんがいて、見えぬ目を閉じ少しうつむき加減で、母の歌う瞽女歌に耳を傾けている。
オバさんも瞽女と同じように盲目で、按摩の腕はたいしたものだと、この辺では評判の人なのを私もよく知っていた。
どのような成り行きで母が歌う事になったのかは、相手が小林のオバさんだというところから、何となく察しがつくような気がして、私は思わず「オバさんも瞽女さんだったの」と変な質問をしてしまったのだった。
「あれまあ、とんでもない話ですよお。私にゃ、そんな才覚はありゃしませんよ。歌える歌といったら、わらべ歌くらいのもので、近頃のはやり歌だって、ろくに歌えやしませんのさ」
オバさんはそう言ってから、手で口をおさえてコロコロと笑った。
いつも顔をうつむいているためか、オバさんの背中は少し丸くなっていて、上り框に腰掛けて両手で茶碗を持つ姿は、まるで子供のように小さく見えた。
母は私が来た事で歌が中断したのをきっかけに、座を立って台所の方へ行くと、間もなく乾物の袋を持って戻って来た。
帰りにオバさんに持たせるのだろう。
見ると袋の中身は、少し前に千葉の網元の親戚が携えて来た沢山の土産のひとつ、干しワカメだった。
「オカミさん、どうぞ続きを聴かせて下さいましな」
オバさんの誘いに、母は火鉢の縁を手の平で叩きながら、また瞽女歌を歌い始めた。
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- 平成17年5月1日(日曜日)
【晴】《30日の続き》
長谷川の家の前は、北から足利公園に入る広い坂道で、問題の石段は、長谷川の家を過ぎて少しのぼった左側から、両脇を高い玉石の石垣に挟まれて下って行き、そのまま真っ直ぐに行けば、細い露地となって「福厳寺」の前に出る。
石段を降りて左に行くと、直ぐに逆さ川に架かる小さな橋に出て、そこを渡れば町屋が建ち並ぶ通りとなる。
だから息を止めて走り下れば、ものの10秒とかからずに「呪い坂」を通り抜けられるのだ。
だが、昼間はともかく、夜この石段の坂を通れる奴は、おそらく皆の賞賛の浴びる程恐ろしい所だった。
ずっと以前から、この坂道には老婆の幽霊が出るという。
もう何人もの人が出会っているし、中には恐ろしさのあまり3日3晩寝込んでしまった人さえいたのだそうだ。
そのような状態を、この辺の人は「もっけ病み」と呼んでいた。
「もっけ病み」にかかった人の中には、食事も水もノドを通らず、ついには死んでしまう事さえあるそうで、たとえ助かったとしても当分は元に回復できない程怖いものらしい。
その頃の子供達にとって、「もっけ病み」は常識的知識のひとつだったから、もしも「呪い坂」を下って幽霊に出くわして、全員が無事ならいいが、誰かひとりでも「もっけ病み」にやられたら大変だというので、遠回りになるが広い道を通って帰ろうという事になった。
私は内心ホッとしていたが、それを仲間に知られないように、充分注意する事を忘れなかった。
人通りの多い表通りを歩いていても、宮内は絶対に最後尾を避けているのが、皆にもよく分かったけれど、私だって今夜一人で便所に行けるかどうか、とても心配だった。
■アトリエ雑記は平成12年12月15日からスタートしました。
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