アトリエ白美「渡辺肖像画工房」 渡辺晃吉
- 平成17年6月30日(木曜日)
【晴】《29日の続き》
猫女のオバさんの話し相手をしている内に、小人のオバさんが戻って来ると「ボク馬を見せてやるからおいで」と言って私の手を取ると、下のテントの方へ連れて行った。
石段をおりて直ぐの所に、大きく口を開けているテントの裏口から中に入ると、そこは大きくて広い物置小屋のように、種々雑多な物が積み重なっている場所で、まるで夢の世界かと思える程、不思議で楽しい空間だった。
「さあ、こっちだよ馬のいる場所は」
オバさんに手を引かれて、薄暗い通路を辿ると、そこには6頭の馬が繋がれていて、2人の男の人が念入りに世話をしていた。
オバさんは男の人達の所に行くと「すまないけどこの子に馬を見せてやって」と声を掛けてから、「あのね、私は少し用が残ってるから、ここで遊んでから一人で帰るんだよ。そして明日またおいで。裏から声を掛ければ入れてあげるから、木戸でお金払うんじゃないよ」と言った。
私は「しめた」と内心物凄く嬉しかったが、その気持ちをグッとおさえて「ハイ明日また来ます」と挨拶してオバさんを見送った。
離れて行くオバさんのうしろ姿を見ていると、歩く度に体が左右に大きく揺れて大変そうだった。
私は同じ人間なのに、小人のオバさんや猫女のオバさんのような人がどうして生まれて来るのか、不思議というよりも少し腹立たしい気持ちで考えてしまった。
「オイぼうず、馬に触ってみるか」
世話係のオジさんが大きな声で言うのを聞くと、私は即座に「ウン」と返事をして、馬のそばに近付いて行った。
近くで見る馬は、思ったよりもずっと大きくて、じっと私を見つめる目には、長いまつ毛が生えていたのには本当に驚いてしまった。
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- 平成17年6月29日(水曜日)
【晴】《28日の続き》
柱と屋根だけの大きな天幕の下は、休憩と食事の人が思い思いの場所で寛いでいたが、その中に不思議な女の人が居て私達を手招きしている。
その女の人は、草原に敷いたゴザの上に両足を投げ出すようにして座っていたが、よく見るとヒザの関節が普通とは逆になっているらしく、変な具合に曲がっているのが分かった。
「あの人は猫女だよ。立って歩く事は出来ないけど、座ったままで色々な芸が出来て、サーカスの人気者だからね」
小人のオバさんはそっと耳打ちをするように、背伸びしながら私に囁いた。
私達が近付くと、猫女のオバさんは「ボクさあ、いい子だからオバさんのお手伝いをしてくんないかな。お駄賃やるからさ」
私は直ぐに「ハイ何でもやります」と喜び勇んで答えると、オバさんは「この手紙をポストに入れて来て貰いたいんだけど。それから帰りにタバコ買って来てくれるかな。ゴールデンバットを3つね」
私は(何だ、ただのお使いか。サーカスの手伝いじゃねえのか)と思ったが、その事は口に出さずに、お金と手紙を受け取ると、「行って来ます」と返事を残して、ポストとタバコ屋のある「大宮」を目差して駆け出した。
「ホラ、急いで行って転ぶんじゃないよ」
小人のオバさんの声が背中から追いかけて来たが、私は返事もしないで道を急いだ。
手紙を出し大宮でタバコを買うと、つり銭の10円を手に握って、神楽殿裏まで駆け戻ってみると、小人のオバさんは用事でも出来たのか姿が見えなかった。
「オヤまあ、随分早かったね。どうもありがと。おつりはお駄賃にあげるから、飴でも買いなさい」
猫女のオバさんはニコニコ笑いながら、私の手からタバコを受け取ると、その内の一箱の口を破り、一本出して火をつけて美味そうに吸いだした。
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- 平成17年6月28日(火曜日)
【晴】《27日の続き》
母はそんな私の性格を、半分喜び半分心配して、「人懐こいのはいいけれど、これじゃあ誰でも簡単に連れて行けちゃうよね」と、人にこぼしているのを毎々耳にしていた。
ヨチヨチ歩きの頃からの性格は、小学校5年生になっても改まる事はなく、珍しそうな人が歩いていれば声を掛けたり、初めて目にする店先や仕事場があると必ず中に入って行った。
不思議なのは、めったに咎められたり叱られたりする事はなく、「ぼうず面白れえか」とか「ボクどこから来たの」とか親しそうに話し掛けて来て、時にはお菓子や飲み物にありつける事も度々あった。
それが目当てではないのだが、考える前に体が動いてしまい、気が付くと辺りの輪の中に入っているというのが、私にとっては自然の振る舞いであったようだ。
だからどうしても目立ってしまうのか、それが原因でいつも変な誤解を受けなければならなかったようだ。
目立ちたがり、お調子者、時にはそんな悪口を聞かなければならなかったが、どういう訳か私はあまり腹が立たなかった。
だからその時にも、サーカスの人達と一緒にいる所を咎められる事より、親に言い付けられる事の方が恐かった。
心配が絶えない母が、今度は私がサーカスの人と一緒に遊んでいたなんて聞いたら、おそらく卒倒する位に驚いてしまうだろう。
母にとってはサーカスなどというものは、決して触れてはならない禁断の場所のひとつであったろうから、事が露見したら押入れやお灸位では済まない、血も凍るようなお仕置が待っているだろう。
それでも私は、めったにない機会を捨てる気にはなれず、クダクダと文句を並べる人や友達を無視して、オバさんのあとについて歩き回った。
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- 平成17年6月27日(月曜日)
【晴】《26日の続き》
私は自分より何倍も大きいクマを、まるで犬のように可愛がっているオバさんが、まるで魔法使いのように思えて物凄く驚いただけでなく、心から尊敬せずにはいられなかった。
「ボクは見ているだけだよ。うっかり手を入れたりしたら、大変な事になるからね」
オバさんはクマをあやしながら私に注意したが、たとえ手を入れて頭を撫でろと言われたって、絶対にするもんかと思った。
いつもはクローバーの野原だった場所は、サーカスに使う色々な物や、一度に多勢の人達が休んだり食事をしたり出来る天幕などが張られ、まるで大きなオモチャ箱をひっくり返したようになっている。
クマなどの動物は、小さな猿以外は梅林の中にいるので、神社の境内全体がお祭広場のように華やかな雰囲気になっていた。
参堂をのぼって本殿までは誰でも来られるが、そこから南側は神楽殿の左右と杉林の前に長い荒縄が張られて、裏の野原や本殿脇の林に入れないようにしてあった。
それでも仕切りの縄の前には、見物をする人達が沢山集っていて、物珍しそうにこっちを眺めている。
中には顔見知りも多かったので、私が小人の女の人に手を引かれながら、自分達には手の届かない領域を自由に歩き回っているのを目ざとく見付けると、多分やきもちなのか「晃ちゃんダメだろう、そんな所に入って遊んでいると、今に酷い目に合うよ。お母さんに言い付けるからね」とか「あ〃悪いんだ、学校に行った時に先生に言うからな」とか、みんな目を三角にして私を非難するのだった。
考えると、私は小さい頃から妙に人懐こくて物怖じしないせいか、初対面の人達とも直ぐに仲良くなって、いつの間にかその輪の中に入っている事がよくあったのだ。
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- 平成17年6月26日(日曜日)
【曇】《25日の続き》
神楽殿裏はクローバーの草地で、東と南を白御影石の棚が囲んでいる。
石段をのぼると、南の棚が切れた所に小さな出入口が開いていて、草地を右に、梅林を左に見て本殿の前に通じているが、梅林に続く杉林が深い影を作って、この当たりは夏でも涼しかった。
草地はいつの間にかサーカスの資材置場や食堂、そして動物達の居場所になっていた。
私はドキドキしながら動物のオリを見てまわったが、どういう訳か馬がいなかった。
サーカスの事を日本語で曲馬団という位だから、馬はいなくてはならない動物なのに、草地にはクマと猿とオウムしか目に入らなかったので、「オバさん馬は?」と聞くと、「あ〃馬はここじゃなくてテントの中に繋いであるよ。だっていちいちこの石段をのぼり降りさせて、ケガでもしたら大変だろう。だから下に置いておくのさ」と答えた。
(なんだ、さっきは馬が頭をかじるって言ってたのに、ウソかよ)
私は心の中で悪態をついたが、そんな気配を感じたのか、オバさんはハハハと笑いながら、「大丈夫、ちゃんと馬も見せてやるから、今はクマと猿でガマンしな」と、さも面白そうに言うのだった。
オバさんはさすがに私を独りきりにはさせられないのか、私の手を握りっぱなしで、まずクマの所に連れて行った。
クマのオリは物凄く太い鉄棒で出来ていて、意外に狭いのに驚いた。
幅が10cmはあると思えるごっつい首輪をしたクマは、私達が近付くと、さも嬉しそうに声を出しながら鉄棒に身を摺り寄せて甘えている。
「太郎いい子だね」
オバさんがオリの隙間から手を入れて、クマの頭やノドを撫でてやると、クマはそれが嬉しくて、ググーッと声をもらしながら腹を見せて喜んでいた。
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- 平成17年6月25日(土曜日)
【晴】《24日の続き》
テントの中も団員達が忙しそうに作業していたが、外はそれ以上に多勢の人達が、慌しく立ち働いていて、賑やかというよりも少し恐い程の緊張感が漂っていた。
特にテントの裏の方は、直ぐうしろに高さ4m位の神社の石垣があり、そこに急ごしらえの幅広で大きなハシゴが掛けられ、上の境内に行き来が出来るようになっていて、神楽殿裏の草地との間を手荷物や何かの道具を持った人達が、まるで平地を歩いているかのような身軽さで登り降りしている。
私は曲芸を見ているような気になって、その光景に見入っていると、テントの裏口から出て来た小人の女の人が「ボク危ないから来ちゃダメだよ。それから上の空地にも行っちゃいけないよ。行くとクマや馬に頭をパクッてかじられちゃうよ。あ〃そうだ、うちのクマは子供を食べるのが大好きで、食べる前に顔をペロペロ舐めるんだよ、この間も言う事を聞かない子供が3人も食べられたんだから」と、ニコニコ笑いながら言った。
私は絶対にウソだと思ったが、この上には動物がいると分かると矢も盾もたまらずに、「オバさんボクを上に連れてって下さい」と、思わず頼んでしまった。
「いいよ私も今上に行くところだから一緒に行こう。ハシゴは危ないから、そこの石段をのぼろう」
小人の女の人は私の手を取ると、石垣の角にある石段に近付き、「ヨイショヨイショ」と声を掛けながらのぼって行った。
いくら大人だと分かっていても、頭のてっぺんが見える位の背丈しかない女の人に手を引かれているのが、何だかとても変な気がしたが、振り払うのも悪いと思い、私はおとなしく女の人に連れられて石段をのぼって行った。
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- 平成17年6月24日(金曜日)
【曇】《23日の続き》
テントの中を覗いてみると、何人かの人達が空中ブランコのやぐらを組んでいる最中で、頭に手ぬぐいを被った男の人が、大声で皆を指図している姿が目に入った。
小学校5年生ともなると、サーカスの団員は人さらいにさらわれて来た人達なんだという話にも、さすがに疑いを感じ始めていたけれど、「いつまでも外で遊んでいると、人さらいにさらわれてサーカスに売られちゃうよ」とか「そうやって親の言う事を聞かないと、サーカスに売っちゃうからね」などと脅され続けて来た事で心の芯にしみついた恐怖は、理屈や道理を越えて私を支配しているのか、指図をしている男の人が人さらいに見えて、思わず身震いしてテントの入口から飛び退いた。
「ぼうず中見たいか、見たいんなら入ってもいいぞ、だけど作業現場に近付くんじゃねえぞ」
太い縄の束を肩にした大きな男の人が、ガラガラ声で話し掛けて来たが、私は「ううん見たくないから中に入らない」と慌ててその場を逃げ出してしまった。
落ち着いて考えれば、サーカスの団員が全員人さらいに連れて来られた人達なら、いくらでも脱出する機会があるだろうし、警察に訴えて助けてもらう事だって出来るだろうと、直ぐに気付くはずだし、もしも私がさらわれてサーカスに売られたとしても、親が黙っているはずもないと分かるのだろうが、(でもサーカスに売っちゃうって、いつも言ってるから、もしかしたら俺が連れて行かれても、捜してくれないかも…)という疑いが微かに心を突き刺して来るのを感じ、やっぱりサーカスというのは、物凄く楽しいものと同時に、物凄く恐いものという気持ちを、拭い去る事が出来なかった。
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- 平成17年6月23日(木曜日)
【晴】
公園の広場にサーカスのテントが張られ、宣伝のチンドン屋が町内を練り歩いて来場を促し、子供は勿論大人も心が浮き立ったのは、6月も末に入った頃だった。
その頃は梅雨の季節でもあり、これといった行事も一休みの時期だったので、みんなは久しぶりのお祭気分に、何となく顔がほころんで、町全体が明るい活気に包まれていた。
学校でも話題は全てサーカスの事に限られる位に熱っぽくなっていたので、朝礼で校長先生が長い説教で注意するという、常とは違った雰囲気になったが、それがかえって皆の熱を、余計に熱くしてしまったようだ。
だいたい自分達の町にサーカスがやって来たというのに、そういう場所には近付くなと言われたって、「ハイ分かりました」と素直に言う事を聞く奴なんて、絶対にいる訳がないのだ。
それに我が家では、父が誰よりも一番熱くなっていて、誰かと目が合えばサーカスの話をする位だったから、私達に行くなとは決して言わないと分かっていたので、先生には悪いけれど、広場にサーカスがいる限り、毎日でも出掛けて行くつもりだ。
明日の開演を待ち切れずに、学校から帰ると家の中にカバンを投げ込み、急いで広場に行ってみると、テントの辺りには物見高い見物人が、細々と作業をしている団員と話をしたり、出入口から中を覗き込んだりしていた。
誰の目もキラキラと輝いて、その場には特別な空気が漂っているような気がする程、いつもとは全く違う空間が生まれていた。
段々と増えて来た見物人に気を利かせたのか、テントの高い所に作られたテラスから、ジンタが「美しき天然」の演奏を始めると、誰もがテラスに目をやると、その場を動かずに聴き入るのだった。
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- 平成17年6月22日(水曜日)
【曇】《21日の続き》
先生は予期せぬ事に動揺したのか、馬場の顔をポカンと眺めたまま固まってしまった。
それは先生にしたら無理もないのだ。
あいつに限って、いつも騒ぎを起こしている私達悪ガキ軍団と行動を共にするなど、およそ考えられないのだろう。
しかし馬場には意外な面があって、結構付き合いも良く、これまでにも何度か悪企みに加担しているのだが、普段の馬場の人柄から、大抵の人はその辺を想像する事が出来ない。
かと言って何も馬場が良い子ぶっている訳ではなく、勤勉で誠実な面も、いたずら好きで愉快な面も、馬場の自然な人柄なのに、どうしても真面目な部分だけが目立ってしまうだけで、本人にとってはいい迷惑だったろう。
だから馬場は自分も今回の企みに加わっている事を知った先生が、きっと驚くだろうと予測していたから、立ちあがるには相当の勇気が必要だったと思う。
それに馬場は、一番最初に意味の分かる言葉を口にした事で、この企てから脱落した訳となり、その瞬間から仲間と切り離された形になってしまった。
考えてみれば、ここまで付き合っただけでも、馬場にしたら上出来だったと思う。
結局それがきっかけとなり、先生の大目玉の前には誰も逆らえず、「でたらめしゃべり」は終わりとなってしまった。
その日の帰り道、言い出しっぺの橋本は校門を出たところから家の前まで、「おめえのせいで今日はひでえ目に会ったじゃねえか」と皆に小突き廻されっぱなしで、オイオイと泣き泣き歩いていた。
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- 平成17年6月21日(火曜日)
【晴】《20日の続き》
こんな時は企てに関係のない奴にとって、またとない機会とばかりに高見の見物と洒落込み、ニヤニヤ笑いながら周囲を見渡すものだから、黙って下を向いているのが張本人達だと直ぐに見破られてしまう。
奴らはそれと知って故意に無関係の素振りをするのだから、全く根性悪だと思うのだが、そいつらの事を言える義理もないのだ。
なぜかと言えば、もし逆の立場だったら、私達もおそらくここぞとばかりに同じ振る舞いをするだろうからだ。
先生はそんな様子から直ぐに悪さ仲間を見付け出しては、頭にゲンコツをくれて「立ってろ」と命令するのだった。
岡田と橋本はもう立たされていたので、あとは次々に私や小野寺、江泉、長谷川、山本、大屋、宮内、仁田山と、先生も大体予想がつく連中が、ぞろぞろと席を立たされて行った。
女子達は、そんな私達を(あのバカ連中が)という、いつもの蔑みを込めた目で眺めている。
最後に先生は、馬場の様子が明らかに悪さ仲間と同じなのに気付き、不信そうな様子で「まさか馬場君まで仲間に入った訳はないよね」と、いかにも意外そうに尋ねるのだった。
馬場は黙って席を立つと「先生、僕も仲間に入りました」と、今にも泣きそうな顔で言った。
そのとたん、教室の中には馬場への賞賛のため息がわいた。
普段から物静かで行儀の良い馬場は、そんな性格なだけに勇気のある奴という印象は薄かったから、こんな状況の中で、毅然として正直に告白した事が、皆の好感を呼んだのだ。
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- 平成17年6月20日(月曜日)
【晴】《19日の続き》
「つぎ、橋本君詠んで。さっきから一生懸命作っていたようだったから、きっといいのが出来たろうから」
橋本はギクッと首をすくめると、周りにキョロキョロ視線を動かしながら、オズオズ立ち上がった。
「どした?早く詠みなさいよ。出来てるんだろ?」
黙ってうつむいている橋本に向かって、先生はいら立たちそうに促した。
「オーブレネリ、スットコドッコイ、クンチャラパ、ホンマドンスワ、ホンマドンスワ」
ここに来て先生の堪忍袋のヒモが切れて「何ふざけてるんだ。お前は授業を何だと思ってる。さっき真面目にやれって言ったばかりなのに。お前達は先生をバカにしてるのか」と、完全に頭に来てしまった。
ホンマドンスワというのは橋本の十八番で、身をよじり両手をもがくように振りながら、顔中の筋肉に力を込めて「ホーンマ、ドーンス……ワイナー」と、まるで気が狂ったようにやらかすのだが、これが仲間の間では大うけだったのだ。
その事は先生も知っていて、別に咎めだてなどはしなかった。
しかし、まさか授業中に飛び出して来るとは思ってもいなかった先生は、もうこれ以上は怒れないと思える程の勢いで怒りまくるのだった。
橋本は肩をすくめ首を縮込ませて、先生の怒りにじっと耐えている。
私達も、まるで自分が怒鳴りつけられているような気分になって、橋本のビビッた姿を見ていたが、その内に女子の一人が席を立って「先生この人達今日一日は通じる言葉話しません」と私達の企みをばらしてしまった。
「それってどういう事かな。誰か先生に分かるように説明しなさい」
先生に問われるまま、事情を知っている女子の何人かが、代わる代わる今度の事を先生に説明すると、先生は「いつもいつもお前らは馬鹿な事ばかり考えているんだから、もう呆れかえって叱る言葉もないよ。それで誰と誰が悪さに首を突っ込んでいるんだ。正直に言ってみなさい」と、こういう時に見せる薄気味悪い笑顔と猫なで声で言った。
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- 平成17年6月19日(日曜日)
【曇時々雨】《18日の続き》
「ハーイ、出来た人から発表して下さい」
次々と手が挙がり、指された者が立って自作を詠むと、先生はそれぞれに寸評を加えて行く。
「感じた事を素直に表現していて、皆とてもいいよ」
意外に活発な発表に気を良くしている先生の目にとまらないように、私はノートに目を落として考えている振りをしたり、デタラメな文字を書いては消したりしながら、じっと授業が終わるのを待っていた。
「ハイ岡田君、そろそろ出来たんじゃないの。さっきから見てると、随分退屈そうだから、もういっぱい出来ちゃって時間が余っちゃったんでしょう。どれかひとつ発表しなさい」
(あのバカが、とうとう捕まっちまった。どうするんだよ全く)
岡田も企みに加わっている仲間の一人だったから、みんな他人事ではないのだ。
岡田は刑場に向かう囚人のような顔になって、おずおずと立ち上がった。
岡田の目は(オイ助けてくれよ)と、周りに訴えていたが、私達はじっと下を向いて岡田の目線を避ける。
「ホラどしたの、早く詠みなさい。いっぱい作ったんでしょう。早く発表しなさいって言うのに、何やってるんだ」
先生は立ったままボーッとしている岡田に少しいらついたのか、語気を強めて言った。
「………」
「どした?なんで詠まないの?お腹でも痛いの?」
「………」
「本当に怒るよもう。なんで黙ってるの、早く発表しなさいよ」
「チョンパラゲ、スンダラマッカラ、チョンパラゲ、ホンマドンスワ、ホンマドンスワ」
先生はポカーンとしてしばらくの間岡田を見ていたが、明らかに顔が変わって「何それ、先生は短歌を作るようにって言ったでしょう。それをなんだよ、訳の分からないデタラメを並べてごまかして。しばらく立ってなさい」
岡田はうつむいたまま上目使いで私達を睨みつけながら、先生の言う通りその場に立たされたのだった。
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- 平成17年6月18日(土曜日)
【晴】《17日の続き》
「じゃあ出来た人は手を挙げて発表しなさい。無理に作ったり気取ったりしないで、普段の気持ちを表せばいいんだからね」
成績はいいけれど変に大人っぽい奴が、こんな時に必ず小生意気な発表をするのを、暗に牽制しているのがよく分かったが、それは私ばかりではないらしく、特に女子の何人かが、チラチラとそいつの方を盗み見ていた。
でも今日だけは事情が違うので、誰でもいいからドンドン発表して、先生の関心を私達の方に向けないようにしてもらいたいと、真剣に考えていたが、どうやら他の連中も同じ気持ちらしく、誰もが背を少し丸めて下を向いたまま、先生と顔を合わさないように一生懸命だった。
中でも弾みで仲間に入ってしまった馬場は、根がまじめで成績も良かったから、顔面が蒼白になっている。
(バカ、あれじゃあ逆に目立って仕様がねえじゃねえか)
私は心の中でそう思ったものの、それを相手に伝える事が出来ないもどかしさに、少し目立った動きをしてしまったのか、先生はジロッと私を見ると、「渡辺、さっきからソワソワと落ち着きがなくて何やってるんだい。だめだよ、もっと落ち着いて物事に集中しなくっちゃあ」
私はヤバいと芯から縮み上がってしまったが、それが反省と受け取ってもらえたのか、先生はそれ以上追求して来なかった。
「あのバカ」と呟く内藤の声も、私達の企みではなく私自身の失態への言葉と受け取ったのか「人の事はいいから早く歌を作りなさい」と気のない小言をぶつけただけで、先生は教壇の方へ戻って行った。
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- 平成17年6月17日(金曜日)
【晴】
5年生の夏休みも間もなくという頃の昼休みに、5組で一番ひょうきん者の橋本が、「面白え事考えたんだけどさ、これから学校が終わるまでの間、絶対に通じる言葉を話さねえで全部デタラメ語をしゃべって、もしも普通にしゃべっちゃったら、そいつはムグシ刑になるってのはどうだんべ」と、またまた素っ頓狂な事を言い出した。
「そりゃ面白え、やるべやるべ」と、他の事ならともかく、悪さをする話に乗らない奴なんて、少なくとも私達の仲間にはいなかったから、全員すぐに賛成しただけでは済まず、授業中も中断しないで続けるという事になった。
私は少しヤバいとは思ったが、ここでうっかり反対でもしようものなら、たちまち腰抜け野郎というレッテルをはられてしまうのは目に見えているので、「いいぞ、みんな絶対に本当の言葉しゃべるんじゃねえぞ」と、心にもない強がりを言ってしまったのだ。
やがて昼休みが終わり、川島先生が何も知らずに教室にあがると、5時間目の国語の時間が始まった。
「ハイ、今日は昨日の続きで短歌を実際に作ります。昨日も話したように、俳句とは違い季語はいらないけれど、ウソを書いたり飾り過ぎないで、自分が見た事や感じた事を素直に言葉にしてみよう」
悪さに加わっている仲間は、内心ビクビクが止まらなかった。
普通の授業だったら、始終口をつぐんでいれば、かえって静かでよろしいとほめられるだろうし、万一質問を受けても、黙って頭でも掻いてごまかせるのだが、短歌を作るとなると、誰かが必ず指されて発表しない訳にはいかないだろう。
何しろクラスの男子の半数近くが今回の悪さに加わっていたのだから、黙って下を向いて授業が終わるのを待っていても、まず無事に済むはずがない。
私は(まいったな、今日は絶対に何かが起こるぞ)と、悪い予感がしきりにしていて落ち着かなかった。
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- 平成17年6月16日(木曜日)
【曇】
緑町の渡良瀬川原から砂利を運ぶ荷馬車の馬方が、長袖のシャツから半袖のクレープに衣替えすると、季節はそろそろ夏を迎える。
不思議なのは、これからどんなに暑い日が続くようになっても、馬方のほとんどは毛糸の腹巻をしている事だった。
そういえば我が家でも、夏になると寝る前には必ず腹巻をさせられた。
あの頃の扇風機には、タイマーなどという便利なものは付いてなかったから、猛暑の夜などには床に就いた私達に、母はよく扇風機の風を当ててくれたが、「付けっぱなしで寝てしまうと、朝には死んでしまうからね」と、私達が寝入るのを待って必ず消してくれた。
そんな私達は寝巻の下に腹巻をしただけで、上には何も掛けていなかったけれど、寝冷えをした事はほとんどなかったから、腹巻というのは、とても健康的な衣料だったのだろう。
腹巻と似ているが形の違うものに、金太郎の人形がしているので有名な腹掛けというのがあったが、私も自分が腹掛けをしていた事を、微かに覚えている。
その頃、弟はまだ乳を飲んでいたから、多分私の年齢も4歳か5歳だったかもしれない。
あの頃の夏は、妙な病気との戦いの季節でもあって、幼い子がよく死んだものだった。
ちょっとした事で子供は腹をこわし、最悪の時は深刻な伝染病で死亡したり、長期の療養をする事になったので、親達はとにかく子供の腹をこわさないようにと、腹巻や腹掛けをさせたようだが、実際にはどれほど効果があったのかよく分からない。
しかし、子供を守る親の心がこもった腹巻が、腹を守らない訳がないと私は思う。
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- 平成17年6月15日(水曜日)
【曇のち雨】
生まれて初めての味にも色々あるけれど、その中で特に印象が強かった物の中に、ソフトクリームがあった。
私が初めてソフトクリームに出会ったのは小学校5年生の夏で、近くの店が自家製のアイスキャンデーやアイスクリームに合わせて、専門の機械を入れて売り出したのだが、見た目といい味といい、今までには無かった珍しさが当たって、連日大忙しの盛況だった。
値段は一本20円だったろうか、当然子供の小遣いで買える代物ではなく、めったな事ではありつけなかったが、それでもフワッとした舌触りと濃厚なミルクの味は、一度口にしたら二度と忘れられない程の強烈な印象であった。
アイスキャンデーやかき氷とも違うし、アイスクリームのようでいて全然違う口当たりだし、第一見た目の量が多いのが好きだった。
それよりも私にとっては、あのコーンのカップがとても気に入ったのだが、その訳は「道」というイタリア映画のラストシーンで、アンソニー・クイン扮するザンパノが、海岸通りに露店を出しているアイスクリーム屋から、コーンカップに入ったアイスクリームを買って食べるシーンが、なぜかとても好きだったからだ。
私の知る限り、アイスクリームは厚さ約10cmの小さな箱に入って売られていたので、コーンカップがとても洒落た物に見えたのだ。
もうひとつ重要なのは、コーンカップは箱と違って食べられたのが、何だか凄く得をした気がした事だったろうか。
私はめったにない幸運にありついて、アイスクリームのコーンカップを手にした時は、例え一滴といえども中身をこぼさないと、固く決心してかぶりつくのだった。
至福の時はまたたく間に過ぎ、やがてコーンの最後の尻尾を口に入れると、その後には必ず変な空しさに襲われるのだが、それはまるで夏休みの最後の日のようだった。
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- 平成17年6月14日(火曜日)
【晴】《13日の続き》
そのあとチミは、さも動くのが面倒と言わんばかりにノソノソと起き上がると、再び私の前まで近付いて来て、私の顔をしげしげと見ながら、出ているかどうか分からない位の小さな声で、ニャーンと鳴くのだが、あれは多分「何するんだよ痛えじゃねえか」と、私に抗議しているのかもしれないが、その様子には怒っている迫力の欠片もなかった。
チミは完璧な黒トラで頭も大きく、目はとびぬけて大きかったが、いつまでも幼顔が抜けないせいか、近所のドラ猫仲間に馬鹿にされ、あまり外出する事もなく、大抵は家の中でノンビリと過ごしていた。
そんなチミを、いくら猫が嫌いだからといって、手で払いのけるなんて許せないと思った。
チミは可哀想に呆然として仰向けにひっくり返ったまま、両目を天井に向けて固まってしまった。
私は直ぐに飛んで行ってチミを抱き上げると、女の人を睨みつけながら、二階への階段を荒々しく踏んでその場を離れたのだった。
「チミ大丈夫か?ビックリしたろ、あのバカ女め、お前が嫌いなんだって。嫌いでケッコウ好かれて困るだよな」
私はビックリしてまだ固まっているチミを、一生懸命励ましたり慰めたり、とにかく大変な騒ぎとなってしまった。
その晩私はチミを寝床に入れてやったが、どういう訳かチミは毎晩誰かの布団に入って寝るのだけれど、その時に30分近く人の顔をなめ続けるクセがあったので、正直あまりチミを入れたくなかった。
チミは案の定私の顔をペロペロとなめ続け、やっと満足すると頭を私の腕に乗せて眠りについた。
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- 平成17年6月13日(月曜日)
【晴】《12日の続き》
チビ猫の名前が、母と姉達の対立でなかなか決まらなかったが、母のミーと姉達のチーを合わせて「チミ」にする事で話がまとまり、我が家のチビ猫は「チミ」と呼ばれるようになったが、私には何だか間が抜けた名前のような気がして、あまり気乗りがしなかった。
「チミ」はオス猫だったので、私は「ごん太」と名付けたかったのだが、母や姉からは全く相手にされず、結局「チミ」は、それから馬鹿みたいな名前で暮らす事になった。
かなり幼い時に親から引き離されたのだろうか、チミはとても甘えん坊で、いつも誰かのそばにくっついていないと不安になるのか、相手をしてくれる者がいない時などは、たまたま訪ねてきた客のヒザにでも何でも、とりあえず上り込んで行くという位に、全く警戒心のない人懐こい奴だった。
ヒザに乗られた客が、たまたま猫好きならいいのだが、ある日の事、兄の女友達が訪ねて来た時、例によってノソノソとその人のヒザに乗ったとたん、「あらあヤダー」と悲鳴を上げながら、その人はチミを思い切りヒザから払い落としたのだ。
今までに一度もそんな扱いを受けた事のなかったチミは、まさか払い落とされるとは思ってもいなかったのだろう、いつものように完全に脱力していたから、まるで無防備状態で畳に転がってしまった。
何しろチミののろまな事といったら、私の前に来て正座しているのを、「いいかチミ、これからお前におでこするから(おでこを指で押す)、間違ってもコテンするんじゃねえぞ。お前だって猫のはしくれなんだからな」と言い聞かせて、相手が準備できるように、ゆっくりと人差指をチミのおでこに当ててやっているのに、肝心のチミはポカンと私を見ているだけで、一向に身構えたりしようとしない。
仕方がないので私が指の先でチミのおでこを軽く押すと、チミはそのまま仰向けでひっくり返り、おまけにしばらくの間その姿勢のままでいるという始末だった。
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- 平成17年6月12日(日曜日)
【晴】
「あらー好い子だね。その調子なら悪いケケ(病気)も、直ぐに良くなるからね。ほおらこのオック(おくすり)を飲もうね」
母が文字通りの猫なで声で、何日か前に貰って来た子猫に、無理矢理薬を飲まそうとしているのだが、まだ名前も決まっていない子猫は、絶対飲むまいと必死に抵抗している。
だいたい少し位クシャミしたって、何も人間様のカゼ薬を、嫌がるのに飲ませるなんて、絶対に過保護だと思った。
「本人が嫌がってるんだから、無理にくれなくったっていいんじゃねえの。それより人間の薬が猫に効くのかな?多分ダメだと思うけど」
そう言うと母はそんな事ないよ。人間も猫もお母さんのオッパイで育つんだから、根は同じなんだよ。だから人間に効く薬は猫にだって効くはずだよ」と、ムキになって反発して来る。
「でもさ、人間と同じ量をくれたら、逆にヤバイんじゃねえの。だって体の大きさが全然違うんだから、ほんの耳かき一杯位で人間が飲むのと同じだと思うんだけど」
私がそう言うと、母は「それもそうだね。じゃあ口のまわりにくっついたのを、ペロペロなめてたから、それで大丈夫かもしれないね。オオよかったねおチビちゃん、オックも飲んだし、あんよも上手に出来るし、あとは暖かくして静かに休んでいれば、直ぐにケガが良くなるからね。さあ、この中に入って出て来ちゃダメだよ」
母はそんな事を子猫に言い聞かせながら、どこから見付けて来たのか、ドカベン位のボール紙の箱にボロを敷いて、そこに子猫を入れたが、そいつは少しその中に居ただけで、直ぐに出て来て私にじゃれついて遊んでいる。
母はそれが気に入らないと私を叱るのだが、何も私が誘っている訳ではないのに、何で文句を言われなければならないのか、正直物凄く面白くなかったので、まつわりついて来たチビスケの尻尾に噛みついたら、今にも死にそうな悲鳴をあげた。
おっとり刀で駆けて来る母の気配に、私は慌てて便所に逃げ込み、危うく難を逃れた。
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- 平成17年6月11日(土曜日)
【晴】《10日の続き》
その頃私はなぜか植物採集に熱中していて、間を見ては公園や川原に出掛けて、植物図鑑を片手に夢中で標本を集めていた。
採集した標は三角紙に入れて持ち帰り、本や新聞紙などの間にはさんで乾燥させてから、名称や採集地そして日時などを記入して保存していたのだが、種類によっては根も採集したかったし、ドーランとスコップ、出来れば探検隊が被るような帽子も欲しかったが、それは絶対に無理だと分かっていたので、スコップは家にあるので我慢するとして、せめてドーランだけは肩からぶらさげて山野を闊歩したかったのだ。
私は雑誌に出ていた植物採集の少年と自分を重ね合わせて、一人でニヤニヤした。
本当は腹が減っていたのだが、新しいドーランを手にすると、もうたまらずに肩にさげると、用具一式を持って外に飛び出して行った。
公園にのぼり、いつも採集している場所に行って、早速図鑑を見ながら標本を物色していると、いかり草の茎の上で、何やら大きなクモが、多分スズメバチだと思うのだが、自分と同じ位の大きさのハチを、白い糸でグルグル巻きにして捕まえている現場にぶつかった。
少し前に、確か同じクモの記録映画を、学校で観た覚えがあったのだが、それが目の前で手に取るように見られたのには、感動というより、少し恐い気持ちがした。
私は植物採集もいいけれど、ファーブルのように昆虫採集も面白いかもしれないなと思った。
結局その日は、新しいドーランが汚れるのが嫌で、中に標本を入れる事が出来ず、どこかにぶつけたりして傷がつかないように注意しながら、何も採らずに帰って来た。
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- 平成17年6月10日(金曜日)
【晴】《9日の続き》
よく冷えたラムネの炭酸の泡がノドにしみて、思わずブルブルと体が震えたのを見て、平野のオバさんが「ハハハッ、かなり来たようだね」と、可笑しそうに言った。
私は「うん」と答えると二口目を口に入れたが、今度は何とか泡の衝撃をこらえる事が出来た。
ラムネの炭酸はサイダーとは違って、どういう訳か初めの一口が一番強くて、次から段々と弱くなって行く。
それに反してサイダーは、初めから最後までドンと来るのだから不思議だ。
「オバさんこれ何でサイダーじゃなくてラムネって言うの?」
私は何の気なしに、普段から知りたかった事を尋ねると、「何でもレモネードがなまってラムネになったらしいよ」と、直ぐに答が返って来た。
「フウーン、じゃあレモネードって何?」
「さあね、ラムネみたいなもんじゃないかい」
私は余計に訳が分からなくなってしまったので、この件はなかった事にして店を出た。
ラムネの味は、私が着くまで口の中に残っていた。
「ただいま」
「あ〃、おかえり、母屋に行ってごらん。お前を待っているものがあるから」
「へえー、なんだろう。本かな、それとも犬?」
「いいから行ってごらん」
私は急いで母屋に向かったが、あまり大きな期待はしていなかった。
それに今日が誕生日なのも、すっかり忘れていたから、母の話をそこに結びつけて考えてもいなかったのだ。
母屋に着いて机の前に行ってみると、ペンキの真新しい匂いがするドーランが置いてあった。
植物採集の用具が欲しくて、何度頼んでも買ってもらえなかったものが、今ピカピカの状態で目の前にあった。
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- 平成17年6月9日(木曜日)
【晴】
満11歳の誕生日の朝は、いつもと何も変わらない朝だった。
特別の手応えや印がある訳でもなく、うっかりすると今日が自分の誕生日だという事に気付かないで、夜になってしまう時もあったから、今日は朝からその事に気付いただけでも、いつもの誕生日とは少し違った感じがした。
「今日は俺の誕生日だよ」
私は母に期待を込めて告げたが、母は「そうかい」と言ったきり、その足で工場の方に行ってしまった。
(チェッ、何だよ。せめて小遣い位くれたっていいじゃねえか)
私は内心そう思ったが、去年は上野動物園に連れて行ってもらったので、今年も何かを期待していたのだ。
誕生日当日になっても何も言わないところをみると、もう今年からは特別なお祝いはないのかと、私は諦めたのだった。
その日学校からの帰り道、急に夏めいて暑かったせいだろうか、ノドが渇いて仕方がなかったので、私は栄町の平野さんの店に寄ってラムネを頼んだ。
本当はサイダーを飲みたかったのだが、ポケットには5円玉が一個しかなかった。
サイダーは15円、ラムネは5円、私は上り框に腰を掛けて、一人わびしくラムネで誕生日を祝った。
平野のオバさんに貸してもらった栓抜きをラムネの口に当て、中のビー玉止めが下に来るように持つと、一滴もこぼすまいと身構え、勢いよく栓抜きを叩いて急いで口にくわえたが、残念な事に抜いた瞬間に噴き出した泡は、私の願いもむなしく、若干量がこぼれ落ちてしまった。
いつもの事だが、あの時の勿体なさは、ラムネを飲み終えるまで続いた。
あいつは噴きこぼれた泡が、まだビンの表面にくっついている内に、物凄い勢いでなめ取るという特技を持っていたが、私にはそれがなかった。
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- 平成17年6月8日(水曜日)
【晴】
梅雨に入ると、通学の時には約半分の生徒が、カサを持って登校するのだが、学校にも若干の置きガサが、正面校舎の玄関に備えつけてあった。
置きガサは柿シブを塗った番ガサで、開くと校章と「西校」の文字が黒々と書かれていたので、体の具合でも悪くない限り、誰でも濡れて帰る方を選んだ。
我が家の置きガサも番ガサだったから、私は絶対に使わなかったし、ましてや姉達、特に上の姉などは、急な雨降りに気を利かせた母が、若い衆の一人に置きガサを届けさせたのが嫌だと言って泣いて帰って来た位だった。
学校のやつはまだ我慢できるが、我が家のは開くと家紋がデカデカと浮き上がり、その反対側には「渡辺」と書いてあるので、そんなのをさして歩けば、大通りを「俺は渡辺だ」と、怒鳴りながら通行しているようなものだ。
だから我が家の置きガサは、もっぱら来客用だったようで、それも貸したカサは必ず戻って来たという。
その頃にだって、勿論コウモリガサはあったが、今とは違って番ガサよりずっと高価だったのだ。
だから子供がコウモリガサをさしている姿など、かえって珍しかった。
大抵は番ガサの柄を肩に担ぐようにして外を歩くのが、ごく普通のスタイルだったのだ。
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- 平成17年6月7日(火曜日)
【晴】
今朝は珍しく生卵が一人一個づつ、いつものおかずに加えて食卓に乗った。
みそ汁、たくあん、ノリ、納豆、大体そんなのが毎朝だったから、時々ありつく生卵は貴重品だった。
そんな時私は必ず6杯飯を食う事にしている。
まず卵の前に普通のおかずで3杯食ったあと、おもむろに生卵を割ってお椀に入れ、出来るだけ量を増やすために、醤油を沢山入れる。
それを3回に分けて飯にかけて食うのだが、正直に言ってかなりしょっぱいのだ。
これを試みる度に、もう絶対にしないと心に誓うほど、あとで物凄くノドが渇く。
それでも次の卵の朝になると、なぜかまた同じ事を繰り返してしまうのは、その頃の私が相当に意地汚かったからだろう。
6杯飯を食うと、食事の終わる時間が、いつもの2倍かかるから、我が家に寄る友達に少し待ってもらわなければならない。
「まだかよー。いつまで食ってるんだよー。早く食っちまえよー」
台所の窓にアゴを乗せて、ゴチャゴチャと文句を言っている奴を平然と無視して、私は生卵を見せびらかしながら飯を食うのが、とても楽しかった。
「いいよ、もう先に行くからな。そうやっていつまでも食ってろよ」
友達がとうとう頭に来る頃に「わりぃわりぃ、食い終わったから行くべ」と、カバンを掴んで外に走り出る。
そいつは学校までの優に半分道中を、やれ食うのが遅いとか、食い過ぎるんだとか、もっと早く食ったらよかんべとか、ブツブツと文句を並べるのだが、当の私は、そんなの全然聞いていないのだった。
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- 平成17年6月6日(月曜日)
【晴】《5日の続き》
悪気もないのに、顔を合わせれば悪態をつくのが親しみの証だったのだが、中には物凄く屈辱的な言い方もあって、これが飛び出すと、そのあとは大抵大ゲンカになる。
その代表的なやつが「このサナギチンポコが」と「寝小便野郎のくせしやがって」、そして「ウンコもらしがでけえツラすんな」だった。
それと同じ位に頭に来るのが「女とママゴトしてる奴なんか、そばに寄るんじゃねえよ」や「うるせえな、このキンキン声が」
しかし誰でも一番カチンと来るのが「まだ母ちゃんと女風呂にへえっているくせしやがって」と「この間の父兄参観日に、オメンチは母ちゃんが来たんべ」だろう。
母子家庭や女の子の家はともかく、男子の母親が参観日に来たりしようものなら、そいつはもう人間扱いをされなかったのだ。
だから気の早い奴なんか、自分の母親の姿を教室で発見したとたん、まだ授業中だというのに、その後に自分を待っている運命を思って、オイオイと泣き出してしまうのだ。
そんな時、担任の先生は、当のお母さんにどうやって事情を説明して良いか分からず、ただオロオロするばかりなのは、当人がなぜ泣き出したのか、その訳をちゃんと知っているからなのだ。
小学校5年ともなれば、母親と一緒の所を誰かに見られる位なら、死んだ方がましだと思っている奴がほとんどで、もし許されるとしたら、それは悪さをして呼び出しを受けた時と、重いケガや病気で医者に行く時位のものだ。
私達の世代では、満10歳前後で、もう親離れが終わっていたのだと思う。
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- 平成17年6月5日(日曜日)
【晴】《4日の続き》
好きな番組は「朗読」と「尋ね人」で、背景に何の音もなく、ただ落ち着いた声が静かに流れて来るのを聞いていると、なぜか心が安らいだ。
「子供のくせに尋ね人なんか聞いてどうするんだい。誰か友達が戦地にでも行ってたのかい」
そんな私を母がよくからかって、愚にもつかない冗談をぶつけて来る。
「居る訳ねえだろう。戦争が始まった時、まだ生まれてもいねえのに」
私は口をとんがらせて、そんな母に悪態をついた。
母は最初私が乱暴な言葉使いをすると、それをとても嫌がって、かなりきつくたしなめたが、何度叱られても一向に改まる様子もないので、近頃では諦めて、ねえべえ言葉を使っても、何も言わなくなっていた。
北関東特有のこの方言は、初めて聞く者には相当にきつく、その上少し品を欠くが、何となく男っぽくて自分が大人になったような気になるので、友達同士の間では、それ以外の話し方で会話する事など、およそ考えられなかった。
名前以外で相手を呼ぶ時には、おめえ、オメ。
別に怒ってもいないのに口から出るのは、「何だよテメエは」とか「バカヤロ」
「テメ、ぶっくらすぞ」、「このデレスケ野郎」
まるでケンカごしなのだが、これが普通の会話なのだ。
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- 平成17年6月4日(土曜日)
【曇】
学校から帰ってみると、まだ午後もそれほど遅くはないというのに、母屋は人が出払っていて、奥の座敷の床の間にあるラジオが、誰もいない家の中で盛んに鳴っている。
管が咆哮するような独特の音楽は、おそらくマーラーだろう。
そういえば平日の午後、よくマーラーが流れるのはどうしてか。
私には、マーラーの音楽についての知識など皆無といってもよいのだが、なぜか肌に合って好きだった。
母は洋楽が嫌いで、とりわけクラシックには生理的嫌悪さえ抱いていたと思う。
「おお嫌だ。これ聴いていると頭が痛くなって来るよ。お前そんなもの早く消しておくれ」
ラジオの前で聴いている私に、母はいつも同じセリフをぶつけるのだった。
我が家では、なぜか聴く人もいないのに、朝から晩までラジオをつけっぱなしにしていたが、あの当時は、そんな家が割合多かったのだ。
多分、ラジオを時計代わりに使っていたのだろう。
我が家でも、四六時中誰かが台所で仕事をしていたので、その人達の退屈凌ぎという役割も、ラジオにはあったのだろう。
それも決まってNHK第1か第2で、民放が平日の昼間に流れる事は、特別の番組は例外として、ほとんどなかったようだ。
月の内に何度か、誰もいない母屋に戻る時があったが、そんな時、ラジオから流れて来る番組の中で、一番嫌いなのが野球中継だった。
切れ目なく聞こえて来るワーッという声援と、ドンドンドンと鳴り続ける太鼓の、あのくぐもった音を耳にすると、私は本当に頭が痛くなった。
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- 平成17年6月3日(金曜日)
【晴】《2日の続き》
「コーちゃん塩豆美味いかい。固くないかい」
徹がニコニコと笑いながら語り掛けてくるのに、「ああ美味えよ、俺は今までに、こんな美味え塩豆食った事ねえよ」
「そうか、そりゃあ良かった。コーちゃんいっぱい食べてよ」
多分、この家族にとって、塩豆は最高のもてなしだったのだろう。
本来なら自分達が取って置きのお菓子として、楽しみにしていたのだろうと容易に想像する事が出来る。
私は塩豆の一粒一粒を噛み締めながら、明子ちゃんや徹の、精一杯のもてなしの心に、なぜか心の底から突き上げて来るものに逆らえず、涙が出て止まらなかった。
明子ちゃんも泣いたし、徹も泣いた。
静かに涙を流して泣きながら、3人共顔だけは笑っていた。
私は哀しかった。
何が哀しいのかよく分からなかったが、無性に哀しかった。
橋の上を誰かが自転車で走り過ぎて行ったのか、頭の上でガタガタと板を踏む音がして、(ああ、ここは橋の下だったんだ)と、改めて思い知らされた。
哀しさのあとに、私は言い知れない怒りを感じて仕方がなかった。
(なぜなんだ。なぜなんだよ。こんないい人達が、何でこんな惨めな暮らしをしてるんだよ。バカヤロー)
その時の気持ちを言葉にしたら、多分こんな調子だったのだろう。
塩豆の味は涙の味がした。
それから2日後に、医者にも診てもらう事なく徹は死んだ。
急性腹膜炎という病気が死因だったそうだ。
母は夜中に布団の上に座って、黙って泣いている私の背中を、いつまでも撫で続けていた。
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- 平成17年6月2日(木曜日)
【晴】《1日の続き》
「徹君どうした、頭痛いのか?それとも気持ち悪いのか?」
「ううん大丈夫、ちょっとノドが痛くて熱があるだけだから、静かに寝ていれば直ぐに良くなるって」
苦しそうに息をしながらも、徹は私に心配かけまいと、無理に笑っているのがよく分かった。
「お医者さんは?」
私が言うと、明子ちゃんは「ええ…」と生返事をしながらうつむいてしまった。
私は心の中で(しまった)と思ったが、もう間に合わない。
医者にかけたくても、それが出来ないのだと、なぜもっと早く気が付かないのだろうと、私は自分自身の愚かさに腹が立った。
そんな私の気持ちを察したのか、明子ちゃんは精一杯陽気に「大丈夫、2〜3日静かに寝ていれば、きっと元気になるから」と、逆に私を気遣ってくれるのだった。
私は黙って徹の枕元に座り、とりとめのない話をして退屈を慰めた。
「あのー、良かったら食べませんか」
明子ちゃんは、きっと私が手をつけてくれないだろうと、とても悲しそうな顔で、お皿に乗った塩豆を恐る恐る私の前に置いた。
確かに小屋の中は、お世辞にもきれいとは言えなかったが、あるべき物はあるべき所に納まり、きちんと整頓されてスキがなく、意外に清潔なのには入った直後から分かっていたし、仮に汚くたって、私の為に出してくれたものを断る程の人でなしにはなりたくなかった。
「いただきます。徹君も食べるか」
「ううん、俺は病気だから晃ちゃんが全部食べて。良くなったら食べるから」
「分かった、そんなら貰うぞ」
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- 平成17年6月1日(水曜日)
【晴】《31日の続き》
こういう場所に入るのは、今日が最初というのではなかったが、やはり何か気後れがして、微かな罪悪感があるのはなぜだろう。
多分それは、もしもこの事を両親が知ったら、こっぴどく叱るのは目に見えているからだと思う。
決して悪い事だとは思ってないが、親の言い付けに背いているという自覚が、微かな罪の意識を生むのかもしれない。
不思議なのは、徹の家族のような境遇の人達に、人一倍親切な両親、特に母が、自分の子供がその人達と必要以上に親しくなったり、その住みかに入ったりするのを、とても嫌がる事だった。
どんなに慈悲深く接しても、それは常に一線を画した上の事で、住む世界の違いを超えるのは道理に反した行為なのだと、芯から思っていたようであった。
かといって、母の中には不運な境遇の人達への差別や偏見がある訳でもなく、ましてや、それらの人達を蔑んだりなど決してしなかったから、私には母の心境を理解する事など、とても出来るものではなかった。
時と共に、それは母の相手に対する深い思いやりだった事を理解出来たのだが、子供の頃には、そんな母の気持ちは分かるはずもなく、内心では母への強い反発があった。
近付き過ぎて傷付くのは、いつも向こう側の人達であるのを、母は身にしみて知っていたのだろう。
だが、まだ10歳の私には、そんな事を想像する事も出来ず、その日も誘われるままに、徹の住みかへと入って行った。
思ったよりもずっと片付いている小屋の奥(橋の付け根の一番奥)に、意外に清潔な布団に包まって、徹は苦しそうに寝ていた。
母ちゃんは外出しているらしく姿が見えなかったので、多分明子ちゃんは親が留守している内にと、たまたま通りすがった私に声を掛けたのだと思う。
明子ちゃんの所も、やっぱり境遇の異なる人達との交流を咎めるのだろうか。
私は少し不安を抱きながら徹の枕元に近付いて行った。
■アトリエ雑記は平成12年12月15日からスタートしました。
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