アトリエ白美「渡辺肖像画工房」 渡辺晃吉
- 平成19年3月31日(土曜日)
(30日の続き)
【雨】
食事もそこそこに玄関におりて待っていると、表がザワザワと騒がしくなって、前の通りが人でいっぱいになるかと思う位に、多勢の子供達が集まって来た。
私はオブチンの来るのを待つまでもなく、急いで外に走り出ると、迎えに来ようとしたオブチンに「行くべ行くべ」と声を掛けた。
集まった連中の顔を見ると、みな顔見知りだが、半分以上は緑町ではなくて、隣の栄町の奴らだった。
それでも桜オニをやるには人数が足りないので「オブチン今夜はこれちんべでやるんかい」と問いただすと、オブチンはニヤッと笑って「八雲様の前に2丁目と7丁目の奴らが待ってるよ。昼間の内に話してあるから大丈夫」と得意そうに言った。
どんな手を使うのか分からないけれど、オブチンの人集めは、誰にも真似が出来ない程群を抜いたもので、内々だけでは持ち上がらない企み事の時には、いつもオブチンが才を発揮した。
八雲神社の前まで来ると、探すまでもなく、参道も鳥居の辺りも、予想外の人数で埋まっていた。
それぞれの町内を仕切っているガキ大将が、オブチンの姿を見付けると、「オーウ」と声を掛けながら近寄って来る。
オブチンは「オーウ」と声を返して「こっちは30人くれえだけんど、そっちはどのくれえ集まったん」と尋ねた。
「俺の方もそのくれえかな」と2丁目がこたえると「俺の方は40人くれえだけんど、ミソッカスが何人かいるんだよ。俺は来るんじゃねえと言ったんだけんど、行く行くって泣いて騒ぐからよお、連れてこねえ訳にはいかなかったんだよ。どうすんべな」と7丁目のガキ大将が訴えた。
「そりゃあまずかんべよ。普通のかくれんぼじゃなくて桜オニだぞ。ミソッカスなんか入れたら、ヘタすると大ケガするぞ」
オブチンは口を尖らせて7丁目を責めた。
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- 平成19年3月30日(金曜日)
(29日の続き)
【晴】
花見の頃、夜桜で賑わう公園を舞台にしたかくれんぼを、季節にちなんで「桜オニ」と呼んだ。
夜の闇に包まれた公園を遊び場に出来るのは、一年を通して桜まつりの頃か蛍狩りの時位だったから、桜オニが出来るだけの人数が集まれば、喜び勇んで夜の公園の闇の中へと入って行った。
広大な公園の全域を使っては、お互いに連絡を取り合う事も難しいので、大抵は参加人数に応じて範囲を決めたが、それでも50人以下の人数では、桜オニをするのには少し無理があり、それが原因で気軽に楽しめないのが難点だった。
公園とはいえ、ツツジや椿、椎や楓が密生した複雑な起伏と、入り組んだ道の地形は、昼間でさえ隠れ場所に事欠かないのに、夜ともなれば意思を持って身を潜める人間を見付け出すのは、通常の方法では不可能に近い。
桜オニは隠れる者よりも鬼の方の人数が多くて、50人なら30人が鬼になって20人を追うのだ。
しかも鬼には明かりを持つ事が許されていて、追う方も逃げる方も最低2人が一組になって行動する。
運悪く鬼に捕まった組は、その場で100数えてから鬼に変わって逃げる者を追い、鬼だった組は誰が逃げる側なのか分からなくなり、唯一明かりを持っているかどうかで見分けるしかないのだが、もしも鬼が明かりを使わずに逃げる側の振りをしていると、まんまと罠に引っ掛かってしまう。
逃げる組は自分達以外を信用する事が出来ず、孤立したまま茂みから茂みへ、闇から闇へと逃げ回らなければならない。
面白いというよりも、肌が粟立つようなスリルがあり、誰もが病みつきになる事は間違いなかった。
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- 平成19年3月29日(木曜日)
(28日の続き)
【晴】
夕飯は私の大好きな茹で上げウドンだったが、我が家では母と私以外は、あまりウドンが好きではないらしく、下の兄などは「何だ代用食か」などと悪態をつくから、食わないのかと思えば、結構人一倍平らげるのだ。
急いで食べてしまわないとオブチン達が迎えに来てしまうので、私はガツガツとウドンを口にすすり込んだ。
「何をそんなに慌てて食べるんだろう。ウドンは逃げやしないよ」
「ちがうよ、オブチンが迎えに来るから急いでるんだよ」
「こんな時間にどこへ行こうっていうのかね。いつまでも春休みボケてる訳にはいかないよ」
「分かってるよ。桜オニやる事になってるんだ。だから急いで食べて用意しておかないと、みんなが迎えに来ちゃうよ」
「オブちゃん(母はなぜかオブチンの事を決してオブチンと言わない)もいいかげん大きいんだから、もう桜オニなんかして遊んでないで、家の手伝いでもすればいいのにね」
大きいっていったって、オブチンは私より一つ年上だけだから、まだ小学校6年生だ。
それに親の手伝いの量は、私なんかより沢山しているし、アルバイトだってしているんだから、何も母に文句を言われる事はないのだ。
私はオブチンの代わりに「オブチンは俺よりも全然働き者だし、まだ6年生だよ」と言うと、「お前より立派なのに決まってるだろう。この辺の子供達のほとんどは、お前より皆えらいよ」と言った。
私は頭に来たが、ウッカリ親に逆らったりすると、とんでもない事になるから、母の悪態は無かったことにして食卓を立った。
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- 平成19年3月28日(水曜日)
【晴】
母屋から工場に行こうと家の前の道に出ると、ザマを背負ったオブチンに出会った。
「コーちゃん、ハコベ採りに行くけど一緒に来るか」
ハコベなんか公園のどこにでも生えているから、珍しくも何ともなかったが、別にやる事もなかったので「うん行く」と返事して、オブチンのあとについていった。
オブチンは家でウサギを飼っているので、この季節には毎日エサのハコベを採りに山に入るのだ。
青年団集会場の前の坂をのぼり、弓引場の上に出て椎の森の斜面をのぼると、古墳山の辺りには一面にハコベが生えている。
オブチンはザマをおろして中から鎌を出すと、ものの5分とかからない内に、ザマいっぱいのハコベを採ってしまった。
「さあ帰るんべ」
そう言うが早いか、オブチンはもう斜面を下りはじめたので、私は慌てて後から追いかけて斜面を駆け下りた。
まだ夕方の6時少し前だったが、斜面の下の道には、夜桜見物の人達の姿がチラホラと歩いていた。
公園の主だった道にはボンボリが灯り、山のいたる所に咲いている桜を照らしている。
公園下の広場では、桜祭りの期間中ずっと催し事があり、夕食を済ませた近所の人達ばかりでなく、結構遠くからも花見客がやって来るのだ。
「オブチン今夜どうする?公園に来る?」
「うん、メシ食ったらみんなと鬼ごっこしに行く事になってる」
「それじゃあ俺も行くから迎えに来て」
「うん」
夜の公園の鬼ごっこは物凄く面白くて病み付きになる。
私は今夜の激戦を想像して、思わず武者震いした。
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- 平成19年3月27日(火曜日)
(26日の続き)
【晴】
作り方は小麦粉に牛乳と重曹と砂糖を入れ、よくかき混ぜて油で揚げ、熱い内に砂糖をまぶして出来上がり。
一回で子供の握り拳大を30個位作ったから、腹いっぱい食べても沢山残ったが、いつの間にか誰かが食べてしまった。
おやつが何も無い時には、近所の子供達が集まる鈴木駄菓子屋に行って、お菓子を買っても叱られなかった。
一日中店番をしている鈴木のオバアちゃんは、その頃では少なくなっていたお歯黒をしていたが、時々歯の手入れをしているところに出くわすと、その様子が珍しくて、一部始終を見逃すまいと、熱心に見学した。
「ネエおばあちゃん、それってどんな味がする?苦い?それとも辛い?」
「………………」
「痛くない?気持ち悪くない?」
「………………」
お歯黒の手入れをしている時は、話をする事が出来ないのだ。
鈴木のおばあちゃんの家は「天理教」で、店と同じ部屋に祭壇があって、その脇には大きな太鼓が置いてあった。
私はおばあちゃんの隙を盗んでは、その太鼓を鳴らして大目玉を食った。
同じ太鼓でも八雲神社の本殿の太鼓は、大きさも作りも鈴木の物など比べようもない位に立派だったが、神主の桜木先生が物凄く恐かったので、さすがに悪戯をする勇気はない。
桜木先生は月に一回我が家の神棚を拝みに来た。
私は祝詞をあげる先生のうしろに座って、先生の動きに合わせて一生懸命真似をした。
メリハリのある所作と、凛とした声で唱える祝詞の韻律が、快く耳と目に伝わって来て、私はこの時間が好きだった。
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- 平成19年3月26日(月曜日)
(24日の続き)
【晴】
子供だから甘い物は好きだったが、なぜか乾燥果物は物凄く甘くて、口にすると少し頭が痛くなる位なので、気合を入れて食わないと相手に負けてしまう。
負けるといえば、サイダーを飲む時にも、相手に負けないように気合を入れないと、口の中で暴れ回って鼻にツンとぬけて来る、強い炭酸ガスを飲み下せない。
それなら何も食べたり飲んだりしなければいいと思うのだけれど、口に入れないと損した気になるから、つい無理をしてしまうのだ。
意外に馬鹿に出来ないおやつが牛乳とサツマイモで、これには食べ方に条件があり、必ず両方を一緒に口に入れる事。
牛乳のコクが倍増し、サツマイモも甘さとコクが強くなり、まるで別の食べ物を食べているような気になる。
味が豪華になって凄く得をした感じになるばかりでなく、便秘の薬にもなるというが、その辺は良く分からない。
コッペパンを縦に割って中に砂糖をまぶしてから、種を取り出した梅干の実を挟んで食べると、ジャムとは違う独特の味がして美味い。
ただし後でひどく喉が渇くから要注意だった。
残りゴハンを天日干ししてから油で炒り、砂糖醤油で味付けした霰は、少し大人の味がして美味いだけでなく、結構腹持ちするおやつだった。
親が留守でおやつの用意がない時には、台所にある煮干をかじったり、火鉢でスルメやギンナンを焼くか、乾燥イモを引っ張り出して食べた。
居間の茶ダンスには、どういう訳かスルメやギンナンや乾燥イモのどれかが、いつも入っていたのには大いに助けられた気がする。
少年雑誌に出ていたドーナツの作り方を読むと、私は早速ドーナツ作りにも挑戦して見事に成功した。
最初は型どうりに輪を作っていたが、その内に形と味には関係のない事に気付き、スプーンで適当にすくった粉を油に入れて手間を省く事を覚えた。
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- 平成19年3月24日(土曜日)
(23日の続き)
【晴】
ブドウ糖は茶色の石ころのような形をしていて、コモの中に入って積んであった。
にぎりコブシ大を1個持ち出して、4つ位に割ったひとかけらで、キャラメルなら2つ、煎餅なら5枚、ヤキイモなら1本、大福なら2つ、サイダーなら半分、ラムネなら1本、板チョコなら1/5、ジャム付きコッペなら半分、アンパンなら1つ、かりんとうならひとつかみ、「舟定」のアイスキャンデーなら1本、ペタン(メンコ)なら10枚、ビー玉なら親玉で1個、小玉で10個、ベーゴマなら5個、セミならミンミンが1匹、アブラが2匹、オーシンは駄目でカナカナなら1匹と交換出来た。
水あめは子供には高価過ぎて、相手に交換する物がなかったから、大抵は入れ物を囲んで、みんなで指を突っ込んでなめた。
いい家の子や一人っ子のおやつも、時々はみんなに分配される事がある。
相手をおだてまくって有頂天にさせ、進んで提供させる事が多かったが、時には相手が気前良く差し出す事もあった。
そんな時には間違いなく、おやつをくれた奴の天下が3〜4日は続く。
お菓子や果物のおやつもいいが、私はキュウリやナス、トマトなどの生食野菜を、その季節には毎日食べていた。
中でもトマトを丸のまま塩をつけて食べるのが大好きで、小さなものなら2つ位は平気で平らげた。
キュウリは塩よりも味噌をつけた方が私には美味かった。
縦半分に切ったキュウリの種を取り除いたあとの溝に味噌をぬり、バリバリとかぶりつくのだが、2本も食べれば食事前の小腹も何とか納まった。
めったには無かったが、年に1〜2回程、乾燥バナナやイチジクなどの乾燥果物が、大量に送られて来る事があったが、私は干しアンズ以外は特別に好きという程でもなく、気が向くとセロファン紙に包んだバナナを何本かポケットに入れて遊びに出ても、ほとんどは欲しがる仲間に食べてもらった。
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- 平成19年3月23日(金曜日)
【晴】
我が家に限らずどこの仕事場でも、昼休みの前後に10時休みと3時休みがあったせいか、10時はともかく、たいていの家の子供はおやつにありつけた。
普段は午後3時というと学校にいる時間だから、おやつは帰宅直後の楽しみという事になる。
おやつといっても、普通は蒸したサツマイモかジャガイモ、それもない時はミソにぎりのようなもので、本物のお菓子にありついても、5円のキャラメル一個に殻付きの落花生2つ、かりんとうなら一人3本位づつだったろう。
何しろ兄弟合わせて4人〜5人という家も珍しくなかったから、みんなが好きなだけ食べられる日なんて、それこそ一年に数回あればいい方なのだ。
それでも一人っ子や金持ちの家の子は、今と比べても大して変わらない位の豪華なおやつを楽しんでいた。
キャラメルなら1箱、板チョコなら1枚、まんじゅうなら丸々1個、時には「舟定」の羊羹丸ごと1本を手に持ってパクついていたりする。
豪華なおやつにありつける奴は、まず人見のボクを筆頭に次は和雄、その次は大越のオッちゃんと金井のクンちゃん。
イトコの京子ちゃんと平野のヤッさんは、京子ちゃんは家がお煎餅屋だし、ヤッさんの家はオバさんが店をやっていたから、ヤキソバやもんじゃきお菓子も食べ放題だったので、比べようがなかった。
人見のボクの父ちゃんは医者で、大越のオッちゃんと和雄は、人もうらやむ一人っ子だし、金井のクンちゃんは大きな織物工場の息子。
リンゴは丸ごと丸かじりだし、かりんとうは袋ごと食えるし、正月のお年玉は300円も貰った事があるそうだ。
我が家といえば物凄い幸運な事があって、工場で使うものの中に、ブドウ糖と水アメがあったので、甘いものは食べ放題の上に、これが物々交換で別のお菓子に変わるから大したものだ。
何しろ量が多いので、少し位持ち出しても全く問題にならないし、持ち出すのも簡単だった。
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- 平成19年3月22日(木曜日)
(21日の続き)
【晴】
三輪車だけなら、人が乗って坂を下っても、こんなにスピードが出る事はないけれど、車輪の大きな乳母車が組になっているせいか、予想よりも二倍近い速さに加速して、まるで飛ぶように坂を駆け下って行く。
坂が終わって直線の平らな道になると、さすがに加速する事はなくなったが、みるみる近付いてくる曲がり角を、無事に曲がり切れる程減速してはいなかった。
頼みの綱の仲間達は、物凄い勢いで自分達に突っ込んで来る人力車に恐れをなして、完全に逃げ腰になっているのが、やっとハンドルにしがみついている私からでも、ハッキリと分かる位だった。
私は直感的に奴らが当てに出来ないと判断すると、体を思い切り左にずらして、三輪車のハンドルを左に振った。
体重のほとんどが三輪車の上に乗っていたのと、体を左にずらしたのが良かったのか、人力車はザーッという音を立てながら横滑りして、何とか川に落ちずに止まった。
「ウワーすげえ、まるで本物の車みてえだ」
「ウン映画見てるみてえだな。俺もやってみてえ」
自分達が危害に会わずに済んだせいか、みんな調子良くゴマをすっていたが、私が「ホレッ、俺はちゃんと坂を下ったんだから、オメエ達にもやってもらうからな。だけど言っておくけど、物凄くおっかねえから覚悟しろよ」と言うと、みんな顔を見合わせてモジモジしていたが、次の瞬間、まるで申し合わせていたかのように、ワーッと叫びながら、和雄だけを残して一斉に逃げ去って行った。
おそらく私が坂の上にいた時に、成功しても川に落っこちても、逃げべえと相談が出来ていたに違いない。
仕方がないので、私は和雄を人力車に乗せると、それを押して家に帰った。
和雄は自分の三輪車が無事に戻ったのと、帰りは人力車に乗って帰れるのに気を良くして「ラクチン、ラクチン」と喜んでいた。
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- 平成19年3月21日(水曜日)
(20日の続き)
【晴】
乗せてやらないと言ったのが効いたのか、みんな一瞬たじろいで、そのあと一斉に食いかかって来た。
「んなんあるかい、作るの手伝わせておきながら乗せねえなんて汚ねえよ」
「そうだよ、みんな代わりばんこに乗っていいってから手伝ったのに」
「この三輪車は俺んだから。これは俺の三輪車使って出来てるんだから」
「うるせえ、俺の俺のって偉そうに言うんじゃねえ」
誰かにぶっとばされた和雄は、またいつものように「ビエーッ」と泣き始めた。
「分かったよ、約束通り乗せてやるよ。だけど何人かは俺が坂を下って来て、坂の下で曲がり切れねえで川に突っ込まねえように、ちゃんと見ててくれよな」
私は以前に工場のリアカーを持ち出して、8人乗りで坂を下った事があったが、思ったよりもスピードが出過ぎて制御不能となり、カーブを曲がる事が出来ずに川へ突っ込んだ事があった。
人力車にはハンドルが付いているから、坂の下のカーブを何とか曲がれるとは思うのだが、もしも制御出来なかったら、今度は私一人だけで川に突っ込まなければならない。
誰か道連れでもいれば諦めもつくが、人力車は一人乗りだから連れは作れない。
私は嫌な予感がしたが後には引けず、ズルズルと人力車を坂の上に引っ張り上げて乗り込み、恐る恐る前輪のペダルを回して坂を下り始めた。
最初は大した事もなく、ペダルが軽々と回る位だったが、みるみる内にスピードが出て来ると、前輪はペダルを持つ事も出来ない位に激しく回転して、私はペダルから離した両手をハンドルに移して、何とか人力車を制御しようとした。
三輪車なら今まで何度も下っているが、体をうつぶせにしたままで坂を下ったのは初めてで、三輪車などとは比べものにならないスピード感に、私は完全に我を失ってしまった。
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- 平成19年3月20日(火曜日)
(19日の続き)
【晴】
私は折角作った手回し人力車を、公園の坂で試してみたくて仕方がなかったが、途中で壊れずに下り切れるだけ頑丈に出来ているかどうか自信がなかった。
そこで自分が乗る前に誰かで試してみようと思い「和雄よ、オメエこれに乗って公園の坂を下ってみねえか。きっとラクチンだと思うぞ」と和雄に誘いかけた。
和雄はサッと顔色を変え「ヤダー、ヤダー、ヤダー、俺もうおりる。おろしておろして」と泣き叫びながら、何とか車から降りようともがいていた。
思えば和雄は、これまでに何度も今日のような時に人身御供にされていたから、半ば本能的に身の危険を察知するようになっているのだ。
私は和雄で試すのを諦め、誰かをおだてて車に乗せようと思ったが、様子を見ていた奴らは私の思惑を直ぐに見破って、そばにも寄り付かずに後退ってしまう。
「何だよ、みんな意気地のねえ奴らだなあ。こんな坂を下るのがそんなに怖えのかよ」
「んじゃあコーちゃんが自分で乗ってみればいいじゃねえか。そしたら俺も乗るから」
オッちゃんが口をとがらせて文句をつけると、そこにいた奴らが口を揃えて「そうだそうだ、コーちゃんが先に乗れよ」と喚き散らす。
私は後に引けなくなって「よーし分かったよ。俺が最初に試してみればいんだんべ。その代わりオメエ達は乗せてやんねえからな」と言ってやった。
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- 平成19年3月19日(月曜日)
(18日の続き)
【晴】
大宮タバコ屋の角を曲がると、道は正面にある八雲神社で左右に分かれ、左に行くと公園下の広場に沿いながら、緩く右に曲がって上り坂になる。
車が付いている道具で、この坂を走り下らなかった物は、この近所の家では例外といって良い位だろう。
勿論我が家でも、ソロバンからリアカーまで入れて全ての物が、一度はこの坂を滑り降りていた。
ひとつだけ問題なのは、滑り降りたあとに、使う前の姿を保っているものが少なかったので、その度に親のゲンコを食うハメになる事だった。
中でも一番壊れやすかったのはソロバンだったが、幸いな事に我が家には似たようなソロバンが何台かあったから、壊れても適当にゴマかせた。
五つ玉の箱型ソロバンは、子供が乗った位では、びくともしない程丈夫な作りなので、どうしてもオモチャ代わりにされてしまうのだ。
自転車や三輪車、それから乳母車などは、まとも過ぎてあまり面白くない。
リアカーは一度に何人も乗れるのが面白いのと、少し位ぶつけても、めったに壊れないところが良かったが、やはり当たり前すぎるのが欠点だった。
そこへ行くと、糸井のオチ坊の家の機械工場で使っていた、底に自由に動く車輪が三つ付いている鉄製の台車は、子供なら4人は乗れる程広く、黒々と油光りしている勇姿も頼もしくて、私はいつかこいつに乗って坂を下りたいと、密かに憧れていた。
私は何とかオチ坊を口説き落として、その台車を引っ張り出したかったが、オチ坊は使った後の親のゲンコが怖くてなかなかウンと言わなかった。
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- 平成19年3月18日(日曜日)
(17日の続き)
【晴】
大宮タバコ屋の角まで来ると、私は和雄に左に曲がって公園の方に行くように言った。
和雄は何とか左に曲がろうとしたのだが、ハンドルの上に上半身が乗っているためか、うまく方向転換が出来なかった。
「曲がらねえ、曲がらねえよ。曲がろうとするとペダルが回せねえよ」
和雄は泣きそうな顔で私に訴える。
「そんな事ぐれえで、いちいち泣くんじゃねえよバカ。曲がらなければ車から降りて向きを変えればいいじゃねえか」
私はグズってる和雄の尻を叩くようにして車から降ろすと、ハンドルをつかんで向きを変えてやった。
「ホラ乗れ、もう泣くんじゃねえぞ」
「ウン」
「それからな、泣いたあとは涙のあとを拭いておけよ。泣いた事が分かると、オメエの母ちゃんは絶対に俺がやったと決めつけるんだから」
「ウン、分かった拭いておく」
埃まみれで走り回っているので、涙を流すと顔に跡が残ってしまい、泣いたのが親にバレてしまうのだ。
そうは言っても誰も泣かない日など一日もなかったから、泣かした奴も泣いた奴も、その辺は心得ていて、よほどひどい状態にならない限り、泣いた跡のまま家に帰るようなヘマはしなかった。
そうしないと、泣かした奴だけでなく、泣かされた奴も親にぶっとばされるからだ。
泣かした奴が怒られるのは分かるのだが、なぜ泣かされた奴も怒られるのか、私にはよく分からない謎のひとつだった。
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- 平成19年3月17日(土曜日)
(16日の続き)
【晴】
トシ坊は嬉しそうに人力車の箱に身を横たえ、さっき私がしたように三輪車のハンドルに上半身を乗せ、前輪のペダルを両手に握ると、おもむろに車輪を回そうとした。
腕に力を入れたとたん、トシ坊は「アレッ」という顔で私を見る。
人力車はイカリでも下しているかのようにビクとも動かないのだ。
私は慌てて車のうしろに回り箱に手を掛け「最初は少し大変だから、軽く押してやるよ」と言いながら、徐々に力を入れて車が動き始めるのを助けてやった。
別に親切心で助けてやった訳ではなく「あいつの作ったものは動かねえじゃねえか」と思われるのが面白くなかったからだ。
トシ坊はヒョロッとしたヤセ型で、見た目には力があるように思えなかったが、前輪のペダルを器用に手で回して、200m程離れた踏切の近くまで、休みを入れずに走り切ったのだ。
一度経験している私には、トシ坊の走りっぷりが信じられず、「トシ、オメエすげえじゃねえか。何であんなに上手く運転出来るんだよ?俺なんか直ぐにバテて腕が動かなくなっちまったのによ。大したもんだよ」と思わず言うと、トシ坊は得意のあまりに絶句してしまった。
「次は俺」「イヤッ、俺の番だんべ」
順番を待っていた奴らが取り合いを始めたので、私は「次は和雄を乗せてやれよ。何ていっても三輪車を貸してくれてるんだからな」と和雄に助け舟を出してやった。
みんなも仕方なく渋々と和雄に譲り、そのあとはきちんと順番を決めるためにジャンケンしようという事になった。
みんながジャンケンをしている内に、私は人力車に乗ったはいいが、ビクとも動かせないでいる和雄を助けて、少し下りになっている道を利用して、元の場所に戻って行った。
和雄は自分だけの力で人力車を動かしている気になって「ラクチンラクチン」と大声で叫びながらペダルを回していた。
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- 平成19年3月16日(金曜日)
(15日の続き)
【晴】
父の小言を背中で聞き流しながら、出来上がった人力車を押して表の通りへ出て行くと、うしろからゾロゾロとついて来た。
手回し人力車には、アスファルトが一番似合っていると思っていたのと、大人達の嘲笑を避けるために、試運転は表通りと決めていた。
通りまでの露地を押して行きながら、私は車の音が意外に静かで動きがとても軽いのに少し驚いた。
表通りに出ると、私は人力車を踏切の方に向け、皆の羨ましそうな視線を浴びて箱の中にうつ伏せになり、両手で前輪のペダルを握り、おもむろに回した。
最初は力を入れるペダルの方向に車輪が傾いてしまい、うまく前に進む事が出来ない。
仕方ないので上半身を前に乗り出し、三輪車のハンドルに体重をかけると、今度は前輪が調子良く回り、人力車は静々と前進し始めた。
みんな「ウワーッ」と喚声をあげながら、私の運転する人力車のあとについて来る。
私は自分がスターになったような気分で、次第に重くなって来るペダルを懸命に回し続けた。
最初の5m位は良かったのだが、そのあとは腕に掛かる負担がどんどん強くなって、10m程進むと動けなくなってしまった。
けれど、もう動けないと言うのは癪だったので「よーし、それじゃあ代わりばんこに乗ってもいいぞ」とごまかして車を降りた。
本当は私の次に、三輪車を提供した和雄を乗せてやりたかったのだが、和雄の力では絶対に動かせないのが分かっていたので、しきりに視線を送って来る和雄と顔を合わせないようにしている内に、どうやら次の乗り手は、金井のトシ坊に決まったようだ。
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- 平成19年3月15日(木曜日)
(14日の続き)
【晴】
私から見れば、座ったままでスイスイと走れる人力車は、素晴らしくカッコ良い乗物に思えたので、なぜ父が呆れ顔で小言を言うのか分からなかった。
でも、分からないのは今に始まった訳ではなく、親は子供のやる大抵の事に文句をつけるか小言を言う。
文句を言わないのは勉強や家の手伝い、とにかく遊び以外の事に取り組んでいる時だけで、教科書以外の読書さえ遊びの内だと小言を言った。
ラジオ番組だって、子供向けではないものを聞いていると、まるで悪事を働いているのかと言わんばかりに文句をつける。
そのくせ夜フトンの中に入ってから、親の好きな番組を一緒に聞いている時には、一切文句を言わないのだから勝手だ。
「二十の扉」や「私は誰でしょう」、浪曲、落語、講談、それから漫才などの演芸番組は良いのだが、何か怖そうな音楽に合わせて、アナウンサーの深刻な話し振りで始まるニュース番組だった。
夜のニュースというものは、何であんなにも難しい話が多いのだろう。
国民不在の政治とか、労働者を搾取する企業の話。
次第に不況の波が押し寄せる炭鉱と、そこに働く人達の厳しい現状。
都市部と農村部の極端な経済格差や、苦しい現実を訴える出稼ぎ労働者の生の声など、子供が寝しなにフトンの中で聞くには、内容がかなり重いだけでなく、話にいちいち相づちを打って嘆息している両親を見るのも、正直あまり面白いものではなかったので、5年生になると私の寝床が母屋の二階に移った時には、一人で寝る不安もあったが嬉しさの方が強かった。
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- 平成19年3月14日(水曜日)
(13日の続き)
【晴】
三輪車のサドルの上に人絹箱を乗せ、箱の底に空けた穴から針金を通してサドルに固定する。
後輪の代わりは壊れて骨組だけになった乳母車を使い、台座の上に箱の後部を乗せて固定すると、本物に比べれば相当に不格好ながら、何となくそれらしい物が出来上がった。
自分の三輪車が変な物に変わってしまった和雄は、出来上がった人力車と私を交互に見ながら「三輪車はいつ返してくれるん?」と今にも泣きそうな顔で言った。
「大丈夫、ここの針金を外すと、簡単に箱が取れるから、乗ったあとは三輪車外して家に持って帰ればいいよ」
私がこたえると、和雄はホッとして笑いながら「俺も乗っていい?」と言った。
「当たりめえだよ。この三輪車は和雄のだから、オメエが一番乗っていいんだよ」
私は和雄を一番最初に乗せてやるつもりだった。
工場の庭をうろつきながら、何やらバタバタとやっている私達を、父は時々チラチラと見ていたが、出来上がった人力車を見ると「何だそれ?」と聞いた。
私が「これは手回し三輪車だよ。立って歩けない人が乗るんだ」
「バカ、そんな物作ってどうする気なんだ。今度は遊びに事欠いてイザリごっこかよ」
「イザリって何?」
「腰から下がマヒして動けない気の毒な人の事だよ。お前なあ、そんな人の真似して、いったいどうしようってんだよ」
父は呆れた顔を隠さずに私を見ながら言った。
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- 平成19年3月13日(火曜日)
(12日の続き)
【晴】
学期の始まった頃の寒さが少しずつ緩んで、学校の行き帰りが楽になって来ると、町にも春らしい活気が戻って、道行く人の顔にも、明るさと活気が感じられて楽しかった。
そんな中の一人に、自転車を改造した手回し人力車に乗って走る人がいた。
下半身が麻痺しているのか、その人力車は車イスのように運転する人が座れるような構造になっていて、前一輪後二輪の三輪車の前輪を、チェーン駆動出来る設計だった。
運転者の前に付いた手回しハンドルを回すと、前輪が回転し、空いた片手で棒状のハンドルを動かして方向を変えるようになっていた。
人力車の座席後部の荷物置きには、人が外出する時に持ち歩くのと同じような荷が置いてあった所を考えると、多分この車の人は、商売物を運搬していたのかもしれない。
その人力車には屋根がなかったから、雨の日は使えなかっただろうし、風の強い日も同じように外出は無理だったろう。
私はその人と人力車を見るのが好きで、道ですれ違った時には、しばらく立ち止まって車が遠く去って行くのを見送っていたものだった。
手回しハンドルを慣れた手付きで回しながら、意外に速いスピードで走る人力車は、私には珍しい乗物というよりも、洗練されたメカニズムの結晶のように思えたから、似たような物を作ってみたくなり、それに使えそうな部品を集めはじめた。
手回しハンドルで動かす前輪の部分は、和雄が乗っている三輪車を使う事にして、人が乗る箱の部分は、工場のどこにでも放置してある人絹箱の中から、適当な大きさのものを転用すればいい。
あとは三輪車と箱を何とか組み合わせれば、大体の形は出来上がるだろうから、細かいところは現場合わせすれば大丈夫だろうと思った。
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- 平成19年3月12日(月曜日)
【晴】
そろそろ三学期も終わり、もうすぐ一番宿題の少ない春休みが来るという頃になると、六年生担任の先生方は、卒業生を中学に送り出す準備で忙しいせいか、みんな少しイライラしているので、いつもなら見逃してくれる軽い悪戯も、なかなか許してもらえずに罰を食らう事が多かった。
罰といっても大したものではなく、ほとんどは先生の手伝いで、中でも一番なのは、卒業文集などの印刷物の製本や、いろいろな連絡文の整理だった。
父兄への連絡文書は、担任から各生徒に手渡され、生徒が親に届けるようになっていたから、自分達に都合の悪いものは、途中で握りつぶしてしまった。
私は親が授業参観に来るなんて絶対に嫌だった。
だから、その類の文書は親に渡したくなかったので、文書作成の手伝いは、むしろ好都合だったのだ。
それを先生は知ってか知らずか、多分知っていて黙っていてくれたのだと思うけれど、膨大な量の文書作成を手伝わせるには、その方が都合も良かったのだろう。
それにもしも生徒全員の親が学校に来たりしたら、授業なんて出来るはずがないのだ。
一組の生徒数は全て30名前後で、一学年は平均七組として全校生徒数は2,400名以上という事になり、その生徒ひとりひとりの親が来たら、教室の中に入れる訳がなく、現実に父兄参観日には、教室に入れなかった親達が、廊下にあふれていたのだ。
それでも親が来る生徒の家は、全体の半分位のものだったから、親が来ない家の奴が、それが原因で悲しんだり辛い思いをするという事は、女子はともかく男子ではなかったと思う。
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- 平成19年3月11日(日曜日)
(10日の続き)
【晴】
父は時々知らない人を家に連れて来て、その人を住み込みで雇ったり、しばらく同居させて面倒をみたりしていたので、家の中に突然他人が増えても、あまり驚いたりはしなかったが、今までの人達は皆いい人達だったのに、その人だけは本能的嫌悪を感じていた。
言葉や立ち振る舞いが、まるで映画に出て来るサギ師のようで、私はどうしても信用する事が出来ず、つい警戒心が表に出てしまうのだ。
その人は自称「指圧師」という事になっており、病気がちで肩こりのひどかった母を療治していたから、多分それが下宿代だったのだろう。
自分の手にかかれば、母の不調など直ぐに良くなってしまうと放言して、父や母を喜ばせたが、いくら療治をしても、その場だけ楽になっても、悪い所が治る事はなかった。
その夫婦が我が家に同居していた期間が、他の人に比べると短かったのが、私にとっては不幸中の幸いで、食事の時や夜の茶の間で、無神経に自画自賛したり知ったかぶりしている姿を見ずに済むようになった時には、まるで疫病神が居なくなってくれたような気がして嬉しかった。
子供には、目の前の人間の正体を本能的に察知する力が備わっているのだろうか、周囲の大人達が、どんなに高い評価をしている人でも、子供の目から見れば、何だか怪しいなと思う相手は、あとになると大抵ボロを出して、いつの間にか姿を消してしまう事が多い。
大人の世界はなかなか大変なんだなと、そんな時私はしみじみと思った。
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- 平成19年3月10日(土曜日)
(9日の続き)
【晴】
食卓は脚が折り畳める卓袱台というやつで、お彼岸やお盆の料理やオハギ作り、正月料理の準備の時などは、卓を片付け板の間を広くして使っていた。
そんな時は仏間かお茶の間で食事をしたが、普段でも泊り客があった時には、やはり仏間で食事をする事が多かった。
そんな時、納戸部屋から特別の卓を出して使うので、何だかお祭りが増えたような気がして楽しかった。
納戸部屋は兄達が写真の暗室代わりに使うようになってから、北の掃き出しの雨戸は閉めっぱなしになり、唯一の出入口である仏間との境の襖を閉めてしまうと、中は昼間でも真っ暗になる。
部屋の中は現像液の酸っぱい匂いが染みついていて、私には他とは違う不思議な空間だった。
この部屋は暗室になる前は、父が連れて来た斉藤という人が奥さんと一緒に下宿していたが、なぜか大人達は斉藤さんを先生と呼んでいて、本人も家の中で一番いばっていたのが妙だった。
斉藤さんは鼻の下に白髪混じりの髭を生やし、いつも上から物を言って、決して対等の立場を取らなかった。
今思えば、夜逃げして来た人達だったのだろうか、言葉巧みに父に取り入って寝食を得たとしか考えられなかったが、なぜか私にはその人が朝夕の茶の間を仕切る声高な話し方が耳障りで、つい(お前の正体なんか、お見通しだぞ)と心の中で思いながら、相手を凝視してしまうのだった。
斉藤さん夫婦は、弟や姉達とは違って、自分達に媚びない私が不快だったのか、父や母の前で、これ見よがしに弟をヒザに乗せながら「忠明君は素直でいい子だな。子供は素直でかわいくなければ駄目だ。生意気なのは一番いけない」などと説教じみた事を言いながら、私の方へチラチラと視線を走らせるのだった。
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- 平成19年3月9日(金曜日)
(8日の続き)
【晴】
我が家の台所は東北の角にあり、角の北側一間に二基のへっついとガスコンロが置いてある。
角を挟んで北一間の腰窓と、東側は台所の南にある風呂場まで、勝手口を合わせて三間が腰窓になっていたから、とても明るく、開放的だった。
床は全て板の間で、広さは流しも合わせて12畳程だったろうか。
流しに面した半間も腰窓になっていたので、その窓を開けると、隣の風呂場が見渡せた上に、風呂場の東側も全面が腰窓だから、まるで学校の教室にいるようだった。
茶の間の北の襖を開けると、幅一間の廊下が、仏間と台所を分けて家の奥まで走っていて、廊下と仏間の間には壁も襖もなく、茶の間を出て直ぐの二階への階段と台所への入口を合わせての一間にも、戸の類がなかったから、家の中がとても開放的で広々としていた。
食卓は台所に入った左の四畳半の板の間で、西と北が壁で、その北側いっぱいに、黒茶色の食器棚が大小二本置いてある。
東の壁際にも、大きなカメや木箱などが置いてあったが、食卓の周りに座るのに不自由はなかった。
食卓での私の位置は、北側の食器棚を背にした左側で、そこなら左利きの私のヒジが、隣の人の邪魔にならなかった。
食卓は一度に八人が座れ、食事時に限らず、朝から晩まで誰かが何かを作っているか食べているかしていた。
四畳半の東南の角に一本だけ立っている柱が、台所の中心になっていて、そこを基点に何となく通路や使い勝手が出来上がっているようであった。
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- 平成19年3月8日(木曜日)
(7日の続き)
【晴】
「何をギャーギャー喚いているんだろうね全く。お便所が怖いんなら寝る前に気を付けて水を飲まないようにするとか、考えればいいのに」
母は小言を言いながらも直ぐに飛んで来ると、仏間の電気を点けてくれた。
半開きの便所の戸の隙間から差し込んで来た光のおかげで、中は何とか物が識別できる位に明るくなった。
「早く済ましておしまい。ここが開いていると風が入って来て家の中が寒くて仕方がないよ」
明かりを遮らないように開いた仏間のガラス戸の脇に立ちながら、私を促す母の声に励まされ気が強くなった私は、どうにか漏らしたり周りにひっかけたりしないで用を足し終わると、急いで便所を出て仏間を横切り、フトンの中にもぐり込んだ。
しばらく放置していたフトンの中は、ヒヤッとする程冷たかったが、次第に温かくなって来るのに合わせて、少し張り付いた気分も徐々にほぐれ、強くなって来る眠気に身を任せた。
茶の間からのラジオの音に目を覚ますと、父はもう起きてお茶を飲みながら、早朝の客と何やら楽しそうに話をしていた。
いつもの事だが、台所から届く音には、ミソ汁や飯釜から立つ甘い湯気や、様々の匂いが混っている。
同じ人の気配でも、夜と朝とでは全く違って感じるのはなぜだろう。
冬の朝は特に起きるのが辛いが、目が覚めたとたんに、何か楽しそうな期待がふくらんで来るのに励まされ、勢いよくフトンから飛び出すと、急いで服を着て便所に向かった。
用を足しながら、私は昨夜あれほど怖かった場所なのに、朝になると全く怖くなくなっているのが不思議で、怖さというものは、いったい何なのだろうと子供ながら考えていた。
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- 平成19年3月7日(水曜日)
(6日の続き)
【晴】
母は間もなく姉を手伝いにして、ひもかわが山盛りになったどんぶりを大きな盆に乗せて運んで来ると「さあおあがんなさい。まだいっぱいあるから、おかわりして下さいね」と言いながら、一人一人の前に置いて行った。
どんぶりからは煮込うどん独特のいい匂いと白い湯気が立って、茶の間は小さな食堂のような賑わいとなり、私は何だか楽しくなって寝るのを忘れてしまった。
「お前駄目だよ、こんなに遅くまで起きて遊んでると、またおねしょするよ」
その頃になると、私も流石に寝小便をしなくなっていたが、母にそんな風に言われた途端、さっき用を済ませたばかりだというのに、また便所に行きたくなってしまった。
私はまたあの暗い便所に行くのかと思うと、こんな事なら起き出して来ないでフトンの中に居ればよかったと後悔した。
それでも便所に行かずに寝たら、必ず寝小便をするに決まってるから、私は渋々コタツを出て便所に行った。
幸いな事に、母が台所と茶の間を行き来する時に都合が良いようにと、仏間の電気が点けたままになっていたから、便所の戸を半開きにしておけば、真っ暗闇の中で用を足さずに済む。
私は今の内にと急いで便所に入ると寝巻の裾を割って用を足し始めた。
しかし、その途端に仏間の電気が消えた。
私は背筋に水を流し込まれたようにびっくりして、思わず「ワーッ電気消しちゃ駄目っ」と大声で叫んでしまった。
あれは多分、上の姉が私を怖がらせようと、わざと消したのだ。
下の姉にはそういう茶目っ気はないが、上の姉は気性の激しいところもあって、その位の悪さは平気でする。
私は今までにも上の姉に悔し泣きする程の嫌がらせを何度か受けていたので、これも多分そうだと確信しながら叫び続けた。
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- 平成19年3月6日(火曜日)
(5日の続き)
【晴】
「よかったらお入れなさいな」
母は茹でたカキ菜を盛った大皿を台所から運んで来ると、神保のオジさんの前に置いた。
それが馬に食わせる程凄い量だったので、オジさんは皿を出された瞬間、目を白黒させたが「いえね、昼間只上の尾内の家から沢山届いたのでね。お茶菓子代わりに皆さんもあがって下さい」と母が言うと、出された量の多さを納得したようだった。
熱いうどんに冷たい菜を乗せて食べると、これがまた美味いのだ。
母はまた台所に引き返すと、今度は小皿と箸と醤油入れを盆に乗せて戻って来た。
「さあどうぞ、サーちゃんも岡田さんも柳田さんも、遠慮なく箸をお付けなさいまし」
母は小皿に菜を盛ると、そこに醤油をかけ回し箸を添えて一人一人の手に乗せて行った。
「よかったらひもかわ食べますか。今夜は沢山作ったので、まだ大分残ってるんですよ」
神保のオジさん以外は晩ご飯を食べてから来たのだろうが、母がそう言うと、じゃあ俺も私もと言う事で、結局家の者を除いて全員が食べる事になった。
上がり框に腰を掛けて食べているオジさんの前に、母は菜を取り分けた小皿を置くと、大皿を皆が入っているコタツの上に移し、みんなに食べさせるひもかわの煮込を取りに、台所に引き返して行った。
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- 平成19年3月5日(月曜日)
(4日の続き)
【曇】
秋の煮込うどんには、季節柄何種類もの駄茸が入るのだが、冬は白菜やネギ大根、あとは刻んだ油揚げや豆腐が入る位だったけれど、私は毎晩でも構わない程煮込うどんが好きだった。
そのせいなのか、他人がうどんを食べる様子を眺めているのも大好きで、「人様が食事をしているところを、そんなにジロジロ見るんじゃないよ」とよく母に叱られた。
その夜も私は神保のオジさんの前に座ると、オジさんが煮込うどんに箸を付けるのを、今か今かと待っていた。
なぜなら、神保のオジさんの鼻の下には、チョビ髭が生えていて、それが口を動かす度に、まるで生きているかのように動くのが面白かったのだ。
オジさんの食べ方は、どちらかといえば静かで上品な方だったろうか。
それでもうどんを啜る時にはズルズルと小気味良い音を立てたし、時々はピチャッピチャッと口鼓を打っていた。
母に言わせればズルズル音はともかく、舌鼓は礼儀に反するので立ててはいけないのだそうだが、大人は別に音を立てても良いのだろうか。
母が相手の人に文句をつけるところを見た事がない。
「オジさんヒモカワ美味い?」
「あ〃美味いのなんの、ほっぺが落ちそうだよ」
オジさんは食べながら言ったが、私はよく耳にする「ほっぺたが落ちる」というのが何か変だなと思った。
ほっぺたが落ちたら、美味いまずいなんか言ってられない位痛くて痛くて仕方がなくて、とても物なんか食べていられないし、ほっぺたが落ちた人の顔を想像すると、思わずブハッと身震いが出てしまう。
しかし、思った事を正直に口にすると、また「お前は子供のくせに本当に変わってるんだから」と小言を言われるだけだから、私は黙っている事に決めていた。
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- 平成19年3月4日(日曜日)
(3日の続き)
【晴】
母が台所に立つ気配がしたので、私は起き上がると茶の間を通らずに台所に行った。
母はへっついに乗っている大きな鉄鍋から、ひもかわの煮物を小さな鍋に移し、それをガスコンロで温め始めた。
「それ神保のオジさんに?」
私が尋ねると、母は「そうだよ。多分体中が冷え切っているだろうから、これでも食べて温まってもらうのさ」と言った。
鍋の中のひもかわが温まって来ると、台所には美味しそうな匂いがたち込め、茶の間にも流れて行ったのか「おっ、いい匂いがして来たね。煮込は最初よりも温め返した方が美味いんだよな」と誰かが言っている。
私も煮込うどんは次の日の温め返しの方が、美味いと思うだけでなく好きだった。
特にひもかわは、その日に食べるよりも一日置いた方が絶対に味が良くなると思う。
それを見越してだろうか、我が家が煮込を作る時には、決まって食べ切れない量だった。
温めた煮込をどんぶりに移して持って行く母のうしろから、私も茶の間に入って行くと、まだ母がオジさんにと言ってもいないのに「おやどうもすみませんね。寒い時にゃこれに限りますよ」と両手を差し出すのだった。
どんぶりの乗ったお盆を受け取ったオジさんは、合掌して「いただきます」と言うと、小皿のネギを全部どんぶりに入れ、その上から唐辛子をビックリする位沢山かけた。
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- 平成19年3月3日(土曜日)
【晴】
庭の前の露地に自転車の止まる気配がすると、誰かが自転車を手押ししながら玄関に近付いて来た。
スポークに物が当たっているのだろうか、チャリンチャリンと規則的な音が聞こえて来る。
荷台には何かが付いてあるらしく、スタンドを立てる時やけに重そうだった。
「おばんです。神保ですが」
玄関を開けて入って来たのは佃煮屋の神保のオジさんだった。
いつもは小さなリアカーに、沢山の種類の佃煮が入った引出しの付いた箱を積んで売り歩いているのだが、今夜は自転車だけで売り歩いているらしい。
「おやまあ今晩は。どうぞお上がんなさいましな。お寒い中お稼ぎですね」
母はそそくさとオジさんを中に招き入れると、手際良くお茶でもてなしているらしい。
オジさんが美味しそうにお茶を啜る音と、啜る度に「ウーン」と唸る声が聞こえて来る。
大人はなぜお茶を飲む時に「ウーン」と唸ったり、「アーッ」とため息をつくのだろうか。
それだけではなく、人によっては飲んでいる間ずっと茶碗を撫で回していたり、手に乗せた茶碗の中のお茶を最後までグルグル回していたり、茶碗を口に持って行く時に、やたらと肘を張ったりする。
本島のおばあちゃんは、お茶を飲む時に決して音を立てなかっただけでなく、たくあんやラッキョウを食べる時だって、ほとんど音がしなかった。
音を立てないところは私の直ぐ上の姉も同じだったが、不思議なのはうどんやソバを食べる時にも音が出ないのだ。
あんな食べ方じゃ絶対に美味くないだろうと思うのだが、それを口にすると間違いなく馬鹿にされるのが何となく分かるので、私は黙って食卓を共にした。
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- 平成19年3月2日(金曜日)
(1日の続き)
【晴】
「だけどさあ、夜はスイッチ捻りゃあパッと電気が点くし、ラジオや電蓄がある時代に、まさか幽霊とか霊魂とかってのもさあ、どう考えたって時代遅れじゃねえんかなあ」
今夜のサーちゃんは、いつもと違って少しムキになっていた。
「でもさあ、よく考えてみるとさ、今の人間も100年前の人間も、いや1,000年前の人間だってさ、着てるもんや髪型は違うかも知んねえけど、裸になれば何も変わってねえんじゃねえかな。昔の人間には腕が四本あったり、背中に羽根生えてて目玉がひとつだったってんなら分かるけんど、変わったのは人間の周りだけで、俺達は多分何万年も前と変わってねえんだと思うんだ。だとしたらさ、汽車に乗ろうが車に乗ろうが、洋服着ようがビフテキ食おうが、元の所は大昔から少しも変わってねえんだから、もしも霊ってものがあるんなら、時代がどう変わろうが科学がどう発達しようが、多分今でもあるんだし、これからもあるんじゃねえかな。それよりか、もしかしたら科学の発達が霊のある事を証明する時が来るかも知れねえと思うけんど、どうだろうかな」
柳田さんは静かだけれど、しっかりとした口調で言った。
その場に居た人達は、柳田さんの話に感心したのか、しばらくの間は黙ったままで、祖母のクセになっている咳払いだけが、ウン、ウンと聞こえていた。
「まあ何だよな。こういう事は理屈で考えると、えらく難しくなるし、要は信じるかどうかじゃねえかな。絶対にないとも言えないし、かと言って証明してみろと言われても出来るもんじゃねえし、結局は今のところ信じるかどうかで決まるって事でどうだい」
父がみんなを取り成すように言うと、それをきっかけに皆はフーッと息を吐いて意味もなく笑った。
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- 平成19年3月1日(木曜日)
(28日の続き)
【晴】
「そう言うけどね、いくら戦争に負けて民主主義になったからって、日本人がアメリカ人になった訳じゃなし、そんな急に何でもかんでも迷信だ非科学的だ、やれ古いから駄目だって決めつけていいもんかね。そうやって何でもかんでも西洋が良くて日本が悪いんだったら、日本人より西洋人の方が偉いって事になりゃしないかい。私には日本人がそれほど馬鹿とは思えないけどね」
母は常になく熱心にサーちゃんの意見に言葉を返した。
「何も全部アメリカ人の方が偉いなんて思っちゃいねえけどさ、霊魂とかお化けとかの話になると、やっぱり日本の方が古くて遅れてるんじゃねえかって言ってるんだよ」
サーちゃんが言い返すと「でもよお、アメリカや西洋にも幽霊の話はゴマンとあるし、第一あいつらみんなアーメンだんべ。アーメンは人間の魂は永遠だって教えてるんだから、やっぱり霊魂を信じてるんじゃねえか。だからよお、そういう考えが全部古いってのはどうなんだんべな」
多分あの声は柳田さんだろう。柳田さんは長兄の同級生で時々風呂を貰いがてら遊びに来るのだが、近所では秀才だと評判の高い人だったから、やっぱり言う事が他の人達とは比べものにならないなと思った。
「だけどさ、向こうの幽霊は四谷怪談や番町皿屋敷みてえに足がねえなんて非科学的なんじゃなくって、ちゃんと足があるって聞いたぜ。そこら辺を比べたって、やっぱし向こうの方が科学的だと思うんだけどなあ」
サーちゃんは少し自信のなさそうな様子で言った。
「足があるのが科学的かどうかは知らねえけんど、科学的なのが新しくって、そうでねえのが古いっていう考えも、どうかと思うんだけどな」
柳田さんは少し遠慮がちに言った。
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