アトリエ白美「渡辺肖像画工房」 渡辺晃吉
- 平成16年2月29日(日曜日)
【晴】
ある日、父は行くあてもなく駅にいた男の人を家に連れて来た。
人の難儀を見過せない性格から、以前にも似たような事が何度かあったので、母も家の者も驚きはしない。
話を聞くと、戦争中は大陸で作戦参謀として、作戦活動に従事していた将校であったが、終戦直後に帰国は果したものの、急激な時代の価値観の喪失に、家に戻って新しい生活に入る勇気がどうしても持てずに、各地を放浪していたのだという。
その人の郷里は群馬県の伊勢崎市で、地元ではよく知られた旧家なのだそうだ。
父は、とりあえずその人を家に住み込ませる事にして、その事情を家族に知らせるため、数日後に伊勢崎に向かった。
その人はMさんといったが、マンドリンと歌がとても上手だったので、仕事が終り、夕食も済んだ後、兄のギターと共によく歌っていたが、それが評判になり、演奏が始まると、近所の人達が寄って来て、二階はその度ににわかコンサートホールになった。
そのMさんが、ある日胃痙攣を起こし、近くの医院に運ばれて、痛み止めのモルヒネを注射された事がいけなかった。
Mさんは戦争中に負傷し、モルヒネを打ちながら作戦活動に就いていたために、実は重度の麻薬中毒になり、長い間入院をしていたという事が、その後に判明した。
治療の結果、中毒症状から解放されたのだが、良かれと思って打たれた一本のモルヒネ注射は、Mさんを再び麻薬常習者の道に引き戻してしまった。
その日以来、Mさんは度々胃痙攣を起こし、その都度モルヒネのお世話になるようになったが、あの頃は薬物についての管理意識も、今とはだいぶ違っていたのだろう。
仮病の胃痙攣でも、たやすくモルヒネの恩恵にあずかれたのだ。
多分その頃の薬局には、今の覚醒剤が普通の薬として売られていたと思う。
勿論シンナーなどは子供にさえいくらでも買えたし、塗料のうすめ液として生活必需品だった。
何かおかしいと気付いた父は、ある日Mさんを問い詰め事情を聞き出すと、その後は禁断症状が出る度に、Mさんを皆でぐるぐる巻きに縛って、母屋の座敷に放置するという荒療治をしたが、結局はMさんを説得して、ある専門病院に入院をさせた。
その直後、Mさんの奥さんから離婚の訴えがあり、Mさんは即座に承諾したと聞いた。
太ロープで体をぐるぐるに巻かれ、部屋中を転げ回っている姿が、Mさんを見た最後であった。
戦争が残した数知れない傷跡を見る事無く、子供達が育つ時代ではなかったし、戦後の民主教育の中で成長するにつれて、私達の世代は、戦前と戦後を冷静に対比して眺める事の出来る機会を得たようだ。
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- 平成16年2月28日(土曜日)
【晴】
毎年春になると、黒くてガッシリした自転車、あの頃は運搬車と呼んでいた荷物運び専用の自転車の荷台に、ちょうどノート位の大きさの浅い箱を、見上げる程積んだこうじ屋さんがやって来た。
こうじは大抵甘酒用に使われたが、まだ自家製の味噌を作っている家も多かったので、結構商売になっていたようだ。
こうじ屋さんを囲んでの大人達の話を、聞くとはなく聞いていると、どうやらこの人は、決った家を廻るだけで、流しの商売はしていないらしい。
こうじ屋さんが来るのは、しばらくの間甘酒が楽しめるという事なので、子供達にとっても嬉しい出来事だ。
ただ、大人達は甘酒を作るだけではないらしく、どうやら「どぶろく」作りが本命のようだった。
といっても、子供の私には「どぶろく」というものが、いったいどんなものなのか皆目分らず、話の様子から、極めて美味なものであるという事だけは理解できた。
何日か経ったある日、その「どぶろく」と称するものが出来上がり、その味は上々であるという大人達の話を耳にすると、家に人のいなくなったスキを盗んで、こんな美味いものはないという「どぶろく」を試してみたところ、こんなまずいものをよく口にする事が出来るものだと、大人への強い不信感を、その時強く感じた。
真っ赤な顔をしてフウフウしているところを母に見付かったが、母は私が甘酒とどぶろくを間違えて飲んでしまったと早合点して、布団を敷いたり、水枕を作ったりと大慌てであったが、どぶろくを作った張本人が姿を見せると、「こんなものを作るから、子供が酷い目に会うんだ」と、えらい剣幕で叱り飛ばしていたので、子供ながら、相手が少し気の毒に思えた。
どぶろくを作るのは、本当はいけないのだという事を後で知ったのだが、あんなものを作る事が、なんで悪いのか、その理由は全く分らなかった。
こうじ屋さんもそうだが、我が家にも運搬車が何台かあって、染めあがった糸の束を井ゲタに積んで、注文先に届ける時の様子は、かなり劇的なものであった。
届け先は、何も足利に限らず、太田、佐野、桐生、大泉と、往復で50km位は平気で運んで行くのだ。
一束の大きさが小さな子供程もあるものを、最低でも10本、多い時には20本も積んで走るのだから、その姿はまるで、曲芸のようなもので、あの時代でも、道行く人が振り返る程であった。
小林のヨッさんが品物を太田に届ける時に、時々フジを連れて行ってくれた。
フジは尻尾をちぎれる程振って、ヨッさんの自転車の前後を、さも嬉しそうに走り廻りながら同行するのだった。
そのヨッさんも、工場を辞めてしばらくして、交通事故で死んだ。
20年以上勤めて後の事であった。
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- 平成16年2月27日(金曜日)
【晴】
いつものように朝食前の散歩から戻って来ると、義姉が大慌てで私をつかまえ、真っ白なシャツと紺色の半ズボンスーツを着せ付け、おまけに真っ白な長靴下に革靴、そして頭には学帽まで被せられた。
今日は小学校の入学式で、これから出掛けなければならないのに、どこをほっつき歩いていたのだと、着せ付けている間ずっと小言を言っていた。
母の代りに義姉が連れて行くのだと聞かされ、いったい何の話なのか、その時にはさっぱり分らなかったが、外に出てみると、近所の同じ年の友達が皆ゾロゾロと親に手を引かれて歩いていたので、自分だけがどこかへ連れて行かれる訳ではないと知り、ホッと一安心した。
陽はさんさんと降り注ぎ、何か特別の日になる予感と共に学校に着くと、校庭は新入生とその親達でいっぱいであった。
正門を潜って直ぐ左に建つ二宮尊徳の石像の前が、私の町内の新入生が集合する場所となっており、そこでしばらく待っていると、担当の先生が迎えに来て、皆それぞれに校庭の所定位置に並ばされ、父兄はその後に控えて入学式が始まった。
何が何だか分らない内に式も終わり、各組の担任が紹介されると、今度はその先生に引率されて教室に入った。
私の担任は、佐藤幸雄先生で、クラスは1年4組、スクールカラーは藤色であった。
二人がけの隣の席には、岩崎チズ子さんが座り、その日以降、彼女とは小学校の六年間と中学の三年間、ずっと同じクラスになったが、その事に気付いたのは、何と中学を卒業する寸前であった。
入学以前には数字はおろか、文字も全く読めなかったので、それからの学校生活は、日々驚きと発見の連続であった事に加えて、「詩」という、この世のものならぬ美しいものと出会った時には、その感動を親に告げるのに、言葉では足らず、そこら中を転げ回ってしまったので、ひどく叱られた。
学ぶ事の楽しさ、新しい友との出会い、そして親や近所のおじさんおばさんとは、全く違う大人、すなわち「先生」という人達がいて、望めばどんな知識も与えてくれる事を知った時、学校に行けて本当に良かったと、心の底から思ったものだった。
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- 平成16年2月26日(木曜日)
【晴】
陽がのびたとはいえ、画室を閉めて外に出ると、もうすっかり暮れていた。
街道の向かいにある梅林が、夕闇の中にぼおっと浮かび上がって、昼間とは反対の寒風の曝されている。
本街道までの長い下り坂を、自転車に身を任せて下って行くと、ごうっと山鳴りが谷全体を包んで、とぎれ目もなく吹き荒んでいる。
こんな日はさすがに散歩する人も疎らで、下に降りるまでにすれ違った人は、ほんの数人であった。
ぶどう園のほとんどは今年の手入れを終えて、刈り込んだ枝の束が、根元に積み上げてあるのが、外燈の灯に動物がうずくまっているような影を作って、それと分ってはいても、時々ビクッとしてブレーキを握る毎に、思わず苦笑してしまう。
今日は風が強いので、いつもとは違う道筋で走っていても、やはり何度か自転車を降りなければならない程、突然激しくなる。
反対側からこちらに向って来る自転車は、正しく追い風に乗って、夜目にも軽々と走り過ぎて行くのが羨ましい。
足利学校脇の画材店「大岩太平堂」に久し振りに寄ったが、店に着く寸前に降り出した雨には少し慌てる。
不足分の絵具を補充し、世間話もそこそこに店を出ると、幸いな事に雨は止んでいた。
大門通りをばん阿寺南大門までとり、太鼓橋を渡って人の途絶えた境内を抜けて北門通りに出ると、また雨が振ってきた。
ここまで来れば家はもう近い。
濡れて困るものも持っていないし、コートにはフードも付いている。
いざとなれば雨宿りする場所には事欠かない。
負け惜しみではないが、季節を肌で感じる事の出来るのは、車の便利さを諦めても損のない選択かもしれない。
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- 平成16年2月25日(水曜日)
【晴】
岡田の叔母さんが病院で死んで間もなく、叔父さん達は館林の実家から、また足利に戻って来た。
叔母さんは息を引き取る寸前まで、後に残して行く子供達の行く末を心配していたと、臨終を看取った母が、来る人毎に涙ながら話しているのを、何度も何度も聞いている内に、色白で優しかった叔母さんの生前の姿が脳裏に焼き付いて、悲しい日を何日か過ごした。
それからいくらもしない内に、岡田の叔父さんは再婚して、母もよく知る働き者の新しい叔母さんが、前の叔母さんの子供達を、本当に良く面倒みるようになり、やがて叔母さんに子供が生まれると、何が気に入らなかったのか、叔父さんは叔母さんを離婚してしまい、叔母さんは泣く泣く子供を手放して、岡田家を去って行った。
それから半年程経ったろうか。
学校から帰ってみると、叔母さんが工場に隣接する住まいの、糸乾し場に面した部屋から、隠れるように外を見ていた。
母が直ぐそばの岡田の家から叔母さんの子供を連れ出して来るのを、叔父さんに見られないようにしながら待っていたのだ。
「お菓子があるから家においで」という母に促されて、よちよちと歩いて来た子に、叔母さんは自分が誰であるかを明かさずに、まるでよその子に語りかけるように語りかけながら、用意していたお菓子を与えると、今まで堪えていたものが切れてしまったのか、喉から込み上げてくる嗚咽を噛み殺しながら、溢れ出る涙を、もはや止める事は出来なかった。
驚いて糸乾し場に飛び出して行った子の後を追った母が、庭で遊び相手になっている間中、叔母さんは部屋の窓越しに、目を真っ赤に泣きはらしながら、いつまでもいつまでも盗み見ていた。
それから一年程過ぎた頃、見違えるように元気になった叔母さんが、家事の面倒をみるために再び我が家にやって来た時には、子供ながらホッと安心した事を覚えている。
岡田家は足利を去って、館林に引き上げて行ったので、その日を最後に、岡田家の長女でひとつ年上のトヨ子とは会う事がなく、今も音信がない。
死んだ叔母さんによく似た面立ちで、心の優しい子だった。
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- 平成16年2月24日(火曜日)
【晴】
周藤のおじさんは、いつも珍しい物を見付けて来ては、それを売るのを商売にしていた人だったが、別にフーテンの寅さんのような渡世人ではなく、それが正業のれっきとした商人だった。
まだ物が不自由な時代なのに、頼めば大抵の物を調達して来たので、両親もよく周藤さんに色々な物を頼んでいたようだ。
衣料や食料はもとより、薬や本など、およそ扱えない物がない程で、その上に人までも見付けて来てくれた。
お手伝いさん、職人さん、マキ割りをしてくれる人、漬物を漬けてくれる人、布団綿の打ち直しの時には、5〜6人のおばさんまでも、どこからか連れて来るのだった。
定期的に我が家を訪れる人の中で、一番変っていたのは、拝み屋のおばさんだったろうか。
丸いドンちゃん眼鏡をかけ、白装束に大きな数珠を首に掛けた少し恐い人だったが、話すととても優しい人だった。
その人がカスタネットのようなものを打ち鳴らしながら、大きな声で祈祷する姿には、何か神がかり的な雰囲気があり、今思えば、あれも歩き巫女の末裔のひとつだったのかもしれない。
その人が、どんな時に来たかというと、誰かが病気になったり、何か大切な決断を迫られたり、要するに重大な事態を迎える際に、請われて訪れていたようだ。
その人が胃がんになった時、医者を拒み自らの祈祷の力で病気を克服してみせると豪語していたが、その決意も空しく、痩せ衰えて死んだ。
祈祷師とか、歩き巫女とか、そんな職業の人達が生活する事の出来た時代には、多分今にはない柔しさがあったのだろう。
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- 平成16年2月23日(月曜日)
【晴、終日強風】
千葉で網元をしている祖母の甥が訪ねて来る時には、大きなボストンバッグと背中に背負ったリュックサック一杯の海の物を、いつもお土産に持って来てくれたが、その中で唯一ウニのビン詰めだけは、私以外の誰も口にしなかったので、この珍味を独占して長い間楽しんだものだった。
スルメを始め何種類の干物もほとんど自家製のもので、味の違いは子供でも分る程美味かったが、特筆するべきはヒジキであった。
普通のヒジキに比べて優に二倍は太く、長さも太さに比例して相当なもの。
味は普通のものと違い、とにかく濃厚で香りも豊かであった。
子供には、様々の貝殻や海ほおずき、昆布飴などを持って来てくれたので、年に2〜3回の来訪を、首を長くして待っていた。
その人に限らず、あの頃は遠来の客のほとんどが何日か泊っていったので、この間は当然食事が良くなるのと、大抵一回は映画に連れて行ってもらえた。
そして帰りには屋台のラーメンにありつけるのが常だった。
ごく普通の醤油ラーメンだったが、全ての素材が今とは比較にならない程、天然のものであったから、その味は掛け値なしの美味さだったのを、今でもよく覚えている。
春の桜、夏の花火、そしてお盆、秋の彼岸、えびす講。
そんな季節折々の行事の度毎に、遠来の客が我が家を訪れて、ゲームもテレビもない時代であったが、いつも刺激的で楽しかった。
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- 平成16年2月22日(日曜日)
【晴】
アメリカの子役スター、マーガレット・オブライエンが来日すると、直ぐに映画が作られた。
共演は美空ひばりで、戦災孤児とアメリカ人との友情の物語であったと思う。
アメリカン大サーカスが来日した時には江利チエミの主演で、これはかなりヒットした映画になったと記憶している。
その前後に作られた時代劇に出て来る東京は、いたる所がまだ廃墟のままだったのが、映画の内容よりも鮮烈に迫って来た。
外国からは、今も名を残す数々の名画が連日のように封切られ、それがひと月遅れ位で足利にもやって来て、7軒あった映画館はどこも満員の盛況であった。
禁じられた遊び、美女と野獣、にがい米、オリーブの樹の下に平和はない、自転車泥棒、道、過去を持つ愛情、愛人ジュリエッタ、心の旅路、駅馬車、地上より永遠に、外人部隊、にんじん、ライムライト、怒りのぶどう、第三の男、ヘッドライト、恐怖の報酬、モンパルナスの灯、フランダースの犬、陽の当る坂道、カサブランカ、
昭和20年代の事なので、どこまで記憶が正しいのか自信はないが、幼児期から少年期の、ある意味で非常に大切な時に、素晴らしい作品群と出会えた事は、本当に幸運であったと思う。
邦画にも洋画に劣らぬ名作が次々に生まれた。
一連の黒澤作品や小津作品など、とりあげれば枚挙のいとまがない。
東西のスターも、文字通りきら星の如く登場して来た。
ジェラール・フィリップ、ロベール・オッセン、ジャン・ギャバン、イブ・モンタン、アンソニー・クイン、ジェームス・ギャグニー、ゲリー・クーパ、ジョン・ウェイン、スペンサー・トレーシー、モンゴメリー・ウェスト、ロナルド・コールマン、アーネスト・ボーグナイン、ハンフリー・ボガード、アラン・ラッド、ジョニー・ワイズミュラー、ジェームス・スチュアート、ダニュエル・ダリュー、モーリン・オハラ、マレーネ・ディートリッヒ、イングリッド・バーグマン、グレタ・ガルボ、ジュリエッタ・マシーナ、シルバーノ・マンガーノ、エリザベス・テーラー、キム・ノヴァク、そしてブリジット・フォーセット。
ポーレットを演じた彼女は、その後役に恵まれず消えてしまい、ミッシェルを演じた彼も死刑台のエレベーターでちょっと見かけたが、後はなかったようだ。
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- 平成16年2月21日(土曜日)
【晴】
祭に限らず、日和の良い休日などには、公園(といっても、低い岡の連なりを森が覆って、その中に人の手が入っている、自然の豊かな場所)の広場や、八雲神社の境内など、だいたいお定りの場所で、大道商人達がよく客を寄せていた。
大方は少し怪しげな商品を扱っているのだが、とにかくその口調が面白くて、つい足を止め聞き入っている内に、いつの間にか丸い人垣が出来てしまうという寸法である。
これは多分偽物だなと思うのに、ガマの油ならぬ万能膏薬というのがあって、いかにも怪しそうなおやじが、まず日本刀を出して来て刀に例の薬を塗り、「これをつけると刀が切れなくなる」とふれ込みながら、左腕に当てた日本刀をノコギリのように引きながら、人垣の内側をぐるっと一回りする。
「ウオーッ」という歓声を聞きながら、(最初から刀なんかねえんじゃねえかな?)と子供心に思うのだが、それを口にする勇気はない。
次におやじは、脇に置いた箱の中から猛毒の蛇を出して、自分の腕を噛ませてみせると大見栄をきるのだが、なかなか蛇を出す様子がなく、自分の薬がいかに凄い効き目があるかを、色々な実例を出しながら説明して、結構良い商売をする。
そんなこんなで一時間位は客を引っ張るだろうか。
最後にはいよいよ蛇噛ませの一大パフォーマンスとなるのだが、箱から出して腕を噛ませ、その蛇をしまうまでの時間は約5秒位だろう。
ちょっと瞬きしたら見失う程素早く、蛇は元の箱の中に納まってしまい、生命に関るからと、例の薬を塗った上から包帯を巻くと、あっという間に道具を片付けてどこかに消えてしまうのだ。
後に残った人達の中で、勢いにまかせて薬を買った人は、ようやく我に帰って呆然と佇んでいる。
あ〃これは騙されたな、と思っても、後の祭である。
同じ薬でも、マムシを始め、しま蛇やハブの蛇の粉と称するものを、どう見ても日本の蛇とは思えない奴を首に巻き付けながら売りつける、蛇の粉売りの方が、少しはまともだったかもしれない。
足元に置いたオリの中には、数え切れない程の蛇が、ごちゃごちゃと塊になってうごめいている。
女の人などは「キャー」と悲鳴をあげながら、それでもその場を離れようとはしないのは、どうしてだろうか。
その粉が最も良く効く病気は結核で、その他万病の効力があり、寝小便などは唯の一回飲むだけで、ぴたりと治ってしまうと聞いた時には、金を持った親がそばにいなかったのを、どれだけ呪った事だろうか。
針金さえ何気なく切り刻んでしまう包丁やハサミを売ってる人は、なぜか陣笠と陣羽織を着ていた。
口から泡を飛ばし、目をむき声をからしながら、高々と口上をのべる様子は、下手な芝居を見るより面白く楽しかったのを懐かしく思い出す。
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- 平成16年2月20日(金曜日)
【晴】
祭の露店や屋台店の中で、今はほとんど見なくなったものは、まずカーバイトのランプだろうか。
T字型のノズルから吹き出すアセチレンガスを燃やしているので、町工場の溶接現場と同じような匂いがした。
茶色の泡をブリキの箱に入れて固めたようなブッカキ飴は、食べると強い重曹の味がして、あまり美味しくなかった。
スルメを醤油で煮て串に刺したイカは、あの頃はとても安い食べ物で、丸々一枚を買っても、足付きで10円位だったので、少ないこづかいの使い道は、大抵この辺で落ちつく。
細長い木の樽に氷をいっぱい詰めた中に、銅の長い容器を入れ、その中に牛乳と砂糖をぶち込んで、一時間以上汗まみれで廻し続けるとアイスクリームが出来る。
その周りには子供達ばかりではなく、いい大人も集まって来て、飽きもせずにいつまでも眺めていた。
セルロイドで作った色鮮やかなパイプの中に、ハッカ味の砂糖やラムネなどが入っていたハッカパイプも、今ではもう見れなくなったもののひとつだろう。
マッチ箱ほどの素焼きの型に、金粉や銀粉をまぶして、そこに粘土を押し付けて、色々な形を作り出す玩具は、何度買ってもうまく作れなかった。
直径1cm、長さ30cmほどのガラスの筒に、少し毒々しい色の甘い寒天が詰った奴を買って食べた事が親に知れると、それはきついお仕置が待っていた。
そのお菓子が原因で、これまでに何人もの子供が死んだのだというが、果して本当だったのだろうか。
麦こがし、別名コーセンは安くて美味しいのだが、紙の袋の中味をストローで吸うために、誰もがむせながら食べた。
そういえば、あの頃のストローは、文字通り本物のストロー、つまり麦の穂で出来ていた。
そのストローを色付けして作る麦細工も、女の子には人気の品物だったが、最近のお祭では、ついぞ見た事がない。
長さが7cm位の木製のロケットは、かんしゃく玉を入れる仕掛けが取り付けられていた。
そこにかんしゃく玉一回分を納めて、ヒモ付の蓋をしてから、思い切り上に投げるのだ。
ロケットは尾羽根が付いているので、落ちて来る時は必ず先下になっているために、着地の瞬間「バーン」と大きな音を発てる、ただそれだけのものだったのだが、仲間は残らず一回は買ったものだ。
値段は10円で、かんしゃく玉は一枚5円、一枚に100ヶ直径が3mm位の火薬が貼り付いていて、使う時には手でその部分を破り取った。
昔の子供は、火薬や刃物は勿論、大工道具なども実に器用に使いこなし、遊びばかりではなく、実生活にも役立てていた。
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- 平成16年2月19日(木曜日)
【晴】
行商人とは違うが、商売道具一式を運んで来て、路の端やお堂の前などに陣取って商売をする人達もいた。
冬は陽だまりで夏は日影で、一心に仕事をしている姿には、何か絵になる風情があった。
よく見かけたのは、キセルを修理するラオ屋、ナベや釜の穴を直すいかけ屋、ハサミや包丁を研ぐ研き屋、ノコギリの目立て屋、完成品を売りながら修理もしていた竹細工屋。
食べ物では、米一合と10円を持って行くと、その場で10枚の煎餅に焼いてくれたポンポン煎餅屋と、ポップコーンのような「ばくだん」という菓子を作るばくだん豆屋、ハサミと手だけで、見事な造形を見せるしんこ細工屋と、ストローを吹きながら、様々の動物を作ってみせた飴細工屋、今の交通事情では考えられないが、本通りを少し入った脇道や辻にゴザを敷いて、半日近く人だかりを作っても、ほとんど問題になる事もなかったし、近所の人達はどれほど重宝したか分らない。
ラオ屋は小さなボイラーをガラス張りの屋台に積んで、蒸気の吹き上がりを利用した汽笛を鳴らしながらやって来た。
ヤニの詰ったキセルに蒸気を通して、中をきれいに掃除してやるのだが、それ以外に新しいキセルも売っていた。
いつまで見ていても見飽きなかったのは、七輪に起こした炭火で焼いたコテとハンダで、ナベ釜の穴を修理するいかけ屋の仕事であった。
穴に合せた板をあてがい、そこに透けて銀色に光るハンダを流していく。
様々のあて金を木台に刺して、木づち金づちを使って整形する様子は、まるで神技であったし、ハンダでは出来ないところをロウ付けで止めていく時など、仕事を通り越して手品を見ているようであった。
プロがプロとしての誇りと、生命懸けの責任感を持って仕事をしていた頃の話である。
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- 平成16年2月18日(水曜日)
【晴、強風】
現在の訪問販売とはひと味もふた味も違う、行商人と呼ばれる人達が、様々の品物を軒先まで持って来てくれた。
ほとんどの人は飛び込みではなく、定期的に商いにやって来る、いわゆるなじみなのだが、時には流しの行商人が、まがい物を売りつけたり、もはや死語に近くなってしまった押し売りというのもいた。
押し売りは文字通り脅迫まがいの商売で、訴えられれば当然逮捕される程に違法性の高い商売をしていた。
佃煮をリアカーに乗せて売りに来る人もいれば、魚や野菜の引き売りは毎日の事であった。
富山の薬屋と越後の毒消し売りは、年24回程はやって来ただろうか。
変ったところでは、注文があればマムシやしま蛇などを家の前でさばいてくれる蛇屋とか、鎌や包丁、鉈などを、柳行李に入れてやって来る、三条の刃物屋さん。
何段か重ねた木箱に、大福餅や薄皮饅頭、桜餅、芋羊羹、金つば、金玉などをびっしりと並べて売り歩く人もいたし、赤飯や稲荷ずし海苔巻きなど、子供にとっては目を見張るような品物を商う人もいた。
海からは干物やわかめ、ひじき、海ほおずきなどがやって来たし、山からは、きのこや山菜、そして時には猪や鹿の肉、熊肉と熊の胃、およそ一尺はあろうかと思う岩魚などが届いた。
米軍の放出品のズボンやジャンパー、缶詰や靴、見ただけで気絶しそうな色とりどりのチョコレート、ビスケット、キャンデー、夏になると、乳母車を改造した手押し車で、トコロ天を売り歩くおばさんがよく来たが、寄れば必ず手ぶらでは帰さなかった母を慕って、たとえ一本でもおまけをしてくれたものだった。
花売り、榊売り、ほおずき売り、風鈴売り、金魚売り、竹鉄砲、水鉄砲、パチンコ、吹き矢、ゴム鉄砲などのオモチャを持って来る人など、どちらかといえば珍しい部類になるだろうか。
椿油、菜種油、ごま油、えごま油など、油だけを売りに来た人は、ひしゃくとじょうごを使って見事な計り売りしていた。
浅草海苔売り、ふ海苔売り、玉子売り、カステラ売りと、およそ持ち歩けるものなら、ほとんどの品物が商売の品になっていたのではなかったろうか。
日本中が必死になって、敗戦の痛手から立ち直ろうとしていた時代の、日常の生活形態であった。
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- 平成16年2月17日(火曜日)
【晴】
家々の門口に立って、寸志や喜捨を請う人達がいた。
「門付芸人」といわれた人達や、己の利に関りなく浄財を募る人達と、その生き様はまちまちであったが、その人達の訪問は、大人だけでなく子供にとっても楽しみなものであった。
托鉢僧や虚無僧、獅子舞、漫才、そして俗におもらいと呼ばれた人達などは、あまり珍しい部類ではなかったろう。
珍しいというより、かなりあやしい人達もいたし、その方がかえって面白く楽しかったように思う。
その中には、歩き巫女の末裔かと錯覚しそうな女の人や、家相や手相を観てくれる占い師、かと思えば山伏姿の祈祷師、特に皆の度肝を抜いたのは、ほら貝を口に当てて、「デロレーン、デロレーン」と合の手を入れながら、何の挨拶もなく表の戸を開けて中に入って来て、独特の節回しで歌を歌う「祭文語り」であった。
後で聞いたところでは「浪曲」の一番古い形で、仏法を分りやすく説くために生まれた芸能だったのだそうだ。
三味線弾きには男と女の両方いたが、独り稼ぎはめったになく、大抵は2〜3人の組であったようだ。
そして例外なく、その人達の身なりは決して不潔ではなかったが、粗末なものだったのが強く心に残っている。
足元はほとんど地下足袋かわらじ履きで、人によっては手甲脚半を付けていたが、そのいずれもあい染で、よく洗い込んだ色目は、子供の目にも鮮やかな着こなしに映った。
その人の身なりに、その人の人生が漂っていた時代の話である。
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- 平成16年2月16日(月曜日)
【晴、終日強風】
戦争中に燃料として切り倒されたのか、水道山には子供の腰以上に高い木は一本も生えてなくて、一部禁断の領域だけが、昔と変らない森林となっていた。
頂上には高射砲台跡の正八角形のコンクリートが、都合の良い展望広場になっていたので、天気の良い日などは、よく人の姿が下の町からも見る事が出来た。
そこから南の方角に目をやると、遠く秩父山系から多摩の山並みまで、一望のもとだったが、所々島のように村落を点在した関東平野が、まるで緑の海のように広がっている風景は、いつ見ても見飽きる事がない程魅力に満ちたものであった。
冬は赤城山の雄姿が、冴え渡った天気の大気の中に驚く程間近に迫り、東には筑波の孤峰が望まれた。
東京タワーが建って直ぐに、良く晴れた風のある日には遠く南東を眺めると、その姿が見付かると皆が噂していたが、何度探しても、あれが東京タワーだという確証はなかった。
秩父多摩山系越しに山頂を見せる富士山の直ぐ東の方角が、足利とは縁の深い八王子があると聞いた。
そして、山並みが関東平野に没する方角が、これもまた足利とは密接な関りのある鎌倉で、その手前に大和市がある。
大和市は東京の寮を出る娘が、これから暮す下宿のある街である。
- 平成16年2月15日(日曜日)
【晴、西の風】
膝に何かが当たったので、食卓の下を覗いてみると、誰が忘れたのか、手鏡がひとつ落ちていた。
何の気なしに手を取って、面白半分に食卓の器に立て掛け、自分が食事をする様子を映して遊んでいると、向かいに座って一緒に食事をしていた祖母が「これっ、ご飯を食べているところを鏡に映してはいけないよ。向こう様がお腹いっぱいならいいけれど、もしもお腹を空かしていたら可哀想だよ」
「向こう様って?」
「鏡はね、こちらの世界と異界とを繋ぐ入口になるんだよ。鏡だけじゃないよ。昼間でもお陽様の当たらない場所や、大きな樹の根元や道の外れなどには、大抵向こう様がこっちに来るための入口があるんだよ。だから、そんな場所を通る時にはきちんと挨拶をして通らなければだめだよ」
そういえば、堀越山の森の中の穴に住んでいた事もあるという堀越のおじさんに、世界の仕組みについて聞いた時に、長身痩躯の身を折り曲げるようにして教えてくれた事と、祖母の話の内容はどこか似ていた。
「この世界はね、宇宙といって、ものすごく大きなシャボン玉のようなもので、どこまで行っても果しがないんだけれど閉じているんだよ。だから、どこまでも宇宙の中を進んで行くと、いつの間にか元の所に戻って来てしまうんだって。別に壁のようなものはないんだって。その代り、僕達のこの宇宙の周りにはね、また別の宇宙が、それこそシャボン玉がいっぱいくっついているように、たくさんあるそうだ。しかし、隣のシャボン玉に行く事は出来ないんだよ。僕達はこの宇宙の銀河系という島宇宙の中の太陽系の地球に生まれた人間だけれど、もしかしたら僕達の世界とぴったり重なって、もうひとつの別な世界があるかもしれないね」
坊主頭で度の強い眼鏡をかけていたが、レンズ越しに見る両のひとみは、子供でも分る程知性に溢れ、澄みきっていた。
確かに、弓引場の真中に立つ大欅の下を通る時、言い難い静寂と英知の温もりのようなものをいつも感じていたし、あんなすごい樹が、ただ無心に生えているとは、どう考えても信じられなかった。
古代人は万物を神と呼んだそうだが、おそらく、存在の根源に息づくものを、まるで五感で受け止める程の手応えで受け入れ、何の疑いもなく世界を共有していたのかもしれない。
一木一草に宇宙と共振する霊性を感得する者が、人間に対して柔しくなれないはずがなく、穏やかに謙虚に生きる事がごく普通に出来た時代があった事を誇りたい。
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- 平成16年2月14日(土曜日)
【晴】
いろりのある板の間の南と東は、かなり広い土間になっており、東側には大きなヘッツイがでんと据えられていた。
その辺りには部屋の灯りも充分に届かず、炊き口から漏れる光が三和土を橙色に染めていた。
板の間とそれに続く部屋を仕切る重々しい板戸は、長年の煤で黒々と磨かれ、何か空おそろしい気持ちにさせられただけではなく、北の板戸の奥は、何と座敷牢になっていたのだ。
そんなものが、なぜこの家にあって、どんな目的に使われたのかは、後になって知らされたが、時代劇の映画の中でしか見た事もない本物の座敷牢は、子供には恐怖を超えて、意識を失う程のショックであった。
その夜、尿意で目覚めたものの独りで便所に行く事は勿論、親を起こす気力もなく、見事な寝小便をする事となった。
翌朝、庭の方から聞えて来る「ペッタン、ペッタン」という餅つきの音で目覚めると、寝巻き姿のまま表に飛び出した。
あの頃は、正月以外の餅つきなど、お祭りがきたようなものだ。
つきたてのあんころ餅とからみ餅、そして両手で持たないと落ちてしまいそうに大きな大福餅。
昼食をご馳走になった後に叔父の家を辞して行く私達の背には、心づくしの土産の餅が、ずっしりと乗っていた。
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- 平成16年2月13日(金曜日)
【晴】
いたる所が禿だらけのボンネットバスに揺られ、終点の◯◯医院前という停留場で降りると、そこは深い木立に囲まれた小さな広場で、石の柱の門と生垣のセピア色した医院の横から土手に続く細い道が、先に進むための唯一のものであった。
夕暮にはまだ少し間のある早春のある日、私は父母と直ぐ上の姉と共に、埼玉のとある村の村長を務めている母の兄、つまり叔父のひとりのもとを訪れた。
利根川沿いに延びる土手の上を、どの位歩いたろうか。
辺りはとっぷりと暮れて、もう足元さえ見えない闇の中を、痛む足を引きずりながら父母の後を追った。
身を切る寒さと空腹が、小学校1年生の五体を容赦なく責め立て、もうこれ以上はとても歩けないという限界ぎりぎりのところで、道はやっと土手を下り一軒の農家の前に私達を導いた。
背に森を従え、どこが隣との境なのかも分らない程の闇を裂いて、家の戸の隙間から漏れる黄色い光ほど、旅する者の心を和ませるものはない。
慌しく戸を開けて挨拶する両親に続いて中に入ると、そこは広い土間と、いろりを切った板の間になっていて、燃えるソダから立つ煙が、黒く太い梁を越えて、その上の闇の中に消えて行った。
叔父をはじめとした家中の人達の歓声に迎えられて、背中を押されるようにして誘われたいろりの前の席は、寒さに凍えた子供にとっては、まるで天国のような場所であった。
とりあえず晩飯が出来るまでと、いろりの火に乗せられた餅は、普段目にしているものより、優に二倍は大きかった。
焼きあがった餅に醤油を付け、「さあお食べ」と皿に乗せてもらう間ももどかしく、フウフウとほゞばった時の至福の瞬間は、50余年を経た今も鮮烈である。
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- 平成16年2月12日(木曜日)
【晴】
学校から帰り宿題を済ますと、外はもう薄闇に包まれていた。
今夜は仲間と連れ立って、夜桜の公園を舞台のかくれんぼをする事になっているのだ。
夜のかくれんぼは、鬼も逃げる方も二人一組となり、もしも奇数になった時には、鬼の人数を増やして調整した。
夜桜の公園の夜は、いたる所に吊り下げられたボンボリと、仮設の外燈のおかげで結構明るく、よほど上手く身を隠さないと直ぐに見付かってしまう。
しかも広大な敷地の全部を使ったのでは、いつになっても逃げた奴を捕まえる事が出来ないために、範囲を限定しての勝負となる。
鬼が決ると、百数える間に一斉に逃げ散り、後は闇から闇へと身を移して、何とか鬼の手を逃れようとするが、鬼だけは懐中電灯を持っているので、そう簡単には逃げきれるものではない。
足利公園は低い丘がいくつか集まっているような地形に、椎や楓、桜や松、そしてつつじなどが密生していた。
その中を、広い道から、獣道まで、まるで迷路のように道が入り組んでいて、子供の遊び場としては最高の条件が備わっていたが、その分相当の危険が伴っていたのも確かであった。
いたる所にあるつつじの木の影に身を潜め、鬼に気付かれないように木から木へと移動しながら、何とか鬼のうしろに廻って「あぶと」を掛ける機会を狙う。
鬼に気付かれずに体にタッチしながら「あぶと」と言うと、鬼はもう一度鬼にならなければならないのだ。
子供の頃、この遊びを「あぶと鬼」と呼んでいたが、よそでは何という名前の遊びなのだろうか。
ともあれ、日本の片隅の足利という地の、またその中の片隅の公園が、あの頃の世界の全てだった。
しかし、考えてみれば、世界のどこの場所も、結局は世界の片隅のひとつなのかもしれない。
パリの街角も、ローマの広場も、そして、足利公園の小路の行き止まりの、あのさるすべりの木の下も。
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- 平成16年2月11日(水曜日)
【晴】
2月の寒風の中を、まるで一遍上人のように、昇り旗を片手に持った素足の僧が一人、建ち並ぶ家々の門口に立って静かに読経し、浄財を募る姿が毎日のように目に入る。
あれは保育園設立資金を集めている常念寺の和尚さんで、寺は確か時宗だった。
冬の夕暮は町を銀ねず色に染めて、行き交う人の姿も疎らとなり、豆腐売りの自転車にも、早々と灯が入ったようだ。
表通りに面した露地口に建つ木戸門の下には、ナベを持ったおばさんが、こもごもの話を交しながら待っている。
晩餉の煙は赤城颪にはたかれて棚引き、色も見えないのに香りを伝えて来る。
柳田鉄工場の前の外燈にも、角の魚屋の前のそれにも、そろそろ灯が点き、黄色い光が穴だらけのアスファルトの上に丸い盤を作り始めた。
着膨れた服の上から容赦なくしみ込む寒気に、思わず身をすくめながら右を向くと、踏切の上を長い荷物列車が通り過ぎて行った。
遮断機を上げて番小屋に入って行ったのは雨沼のおやじさんだったろうか。
聞けばあの人は、若い頃に肩で風を切った生き方をしていたという。
今のおやじさんも、そしておばさんも、善人を絵に描いた人だ。
踏切を渡った左側の飯島旅館は、この辺では一軒だけの旅人宿で、宿泊人のほとんどは長逗留の売人だったようだ。
女装のあめ売りも、時々見掛けるいかけ屋も、ここの宿の土間で飯を炊いていたのを、通りすがりに何度か見掛けた。
あのあめ売りは、家の前を通ると必ず立ち寄って、母の振舞う茶菓に、しばしの時を過ごしていた。
脳梅が悪化したために工場を辞めたヨッさんは、兵隊服の上にズダ袋をけさ掛けにし、その中にバネ鉄砲をいっぱい入れて行商して歩いていたが、近くに来た折には必ず家に顔を見せたが、その内にパタッと間遠くなってしまい、病気が益々悪化したために、病院に入ったと、風の便りに聞くと、母はそれが哀れだと、話の度に涙を流していた。
旅人宿の角にあった青桐の木の実は、嗅ぐと頭が痛くなる臭いがして、その前を通る度に、人いきれが充満する映画館を連想して嫌だった。
寒さと空腹で家に駆け戻った時、どうした訳か誰もいない時があった。
こたつに火はなく、居所がない。
そんな時には、押入れから布団を引っ張り出して、中に潜ったものだった。
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- 平成16年2月10日(火曜日)
【晴】
桜祭りが終わると、足利公園は直ぐにつつじ祭りが始まり、その中のイベントとして、チンドン屋大会と紙芝居大会が開催される。
チンドン屋大会はあまり面白くなかったが、紙芝居大会はそれぞれにひいきのおじさんが出場するとあって、少なくとも本町の9町内ガキ共にとっては、見過す事の出来ない大イベントであった。
公園の広場に作られた舞台は、春3月から夏の盆踊りまでの間、さまざまの催しに使われる。
大きな催し事の間は、大抵素人のど自慢大会で繋いでいたので、夜ともなると、広場の拡声器から流れて来るくぐもった歌声が、子供達の眠気を誘った。
5月のゴールデンウィークを中心に、日曜日には必ず何かの催しがあり、降り注ぐ晩春から初夏にかけての陽の下で、大人も子供も思い切り楽しんだ。
ドサ廻りの芝居や手品、浪曲大会や洋舞など、今のディズニーランドより、はるかに刺激的な感動と驚きの連続だった。
広場の土の上で行われる真剣による演武には、子供だけでなく大人達もいずまいを正して、静かに、しかも息を飲んで見学した。
つつじ祭りの後は、もう八雲神社の夏祭りが来る。
それが終わると、子供達が待ちに待った夏休みだ。
そして蛍祭り、盆踊り、精霊流しと続き、やがて夏休みが終わり、春から続いた祭りの日々が一段落する。
公園は秋の菊祭りまで、ほんの短い間眠りにつく。
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- 平成16年2月9日(月曜日)
【晴、西の風】
健さんは終戦直前の昭和18年に、旧満州で生まれた。
本島家の跡取りであった健さんのお父さんが、青雲の志を抱いて、新婚早々のお母さんと共に大陸に渡り、農園経営を手がけたのだという。
間もなく長女が誕生、直後に健さんを身ごもったお母さんを置いて、お父さんは軍隊へ現地召集され、何処とも知らぬ異郷の地で戦死した。
健さんのお母さんは、結婚生活1年半で、小さな子を抱えた戦争未亡人となってしまい、おまけにお母さんの胎内には健さんがいたのだ。
それから間もなく日本は敗戦、健さん達は大陸に取り残され、文字通り死を覚悟の逃避行が始まった。
健さんのお母さんは髪を切り、男装して二人の子供を守りながら、運良く日本の地を踏む事が出来たのは、正に不幸中の幸いであった。
日本に帰り着くまでの間、何度子供達を殺し、自分も自決しようと思ったかしれなかったそうである。
事実、同行していた多くの人達が、殺されたり自らの生命を絶ったりして、異国の地に屍をさらしたと聞く。
後日、親友となり、良きも悪しきも常に共になした健さんのこれが生立ちである。
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- 平成16年2月8日(日曜日)
【晴】
本島家は、代々戸田藩に仕える武士だった事から、明治以降は士族という身分となり、終戦直後まで、大きな屋敷と多くの土地と借家で、かなり裕福だったと聞く。
それが親族の不始末のおかげで財を失い、それまでの借家だった一軒に身を寄せなければならなくなった。
しかし、落ちたりとはいえども誇りだけは失う事なく、表札には墨跡も鮮やかに「元士族」と袖書してあった。
幼なじみであり親友の健さんは、その表札が嫌でたまらないらしく、その事が話題になると、いつも顔をしかめて文句を並べていた。
本島家がまだ没落する前のおじいさんは、いつ見ても絶対羽織でセッタに黒足袋、帯には子供の目にも由緒のありそうな煙草入れと銀の懐中時計。
長老を絵に描いたような姿が、古い町によく似合った。
本島のおじいさんに限らず、あの頃には魅力ある年寄りがその辺にいくらでもいたような気がする。
いつだったか、元旦の忙しさに子供達が銭湯に追いやられた時、一人だけ先に入っていた、少しおっかないおじいさんが、気持ち良さそうに唄っていた。
本町の、それも緑町に育ったガキなら大抵は知っている唄だった。
「梅にも春」を、見事にこなしているおじいさんは、やはりカッコ良かった。
叔父は錦古流尺八の師匠で、昇童と号した。
父の弟弟子は錦心流琵琶の名手だったが、身なりがあまりにも酷かったので、皆はその人の事をボロよしと呼んでいた。
ヴァイオリン弾きやアコーディオン弾きもいたし、琴三弦の弾き手など珍しくもなかった。
それがいずれも結構年寄りだから、この町は相当に粋な町だったのだろう。
月夜や雪の日などには、まるで映画の一場面のように、能の一節を唸りながら歩去って行く人がよくいたものだ。
今では信じられない程ハイセンスな年配者が、きら星の如く存在した時代だった。
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- 平成16年2月7日(土曜日)
【晴】
我が家の染色工場の北を通る、幅がせいぜい1.5m程の露地道は、本島家の黒い板塀に突き当たると右に折れ、塀沿いに5m程で薬師堂の西裏に出る。
その露地道を堺に、ちょうど東南の角地になっているのが大貫さんの庭だったが、その頃はほとんど畑になっていた。
その庭の東北の角には、かなり大きな欅の古木が立っており、なぜか根元は御影石の細工くずが積み上げられ、低い小山になっていて、その頂上には、ひどく古びた小さな石の祠が、まるで欅の幹に食い込むように安置されていた。
近所の人達は、この祠を九頭竜様と呼んでいたが、本当のところはよく分らないらしい。
「いいか、この神社はとても恐い神様で、お前達がいたずらなんかしてみろ。たちまちバチが当たるからな。だから絶対に悪さなんかするんじゃねえぞ」
事ある毎に子供達はそんな説教を貰っていたので、誰もここを通る時には少し居住まいを正して、急いで走り抜けて行った。
我が家に限らず、この辺の大抵の家の神棚には、九頭竜様という、あの恐いたたり神と同じ名前の薄い木箱が奉ってあり、いたずらの張本人が分らない時などには、親は厳かにその箱を神棚から下ろし、うやうやしく中身を出す。
中には何やら恐ろしそうな文字が書かれた小さな紙が入っているのだが、親はこの紙を小さくちぎり、指の先でダンゴにして子供達に飲ませるのだ。
この紙を飲んでもしも嘘をつくと、そいつは血ヘドを吐いて死ぬと言い伝えられていたので、これをやられた悪ガキは、まず間違いなく、饅頭を盗んだ事や、ガラスを割った事、隣の犬の尻尾と野良猫の尻尾を紐で繋いだ事、糸井の赤ん坊を公園のベンチに置き去りにしてきた事などを、残らず白状してしまうのだった。
今になって考えれば、血ヘドを吐いて死ぬような物騒な物を、自分の子供に飲ませる親などいるはずはないのだが、その時にはとてもそんな冷静な判断が出来るはずもなく、白状しても決してぶっとばされないという約束を信じて、何もかもゲロした末に、確かにぶっとばされはしないが、親指と人差指の付け根にお灸をすえられるという、ぶっとばされるよりも辛いお仕置が待っていた。
名前は絶対に言えないが、ある奴が自分の勇気を示したい一心で、皆が止めるのも聞かずに、九頭竜様の祠に小便をひっかけたところ、その夜チンポが真っ赤に腫れ上がって、一晩中大泣きしたという噂が流れ、本人もそれを否定しなかったので、誰もが、このたたり神の呪いを固く信じて疑わなかった。
本島のおばあちゃんは、ここを通る時必ず「はいごめんなさい、また通らせてもらいます」と挨拶をしていたが、子供ながらその姿の中に、ある種の美を感じていたと思う。
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- 平成16年2月6日(金曜日)
【晴】
ライオン丸を語らせたら右に出る者はいないと自負している紙芝居屋のヨッさんは、語りの合いの手の入れ方も群を抜いて上手だった。
切々と語りながら、右手に持ったバチが絶えず低い音を出し続け、その音が時に強く激しく、時に消え入るように弱くと調子を付ける。
大抵のおじさんは、肝心のところだけに太鼓が入るだけなのに、ヨッさんは語る内に段々と自分のあまりの上手さに酔ってしまい、時には涙ぐみながらセリフを語っている時もあった。
それ位だから、同じ一巻を語る時間も、他のおじさんよりずっと長くかかるので、一日の立ち寄り先も件数が少なかった。
ヨッさんが子供達に売る物の中には、柔らかく煮たぶ厚い昆布があって、これが結構人気があった。
それでも10人の内9人は割箸を折った先に付けた水あめを買い、紙芝居が始まるまでの時間、一心不乱に捏ね回して、誰が一番白くなったかを競った。
太鼓を鳴らしながら近所を一回りしたヨッさんが帰って来ると、皆は待っていたとばかりに水あめを翳すと、ヨッさんはおもむろに審査して、厳かに一位の名を告げるのだった。
一位のご褒美は大抵は例の昆布が一枚だったが、大きさは約半分位に小さかった。
昆布の賞品は紙芝居の途中に出されるクイズに正解しても貰えたので、私はよく自分達の町内に来る前の場所に忍び込んで、筋書きを盗んで来た。
それをチクられ、ヨッさんにひどく叱られたが、それより早く昆布を口に入れる素早さには、その場に居た全員が舌を巻いたものだった。
それからしばらくの間、ヨッさんは私には太鼓も拍子木も持たせてくれず、クイズへの参加も許さなかった。
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- 平成16年2月5日(木曜日)
【晴】
鎧行列は正式には「鎧年越」と言い、現在でも毎年2月3日に行われているが、鎧が妙に新しく、色も鮮やかすぎて、何だか5月人形から借りて来たような軽々しい雰囲気になってしまったのが残念だ。
聞くところによると、平安、鎌倉の合戦は、実に煌びやかなものだったそうだから、今の雰囲気が本来の姿なのかもしれない。
子供の頃の鎧年越は多分真夜中近く、それも今と違い、外燈もわずかな通りを、松明を手に粛々と進んで来た。
その様相は正に黒澤明の世界そのもの。
武者の纏った鎧はどれも古びており、帯びた太刀も携えた武具も全て本物だった。
行列の人達も、道の両脇で見物する人達もなぜか沈黙を守り、ただ具足が発てる「ガシャ、ガシャ」という音が闇の中に響いて、子供ながら身の引き締まる思いで眼前の武者の列を見送った。
現在の行列は、交通事情を考慮して行程が短縮されていると聞くが、かつては緑町の八雲神社からばん阿寺までを、威風堂々とねり歩いた。
鳴り渡るホラ貝と陣太鼓も勇ましく、闇を裂く松明の光に照らされた武者達の姿には、凍てつく冬の大気こそ相応しいと、子供心に思ったものだった。
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- 平成16年2月4日(水曜日)
【晴】
その夜は必ずけんちん汁と尾頭付きが膳に乗り、おまけに刺身まで振舞われたばかりでなく、少し早目に仕事を終えた職人達にも酒飯の席が用意され、台所からは湯気と料理の香りが、姦しい女達の声と一緒に流れて来た。
まだ暮れるには早い宵闇の中から、「福は内、鬼は外」の声が届いて来る。
どういう訳か毎年「年男」という事になって、我が家の豆まきは、いつも私の役割だった。
晩ごはん前に母の先導で、まず神棚のある部屋から始める。
部屋の中央に立ち、神棚に向かって「福は内、福は内」と豆をまくと、母が透かさず部屋の戸を引き開ける。
それを待って外に向かって「鬼は外」と豆をまくのだ。
それを玄関や台所、背戸や、いくつかの場所で繰り返し、今度は外に出て、まず町内の辻にある小さなお稲荷さんの前で豆まきをするのだが、いくら闇の中とはいっても、何だか気恥ずかしくて、つい小声でコソコソと済ませてしまう。
そこから目と鼻の先の八雲神社に行く道には、手にマスを持った人達や子供達が、ぞろぞろと歩いている。
神社の鳥居を潜り、正面の石段を登って本殿前で最初の豆をまき、境内にあるいくつかの社殿の前でもやってから、急いで家に帰ると、待ちに待った御馳走にありつける。
食事が終わると、今度は外套とマフラー、そして手袋に身を固め、父親に連れられて表通りまで行き、鎧行列が来るのを待つのが毎年恒例の事であった。
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- 平成16年2月3日(火曜日)
【曇時々雨】
緑町の通りの両端にあるドブには、白御影石の蓋がしてあり、所々その蓋が外されて口が開いていた。
夜お使いに出た子供や、道を行く年寄りなどが、よく蓋に足を取られて転倒したり、ドブに落ちたりしたものだったが、不思議にそれをどこかに訴えたり、苦情を言ったりする人がいなかったのは、どういう事だったのだろうか。
白御影石の蓋は、一枚の重さが約80kgはあったろうか、今なら一枚数万円の値が付くだろうが、あの頃は盗まれる事など皆無といってよかった。
ドブの中には赤虫やヒルがたくさんいたので、子供達は素足で中に入り、吸いついたヒルを取って、道の脇にたまった細かい土の上で、まるで小麦粉をのばすように転がして、誰のが一番長くのびるか競争した。
そんな遊びばかりしていた訳ではなかったが、衛生面から考えたら、現代の母親など卒倒してしまうかもしれない遊びなど日常茶飯事だった。
グローブやボールもないのに、野球はよくやった。
地面に長さ30cm、深さ10cm位の細長い穴を掘り、そこに長さ15cm位の棒を、穴の前に斜めに置く。
バッターはその棒を、長さ50cm位の杖で叩き、空中に飛び上がったところを思い切り打って飛ばし、塁に走るという訳。
ピッチャーがボールを投げないだけで、後はほとんど同じルールだったが、結構熱中したし、面白かった。
文字通り皆真っ黒けになって遊んだ。
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- 平成16年2月2日(月曜日)
【曇のち雨】
学校の正門の前は、まるで堀のように逆さ川が東西に流れ、川に平行して走る道に直行して南北に抜ける道が作るT字路の、向かって左側の角がパン屋で、反対の右側が文房具屋であった。
文房具屋といっても、ちょっとした玩具や菓子なども置いてあるから、駄菓子屋でもあったのだ。
そのため店の中も、まるでオモチャ箱をひっくり返したような、何とも騒がしい雰囲気だったが、それが人気なのか、毎朝買物をする生徒達でいっぱいだった。
向かいのパン屋も、パン以外にさまざまのお菓子を商っていただけでなく、その頃の言い方で洋舞の教室もやっていた。
毎日ではなかったが、三角形に切った食パンを竹グシに刺し、黒砂糖の蜜にくぐらせたものを1本5円で売っていて、これにありつけた時は、えらく得をした気分になった。
貧しい家では、客をもてなすお茶菓子さえ買う事が大変な時代であった。
そんな家では、1コ10円のコッペパンを薄切りにした上に、わじろという少し茶色がかった砂糖をふりかけて出したりしていた。
たとえ貧しくとも、もてなしの心だけは失わない人達の、これも生活の知恵であったのだろう。
同じようなお茶菓子に、残飯を水にさらし天日で乾燥させた後、フライパンで甘辛く炒った霰、カボチャの種子を炒って塩味をつけた、ナッツのようなお菓子、パンの耳を油で揚げ、砂糖をまぶしたものは、今でも結構美味しい。
大抵の家では、自家製の漬物を漬けていたので、これはお茶うけの定番であった。
特殊なお茶菓子に、手の平くらい大きな氷砂糖が一個だけ入った器が置いてある。
明らかに客が食べられない事を想定しての事で、ケチというより根性曲がりなのだろう。
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- 平成16年2月1日(日曜日)
【晴】
午前9時30分、実家に寄り御線香を上げ、義姉の心づくしのコーヒーを御馳走になって、五十部の姉の家を訪ねる。
すぐに退出するつもりであったが、話し相手が欲しかったのか、それから一時間近く、よもやま話に花が咲く。
一旦帰宅してから画室に行き、落札作品の梱包と長女の大学へ送付する書類を作り、昼食もそこそこに午後2時10分に画室を出て郵便局に向かう。
午後2時40分郵便局着。
ゆうゆう窓口には先客が2名いたので、時間ぎりぎりで手続き完了する。
ホッと一息つき外に出ると、朝方吹いていた風も止んで、静かで暖かな午後の日差しが降り注いでいた。
ゆっくりと自転車のペダルを踏んで家に向かう途中に、いくつかの交差点をほとんど青信号で渡れたのにはびっくり。
最近強風にあおられての森林火災や野火が多いと聞く。
先日も足利日赤病院裏の山が燃え、日を置かずに少し北の山にも火がついた。
一部放火の噂もちらほらあるようだが、つい先日の死者が出た住宅火災の出火原因は何だったのだろうか。
とにかく画室もかなり古い家なので、火の始末には特に神経を使わざるを得ない。
気疲れの多かった昨夕からのスケジュールも何とか無事にこなせて、久し振りの陽のある内の帰宅となった。
昨夜発熱のため救急センターに行った母屋の兄の容態、とりあえず心配はないようである。
■アトリエ雑記は平成12年12月15日からスタートしました。
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