アトリエ白美「渡辺肖像画工房」 渡辺晃吉
- 平成16年6月30日(水曜日)
【晴】
風邪や扁桃腺など、直接内臓に起因しない病気の時は、薬を飲んだあとの口直しに、ハッカ飴やニッキ飴をもらった。
ハッカ飴は、飴というよりは砂糖菓子のようで、噛むと直ぐに砕けて溶けてしまうほど柔かなものだった。
色も白や青、薄いピンクなど、少し淡い色調で、形は直角二等辺三角形が多かった。
ニッキ飴は、やや透明なぶつ切りの表面に黄色っぽい粉がまぶしてあり、口に入れると、最初の内は強烈なシナモンの味が舌を刺激する。
その内に段々とシナモンより飴の甘さが勝って来て、最後には味もよく分からない位になる。
昔の風邪薬の中には、とんでもなく苦いのがあったから、大人でも時々飴を口に入れていたようだった。
丸い形の飴は、食用の他に浣腸にも使われていたが、これは口に入れて適当な大きさになったものを使うのだが、腹痛をおこさずに便を出す事が出来たためか、よく子供達に使われた。
今はどうか知らないが、昔はよくひまし油という信じられないほどまずい薬が、大抵の家には常備してあって、これは病気以外にも、仕置きの道具として子供達を震え上がらせた。
人によっては押入れや灸よりも、ひまし油を一番恐れたものだった。
手足の自由を奪われた上に、鼻をつままれてしまえば、どんなに踏ん張っても、いつかは口を開けてしまうのは、どうにも避けられない。
親は開いた口に、すかさずひまし油をひとさじ流し込む。
この時の苦しさといったら、やられた人間でなければ決して分からないだろう。
ひまし油が口に入ったとたん、あの何とも言えない味とにおいが鼻に抜け、その瞬間吐き出そうにも、それまで息を止めていたのだから直ぐにそれが出来ないのだ。
大抵はひまし油でうがいをしたようになって、あの強烈な味を、嫌というほど味わう事になる。
飲み下そうが吐き出そうが、次の瞬間には猛烈な吐き気に襲われて、「ゲーッ」と再び七転八倒の苦しみを味わう。
勿論口直しの飴などあるはずがない。
この仕置きは、汚い言葉を使った時や、あやしげな食べ物を食べた時などにやられた。
血も凍るような恐怖に、気絶寸前まで追い詰められるほどの仕置きを何度も受けながら、昔の子供は全くといって良い位に傷付く事もなかったし、大抵は朝起きて朝食を食えば全部忘れてしまい、また同じ仕置きで泣く事になるのだ。
毎日町内のどこかで、ギャアギャア喚きながら親に許しを請う悪ガキの叫びがこだましていた。
そんな声を耳にしても、仲間の誰もが一片の同情心さえ持つ事は無い。
気持ちが冷たいからではなくて、そんな事は通りすがりの家の屋根の上でスズメが鳴いている程度の、ごく日常的な事だったので、「あ〃、あいつやられてるな。今度は押入れかな、それともお灸かな」位の思いが束の間よぎるだけなのだ。
第一そんな事くらいでつぶれてしまうほど、昔の家族の絆は弱いものでもなかったし、軽いものでもなかった気がする。
とにかく親が子供をしつける姿には、まるで夜叉のような真剣さがあったから、子供は理屈抜きに大切なものを叩き込まれたのかもしれない。
その是非はともかく、人間としての社会的資質の最低限は、何とか身に付けられたと思っている。
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- 平成16年6月29日(火曜日)
【曇時々雨】
よそらんめ(ゆすらうめ)の赤い実が、あちこちの庭先で色付き、ばたんきゅう(はたんきょう)やすももの浮かし漬が、駄菓子屋の店先に四角いガラス瓶に入って並ぶようになると、母は毎日口癖のように「よそらんめを食べては駄目、浮かし漬を買って食べては駄目」と、それはやかましかった。
この季節は子供の食あたりが多くなり、中には死んでしまう事さえあるから、我が子を死なせた経験のある母にとって、今頃は実に気の休まる時のない、嫌な時期だったのだ。
母は子供達が外に出掛ける前に、毒消しになるからという理由で、必ず梅干をひとつ食べさせ、帰宅すると梅のジュースを飲ませた。
梅ジュースも食あたりとかくらん(日射病)を防ぐのだと固く信じていたから、飲まない内は何も食べさせてもらえなかった。
それでも体調を崩してしまうと、今度は「ピストル」という大きなアンプルに入って薬と飲ませるのだった。
ツンと薬臭いけれど少し甘かったので、思ったより飲みやすい液状の薬だったが、あの頃お医者さんがくれる薬といえば、四角い折り紙のような袋に包んだ粉薬か、コルク栓と目盛りのついたガラス瓶に入った水薬がほとんどで、カプセル状の薬は、当時とても貴重だった抗生物質の類で、めったな事ではお目にかかれなかった。
「ピストル」は市販の薬だったが、子供の健康には人一倍神経質だった母は、この薬を何箱か常備していて、子供の容態が少しおかしいとなると、決まって「ピストル」を出して来て、ハート型のアンプル切りを容器の首の所にあてがい、ギリギリと廻したあと、指で首の部分を折るのだが、その時なぜかポキッという音ではなくて、ポンという音が出たものだった。
母はまず中の薬を一回茶碗にあけると、もうひとつ用意した茶碗に移しかえる。
このようにすれば、もしもガラスの欠片が入っていても取り除けるのだそうだ。
具合が悪くなって床につくと、病人の枕元には医者からもらった薬の袋と水薬の瓶、そして水入れと茶碗が乗った盆が置かれ、もしも熱があれば水枕と氷のうが額に当てられた。
氷のうは特別の器具で額の上に吊り下げられ、これをやられると、本当に病気になってしまったんだなと覚悟を決めるのだった。
病気になった子供は、母が客の応待をしながら看病できるように、玄関の直ぐ上の部屋の隣の部屋に移され、部屋を仕切るふすまは開け放って、代りに枕屏風を立てた。
布団の直ぐ脇には、母がいつも座っている長火鉢があるので、ここは何となく落ちついて休める場所だった。
柱時計は一時間毎に時を告げたが、中間の30分のところでも「ボーン」と一回だけ鳴った。
床についているだけで何も出来ない私には、顔を向けると少しだけ見える家の外の様子と天井の木目の模様と、唯一動きのある物である柱時計を眺める事位が、許された数少ない退屈凌ぎだった。
柱時計の長針は、12と6の所に来ると少し手前で動きを止めて、「ジーッ」という音のあとに一気に数字の上に来る事も発見した。
天井の木目模様は、病気の子供には良い友達だった。
小学校時代、私は一ヶ月以上の闘病生活を二度経験した。
その時、子供とはいえ、親がどれほど有難い存在かを知った。
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- 平成16年6月28日(月曜日)
【曇】
買いたくても、ほとんど買う事の出来ない豆腐屋さんが、緑町界隈を徘徊し始めたのは、梅雨の盛りの6月の末あたりだった。
「プー」というラッパの音を聞いてから外に出たのでは、まず絶対に間に合わないほど、その豆腐屋さんは全力で自転車を飛ばして走り去って行くのだ。
だから、どうしても豆腐を買いたい時には、あらかじめ豆腐屋さんの通る時間を予測して、外で待っていなければならない。
それでも、ただ黙って立っていたのでは、その豆腐屋さんは全速で走り過ぎて行ってしまうのだった。
もしも豆腐を買いたかったら、かなり大袈裟な身振りで存在を主張しなければならない。
運良く豆腐が買えると、何だか物凄く得をしたような気分になって、その事を近所の人達に、さも自慢そうに話している場面に何度か出くわしたものだった。
その豆腐屋さんは、20歳少し過ぎた位の年の人で、いつもサドルから腰を上げ、凄い勢いでペダルを踏んでいるのだが、ラッパを口から離している時には、いつも笑いながら自転車に乗っていた。
その兄ちゃんも、町内の何ヶ所かで体を休めていたが、そこは八雲神社の広場と、薬師堂の前と、栄町の稲荷様の境内だった。
休んでいる時の兄ちゃんは、大抵タバコを吸っていた。
私達が近付くと、「オー」と声を掛けて来て、時には売り物の油揚げや生揚げをくれたが、正直なところ、生で食べて美味いものではなかった。
そんな兄ちゃんも、いつの間にか姿が見えなくなった。
しばらくして、兄ちゃんはその当時では珍しい交通事故で死んだという噂が、誰言うとなく伝って来た。
その話を耳にした私達は、なぜか妙に物悲しい気分になって、兄ちゃんが体を休めていた場所に足を向けていた。
そこに佇み、兄ちゃんを思う事でしかなす術を知らなかった。
兄ちゃんは、母一人子一人だったと、あとで知った。
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- 平成16年6月27日(日曜日)
【曇時々雨】
親達の質問は食事が終わったあともしばらく続き、やっと解放され、仲間もそれぞれの家に引き上げて行った頃には、時計は夜の11時を少し過ぎていた。
こんなに遅くまで起きている事なんて、一年の内で大晦日か修学旅行の前の晩くらいのものだ。
私にはそれだけでも、今日という日が、日常から大きく逸脱した日になったのを痛感するに充分だった。
何も考えず気軽に行動した結果、沢山の人達の手を患わせる結果となったのも心苦しかったが、親達に死ぬほど心配をかけてしまった事が何とも悔まれ、胸の内でもう一度詫びた。
次の日の朝の目覚めは、思っていたよりも大変ではなくて、いつもとあまり変わらずに起きる事が出来た。
朝食を終えて家を出ると、宿題を忘れている事に気付いたが、もう後の祭だった。
(あ〃、また廊下に立たされるか、放課後居残りで謄写版印刷の手伝いか)と、少しげんなりして、だらだらと道を歩いていると、「昨日イカダ下りしたんだって」、「スゲーな、あとで話聞かせてくれよ」、「誰なんかと行ったん?」、「けっこう遠くまで行ったらしいな」、「川原で大蛇と闘ったって聞いたけど本当?」
昨夜の今朝だというのに、もう話が広がっているばかりか、中身に尾ヒレが付いて伝わっているようだ。
(まいったな、これじゃあ先生の耳にも入ってるかもしれねえな、どうしよう、学校行かずに逃げちゃうか)などと思ったりしたが、結局いつもの通り登校して教室に入った。
案の定、昨日の事は先生の耳にも届いていて、一時間目の始まる前に、「この教室には、とんでもない大馬鹿者が四人もいる…」という調子で始まった説教が、どう少なく見積もっても10分位続いた。
私と仲間は、その間ずっと下を向いて、先生の説教が頭の上を唸りをあげて飛び去って行くのに耐えるばかりだった。
だから先生が何を言ったのか、よく聞いていなかったので分からないが、多分、物語と現実の区別がつかないのは、頭の中が赤ん坊と同じだからとか、子供の作ったイカダで、渡良瀬川のような大きな川を下れるはずがないとか、それだけの情熱があったら、なんでそれを勉強に向けないのかとか、だいたいそんな事を並べていたような気がする。
思うのだが、先生はなぜ皆同じような説教ばかりするのだろうか。
もしかしたら説教のし方とかいう本でもあるのだろうか。
内心そんな事をぼんやりと考えながら、先生の説教が終るのをじっと待った。
そして最後に、「確かに親に心配かけたり、危ない事をするのは決して良くないけれど、男の子は少しくらい暴れん坊でもいいと思う。でも今回のように度が過ぎたいたずらはダメだよ」と言ってくれた。
その日は暇さえあれば昨日の話をせがまれ続け、私達は四人それぞれに分かれて、休み時間の度に話し続け、話し切れなかったところは、放課後に教室で伝えた。
私達四人は教壇にのぼり、じっと耳をすませている連中に向かって、出来るだけ詳しく語り聞かせた。
気が付くと、先生も廊下に立って話を聞いていた。
こうして私達のトム・ソーヤの冒険は終った。
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- 平成16年6月26日(土曜日)
【雨のち晴】
島流しがどんな罪なのか詳しい事はよく分からなかったが、新水園の映画では、大抵の人が生きて帰れないようだから、きっと牢屋に入れられるよりも、ずっと厳しいという事は想像できた。
私達は怖くて怖くて足がふるえてしまい、もう二度と悪さはするまいと心から思った。
やっと許されると、私達四人は工場の板の間に用意された夕食にありついたが、じゃがいもの味噌汁と冷奴、ナスの漬物とメザシ、そして魚英のおじさんが差し入れてくれた刺身の盛り合わせ、そして玉子と、まるでお祭の時のような御馳走に、皆目を丸くしてかぶりついたが、食事の間も親達の矢継早の質問に答えなければならないのが辛かった。
いつの間にか私達の周りには近所の人達も集って来て、母や何人かの手伝いの人は皆にお茶を入れるのに忙しかった。
私は問われるままに、事の初めから今に至るまでを、出来るだけ詳しく話して聞かせた。
大人達は時々「あ〃、そこは岩井山のとこだ」とか、「野猿田橋の下から先は、深くなるからな」とか「お〃、野田の早瀬まで行き着いたか」とか、それぞれに思い当たる事を口にして、うなづいているのがおかしかった。
「俺達が川を下るのが、どうして分かったの」と聞くと、ある奴が渡良瀬橋の下を行く私達のイカダを、土手の上から見ていたのだそうだ。
そいつは夜になって家の人に昼間見た事を話したものだから、家の人は大慌てて私の家に駆け付けたのだという。
さあ、それからは大騒ぎとなって、近所の人達を頼んだり、知り合いのお巡りさんに通報したり、とにかく皆で捜しに行こうと出発しようとしていたところに、私達が帰って来たのだそうだ。
親達は最悪の事態も覚悟したが、日頃の私達のしぶとさを、骨の髄まで思い知らされている近所の人達は、「大丈夫ですよ、晃ちゃんがいれば、大抵の事は乗り越えて無事でいますよ」と、懸命に励ましてくれたという。
それでも、話が早瀬にもまれてイカダがバラバラになったところにくると、おばさん達は「あれぇ、何て危ない事をするんだろう」とか、「お〃ヤダヤダ、よくも生きて帰って来たものだ」とか、かなり厳しい口調で私達を批難した。
私達は今になって、どれほど心配をかけたかを思い知って、段々小さくなってしまった。
以下次回に
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- 平成16年6月25日(金曜日)
【晴時々雨】
「さあみんな、これからお巡りさんがみんなを縄で縛って牢屋に連れて行くから、こっちに来なさい」
いつも家に来る巡査の石井さんが、ニヤニヤ笑いながらロープを手に持って言った。
石井さんが持っているロープは、工場に備え付けてある内の一本で、太さは直径で3cmもあるやつだった。
きっとあのロープで四人ひとまとめに縛られて、牢屋に連れて行かれるのかと思うと、映画で観た牢獄の恐ろしい場面が頭をよぎったとたん、怖くて怖くてワッと泣き出した。
皆も一斉に大声で泣き喚きながら、「ごめんなさい、ごめんなさい、もうしません」
「お前のもうしませんは聞き飽きたよ」と、冷たい母の声。
他の父ちゃん母ちゃん達も、むしゃぶりついて来る我が子を突き離しながら、「さあ、早くお巡りさんに縛ってもらって牢屋に入れてもらいな。大人になるまで帰って来なくていいよ」
「学校の先生には、お前は牢屋に入るから、明日から学校に行けませんって話しておいたから」
「牢屋に入ってお巡りさんに毎日お尻をひっぱたいてもらいな。お巡りさん、お願いしますよ」
「ハイ分かりました。毎日100回尻をひっぱたきますから」と言いながら、握った拳にハーッと息を吹きかけた。
「ヤダーッ、ヤダーッ、ごめんなさいごめんなさい、もうしません」
私達は死ぬほど怖かったので、ただもう夢中で母親にしがみ付き、何があっても絶対に引き剥がされまいと必死だった。
「だめだよ、いくら泣いても牢屋に入れて下さいって約束しちゃったんだから。早くみんなに行って来ますって挨拶したら、お巡りさんに縛ってもらいな」
「そうだな、もう夜も遅いし、そろそろみんなを縛って牢屋に連れて行かないと、お巡りさんが叱られっちゃうからな。さあ行くか」
石井さんはそう言いながらロープを持って近付いて来た。
「ヤーダーッ、行かない、行かない、言う事聞く、絶対言う事聞く。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「何っ、絶対言う事聞くってか。もう父ちゃん母ちゃんを、こんなに心配させるような悪さはしないってか?」
「しない、しない、しない、絶対しない、絶対言う事聞く」
「そうか、お前達が二度とこんな心配をかけないって言うんなら、お巡りさんは勘弁してやっても良いけどな、お前達の父ちゃんと母ちゃんが何と言うか、それを聞いてみないとな」
「いや、お巡りさん、こいつら今までにも何回もうしませんって言ったか分からねえんですよ。それでも直ぐに忘れてこの騒ぎだ。今度という今度は勘弁出来ねえ。かまわねえからこいつらふんじばって牢屋にたたっこんで下さいよ」
仲間の一人の父ちゃんが、凄い剣幕でお巡りさんに言った。
「そうだそうだ、みんな牢屋に入って死ぬまで出て来るな」と、私の父が言うのに母はこっくりとうなづいて笑った。
「ビャーッ」
皆は一斉に泣き喚き、一人はとうとう泣き入ってしまった。
「まあまあ、みんなもこんなに謝っているんだし、これに懲りて二度と危ない事はしないと思いますから、今夜のところは何とか許してやってくれませんか。コラッお前達、父ちゃん母ちゃんとおじさんおばさんとお巡りさんによくお詫びしないか。おじさんも一緒に謝ってやるから、もう二度としちゃあだめだぞ」
北林のおじさんが言った。
私達は数え切れないほど、何回も何回も謝った。
「本当はとても勘弁出来ないんだけど、ご近所の皆さんがこう言ってくれるから、今度だけは大目に見てやる。その代り今度やったら、牢屋どころか島流しだからな、お巡りさんそうですよね」
「うん、そうだとも」
石井さんは腕組みしてうなづいた。
以下次回に
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- 平成16年6月24日(木曜日)
【晴】
永久に続くのかと思うほどに、いつまでも降り止まなかった雨も、静まって来た風と歩調を合わせるかのように去って行き、夕日とはいえ、目に眩しい位の明るさが戻って来た。
「あのさぁ、この線路両毛線だよな。そんじゃあ何も道歩かなくったって、線路歩いて行けば家の近くに行けるんじゃねえか」
まるで大発見したかのように誰かが言った。
その通り、両毛線は私達の緑町の中を横切っているのだから、線路伝いにどこまでも行けば、一番の近道で家に戻れる事になる。
私達は我先に土手をのぼって線路の上に立ち、遥かに霞む西の方角を見つめると、誰からともなく歩き始めるのだった。
土手の左右は人家も稀で、北は山裾まで、南は地平までが一面の田んぼだった。
ただ前方だけは、人の多勢住む町の気配を私達に送って来る。
いつの間にか見えて来た灯の輝きも、左右に比べ、前方が幾倍も濃密だった。
線路はほとんど直線に走っていたから、前後どちらからの汽車も、かなり遠方の時から気付く事が出来た。
私達は汽車が近付く度に、出来るだけ線路から離れてやり過した。
線路脇の保線用の小路まで降りれば事故にはならないが、うっかりすると蒸気を吹き付けられたり、石炭をまかれたりするのを何度か経験しているからだった。
蒸気は物凄く熱いし、頭からぶちまけられる石炭の痛さは、気が遠くなるほどきつい。
いつの間にか真っ暗になった上に、線路の上の闇はもっと濃い。
それでも私達は一度も休まずに歩き続けた。
やがて踏切が多くなり、それに合わせて人家も増えて、線路もいつか土手の上ではなく、いつも見る高さに変わって来る頃になると、前方には誰の目にもはっきりと、駅があるのが確認できるまでになって来た。
辺りは既に市街地となり、私達は駅の少し手前で線路を降りた。
少し歩いて駅を過ぎると、人の目にふれないように再び線路に戻り、残り少なくなった道を急ぎに急いだ。
やがて辺りは、私達がいつも見慣れている景色となり、5丁目の踏切を過ぎて今泉煙突の黒い影が、暗い夜空になおも暗く立っているのが目に飛び込んで来た。
あの直ぐ下が栄町の踏切。家までは目と鼻の先だ。
足の痛みも空腹も忘れて踏切から道に出ると、私達は誰と相談した訳でもなく、とりあえず全員我が家に寄ってから、めいめい帰宅しようという事になり、薬師堂の裏から我が家の工場に帰ってみると、庭に多勢の人達が集って騒がしかった。
いったい何事だろうと庭に入って行くと、工場の裏の大貫のおばさんが「あれえ、渡辺さん渡辺さん、晃ちゃん達が帰って来ましたよ」と、まるで幽霊でも見たかのように工場の中に駆け込んで行った。
庭にいた人達も「何ぃ、帰って来たか。本当だ、よかった、よかったよ、本当によかった」、「この奴ら、どこまで大人を心配させたら気が済むんだ。全くどうしようもねえガキ共だっ」、「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と、とにかく火事場のような騒ぎとなってしまった。
おおよその察しがついた私達は、恐る恐る工場の中に入って行くと、そこには今日の仲間の父ちゃん母ちゃんが、私の親と一緒にいた。
それだけではなく、私達子供の最大の恐怖の対象、あの制服姿を発見した時、私達は全員牢屋にぶち込まれると思った。
以下次回に
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- 平成16年6月23日(水曜日)
【晴】
めいめい手当たり次第に石を拾ってポケットに突っ込み、恐る恐る草薮に戻ってみると、いるいる、橋のふもと辺りまでの10mほどを、黒いヒモを無造作にばらまいたように、横たわっている姿は、本当に気味の悪いものだった。
こっちに向かって来たら直ぐに逃げ出せる用意をして、いちにのさんで一斉に石を投げた。
最初はピクリとも動かなかった蛇達は、身の危険を感じたのか動き出すとあっという間に薮の中に逃げて行った。
「それっ」とばかりに物凄い勢いで路を駆け抜け、その勢いで小さな橋も瞬時に渡り切ると、そのまま土手の上に駆け上がった時には、文字通り九死に一生を得たという感じで、その直後に何とも言えない達成感に襲われ、ただ肩を抱き合ってお互いの勇気と健闘を讃えた。
土手下は直ぐから人家があり、土手沿いにも家が並んでいるようだったが、私達は大事をとって土手下の集落に入って道を聞く事にした。
幸いにも降りた直ぐに店があったので訪ねると、ここは奥戸という部落で足利だという。
緑町まで帰るのにはどの道を行けば良いか聞くと、「ありゃっ、緑町まで帰るのけ、そりゃ大変だ。そんじゃあ川崎を抜けて、いかるぎの大杉を目指して行くといいよ。いかるぎの大杉の前に出たら、何でもいいから北に行くと汽車道にぶつかるから、そしたら道から離れないようにずっとどこまでもとにかく停車場まで行きやっせえよ。そこまで行けば何とかなるだんべよ」
もう外はだいぶ薄暗くなっていた。
焦る気を静めて礼を言い、店をあとにしようとしたが、ふと思い立って店のおばさんに蛇の事を聞いてみた。
「あ〃黒蛇だんべ。ありゃおとなしくて何も悪さはしねえよ。それよりあいつらは畑のネズミやイモ虫食ってくれっから、いじめちゃだめなんだかんね。まさかみんないじめなかっただんべ」
本当は石を投げつけたなどと言えなかったので、「ハイ」と言葉少なに返事をすると、私達は逃げるように店をあとにした。
川崎は奥戸を出ると直ぐの部落だった。
そこから西は、どこまでも開いていて、少し遠いが大きな杉の木が、田んぼの中の灯台のように黒々とした姿で立っていた。
風が少し強くなり、辺りがひんやりとして闇が急に深くなって来た。
「来るぞ」と思ったとたん、北の空に帯のようなイナズマが走り、辺りが真っ白になった直後、「ガリーン」と物凄い雷鳴。
周りは田んぼで少し先に神社の森が見えたが、そこも大杉も、まるで避雷針の下に立つようなもので、かなり危険な事くらいの知識はあった。
私達はためらう事なく道を北に鉄道線路に向かってひた走りに走った。
鉄道は土手の上を走っていたから、どこかに必ず隧道があるはずと見当をつけてやっと辿り着いてみると、あった。
隧道と呼ぶにはあまりに貧弱で、まるで土手に出来た割れ目のようなものだったが、それでも無いよりはどれほどましなのか分からない。
私達はそこに転がり込むと、身を寄せ合って降りに備えたとたん、それを待っていたかのようにどしゃ降りの雨となった。
辺りは灰色の闇となり、休みなしに走るイナズマが闇を白く引き裂き、雷鳴は山を崩すかと思えるほど轟き続けた。
雨は上からも横からも降りかかって、私達は瞬く間に全身ずぶ濡れになってしまった。
もう気力も体力も限界に近かったので、私達は迷い犬の群れのような心境の中で、ただ黙って目を閉じて、耐える以外に道が無かった。
以下次回に
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- 平成16年6月22日(火曜日)
【晴】
旗川の橋を渡ったら、そのまま本街道をどこまでも行けば、必ず足利の中心地に行き着けたのに、一刻も早く家に帰りたい一心で、川沿の土手道を来たのが間違いだったのか、辺りは見渡す限り人家も、ましてや人の気配さえもなかった。
多分、さっき通った寺の前で川を渡ったのがいけなかったのかもしれない。
かといって今更来た道を引き返す気にもなれず、ぼんやりと時を過ごしている内に、陽はかなり西に傾いて来た。
南に目をやると、遥か地平まで田が広がっているし、東は逆方向だから問題外だ。
行く道は西か北しかなかったから、私達は西に進む事にしてまた歩き出した。
とにかく森の方向に行けば、必ず人家がある事を何となく知っていたので、なかば本能のように森を目指した。
約一時間ほど歩くと森に辿り着いたので中に踏み込むと、果してそこは小さな集落だった。
集落の北には土手がやや南西の方向に続いていた。
私達は休まずに土手にとりつき、辺りの地形を観察した。
すると仲間の一人が西を指して、「おい、あれは太田の金山だろう」と叫んだ。
太田の金山は、私達の遊び場の公園や渡良瀬の川原から、いつも見えている慣れ親しんだ風景だったから、いつもよりずっと小さく見えていても、決して見誤る事はなかった。
あれが金山なら、少なくとも方向を間違わずに帰る事が出来る。
皆ホッとしたと同時に、もりもりと勇気がわいて来た。
しばらくは土手沿いに進み、対岸に渡れる場所を探そうと話がまとまり、さっきとは大違いの勢いで歩き出した。
しかし、土手は少しづつ南へと方向を変えて行く。
このまま行くと足利から離れてしまいそうで、また少し不安になって来た頃、前方の土手下に小さな木橋が架っているのが目に入った。
「よし、これを渡って向こう岸に行こう」と皆張り切って土手を下り、地元の人が踏み固めたと思われる小路を見付けると、優に背丈の二倍を越える深い草薮の中に入って行った。
路に入って間もなくだったろう、先頭を行く仲間が急に立ち止り、必死で前を指差している。
指を差す方向を見ると、路には黒っぽい色の蛇が何匹も横たわっていた。
私達は誰からともなく「ワーッ」と叫びながら土手の上に逃げ戻った。
今まで全く気にしないで歩いて来た土手道にも、もしかしてあんな奴がウヨウヨいるような気がして、皆足元が気になって仕方がなかった。
「どうしようか」、「どうしよう」
陽はさっきよりずっと傾いて来て、辺りはそろそろ夕方の佇まいだし、さっきから北の空が妙に暗いのだ。
この辺は知らないが、家の方では北が暗くなると夕立が来ると昔から言い伝えられていたし、実際にその通りだった。
勇気をふるってこのまま橋を渡るか、大事をとって元来た道を引き返すか、そのどちらかを早速に選ばなければならない。
「みんなで石いっぱい持って行ってさ、遠くから投げつけてさ、蛇が逃げたすきにさ、走って橋を渡ろうか」
仲間の一人が声をふるわせて泣きそうになりながら言った。
皆はそいつの勇気を心の中で褒め、その意見に賛成した。
以下次回に
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- 平成16年6月21日(月曜日)
【曇時々雨、南の風】
畑があれば近くに人家があるに違いないと、皆少し元気が出て来て、雑木林の中の道を行くと、しっくい塀に囲まれた大きな屋敷の前に出た。
そこは集落の外れで、道の佇まいは人の気配を充分に含んでいた。
道の両側の家は、ほとんど生垣をめぐらせているのに加えて、大抵は深い屋敷林を背にしているためか、落ちる影がとても濃密で、吹き抜ける風も涼しかった。
辻の角に万屋があったので、ラムネを買って一休みした。
カラカラに渇いた喉に冷えたラムネは美味かった。
ラムネは一本5円だったから、小遣いも持って来なかった奴の分も、何とか買う事が出来た。
ここはどこかと店のおばさんに聞くと、羽田村という答が返って来た。
私達には覚えのない地名だったので、足利への道を聞くと、ここから足利までを子供の足で行くのは、とても大変だから、街道まで出て足利行のバスに乗れと教えてくれた。
しかも、この店から街道まで出るのにも一時間近くかかるという。
私達は店のおばさんに礼を言って表に出ると、足利の方向にトボトボと歩いて行った。
バスに乗りたくても、バス代がなかったから、あとはもう歩いて行くしかないのだ。
集落を抜けると、目の前は遥か先まで水田が続いていて、所々にぶどう畑が島のように浮かんでいた。
次の集落は、水田の海の向こうに、ゆらゆらと霞んで見えているのが、私達の気力を萎えさせたが、とにかく先に進まなければ家に帰れないから、じりじりと照りつける太陽にあぶられながら、ばさばさと埃の舞う道を歩いた。
ぶどう畑や一里塚が影を作っている所に来ると、必ず影の中に入って体を冷やし、また前にと歩く事を、どれほど繰り返したろうか。
ようやく次の集落に辿り着くと、そこは佐野と足利の境で免鳥という部落だった。
市境の旗川に架る橋を渡ると寺岡という所で、そこはもう足利の東の外れだった。
足利に戻ったというだけで、さっきまであんなに心細かったのがウソのように元気になり、歩く足も少し速くなったのだが、空元気もそう長くは続かなかった。
行けども行けども辺りは見知らぬ土地で、本当にここが足利なのかと疑いたくなるほど不安が増すのだった。
足は棒のように疲れ、喉は渇くし腹も減っている。
歩いては休み、歩いては休み、段々と歩くより休む方が長くなってきて、それでも周囲の景色は見知らぬ所ばかりだった。
本当は誰もが心の中で思っているのだけれど、それを口にするのが怖いので黙っているが、考えは皆同じだった。
(道に迷ったかな?)、全員の目がそう語っていた。
以下次回に
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- 平成16年6月20日(日曜日)
【晴時々曇】
この時を予測していた訳ではなかったが、テント代りに持って来た2枚のベニヤ板を盾にして、地元の悪ガキ集団の投石攻撃を何とか切り抜け、川幅が更に広くなったのを幸いに、必死でイカダを流れの中央に移動した時には、全員が精も根も尽き果ててしまった。
しばらくの間流れにまかせて、ゆっくりとした速度で下って行くと、遥か前方に鉄橋が見えた。
用意の地図によれば、あの鉄橋は国鉄葛生線の架橋だから、私達は間もなく足利を抜けて、佐野と館林の境に到達する事になる。
私達は思わず「ウォーッ」と歓声をあげて、この快挙を讃え合った。
今まで両岸のほとんどを占めていた川幅が、少し先から急に狭くなって、急角度で左岸寄りに流れを変えている場所にさしかかると、イカダの速度が目に見えて速くなって行った。
見ると、流れが変わるあたりから先の水面が白く波立っている。
早瀬が始まり、それが長く続いているようだった。
大急ぎで2本のカイを竿に持ち替えて急流に備えると、イカダはまるで滝から落ちて行くかの勢いで、白波のわき立つ早瀬に突っ込んで行った。
ずっと昔に、百石船が江戸から利根川を経て渡良瀬に入り、足利まで上って来ていた頃には、こんな早瀬があるはずはないのだから、きっと長い年月の間には、流れも少しづつ変って行くのだろう。
今までとは比べものにならない速さで瀬を下るイカダの上で、竿を操る事など全くの絵空事で、私達は何も出来ずに近くの手がかりにつかまって、甲板にへばり付いているのが精一杯だった。
その内に「ガツン、ガツン」と底が川底の石に当り始め、イカダはその毎に右に左にと振り回された。
そして早瀬の半ばまで来たあたりで、とうとうバラバラになってしまった。
水深が浅かった事が転覆の原因になったと同時に、それが私達の生命を救ったのだと思う。
何とか各々が自分の荷物だけは確保して、急流に何度も足をとられながら、やっとの思いで岸に辿り着いたものの、しばらくは全員無言でその場にへたり込んだままだった。
「やばかったな」、「やばかった」、「腹減ったな」、「腹減った」
持って来た弁当を出してみたら、弁当箱に入れたものは何とか食えたが、おにぎりは駄目だったので、弁当箱を皆で分けて食べた。
水っぽかったが何とか食えたので、皆は少し元気になった。
川原に乾かしてあった服を身に付けて、とにかく人家のある所に出ようという事になり、左岸の森に向かって歩き出した。
少し行くと、目の前には5mほどの低い崖が立ちはだかっていて、それより前には進めなかった。
よじ登ろうにも、砂地の上にオーバーハングになっていて登れない。
仕方なしに崖沿いを上流に進んで、上にあがれる道を探す事にした。
やがて、崖の上から折れた枝を川原に落している木があったので、皆それにつかまって上に登ると、そこは雑木林に囲まれた畑だった。
以下次回に
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- 平成16年6月19日(土曜日)
【晴】
マーク・トゥエインの「トム・ソーヤの冒険」が、ワンプラー劇場で上映されたのは、小学校4年の6月だった。
一足先に映画を観た奴らが、口を揃えて絶賛するものだから、そのあとに続々と映画館に押しかけ、毎日の話題でトム・ソーヤが出ない日は無いほどの熱中ぶりになった。
これを地で行かずにおくものかと、それぞれが気の合った仲間にまとまって、ハックルベリー・フィンの小屋作りや、秘密基地作りに精を出した。
私達も他の奴らに負けてなるものかと、一際大きな小屋を作ったが、それだけではどうにも物足らなかった。
まさか家出は出来ないから、せめてミシシッピー下りならぬ渡良瀬下りをやろうという事になり、めいめいが材料を持ちより、一週間かけてイカダを作った。
幅が2m、長さが4mで、真ん中に3mほどの帆柱が立っている。
材料のほとんどは太い孟宗竹だが、あの頃はどういう訳か竹のような材料は、ごく身近に豊富にあったものだった。
帆柱は針金4本をトラ網にしてイカダに固定した。
イカダを操る竿を2本と、角材の一方に長方形の板をクギ付けにしたオールを4本用意して、他の物と一緒にイカダに乗せた。
イカダは緑橋の下の人目につかない場所で作り、大人、それも親達にばれないように細心の注意をはらったので、決行の日の日曜日になっても、事が発覚しなかった。
早朝に私と仲間の4人は、苦労してイカダを川に浮かばせ、いよいよ冒険の旅に乗り出した。
緑橋の下あたりから、流れは早瀬になっているので、旅はその出だしから波乱含みだった。
それでも渡良瀬橋や中橋、そして岩井山の南端を無事に通過して、野猿田の橋の下をゆっくりと下る頃には、水深も竿では少し無理になるほど深くなって、全員がオールを持っての川旅となった。
もうこのあたりまで来ると、両岸の風景は全く見慣れないものになって来ていた。
川幅も少しづつ広くなって、流れの中央を行くのが何とも心細く、いつの間にか岸に近い所にイカダを持って行き、ホッとする間もなく、川に浮かぶイカダを見付けた悪ガキ共が、手に手に石を持っては投げつけて来る。
慌ててイカダを中央に戻すと、今度は下流に先回りして、川幅の狭い場所や、渡しの桟橋から攻撃して来るのだった。
(こんちくしょうめ)と思うのだが、考えれば人の事は言えない。
これが逆の立場だったら、私達も間違いなく相手を攻撃していたろう。
以下次回に
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- 平成16年6月18日(金曜日)
【晴】
公園裏の崖の途中にあるエゴノキの実が、長い柄の先に青く実る頃になると、崖下のドードを堰き止めて、かい掘りをよくやった。
結構広い川幅の上と下を堰き止めるには、5人や10人ではとても無理だった。
少なくとも30人位の人数が、朝10時から始めて、堰が出来る頃には昼近くになってしまう。
休む間もなく前もって採って来たエゴの実を石の上で砕き、その汁を水に流すと、小魚が面白いように浮いて来る。
それを手に持った玉網ですくい上げ、岸に作った小さな池に移す。
そのあとが大変で、手の空いた全員がバケツや桶を手にして堰の中の水をかい出していくのだ。
何10人という人間がいくらかい出しても、最初の内は全く変化が見られず、これでは永久に汲み出せないのではと思ってしまう。
それでも一時間近く汲み出していると、目に見えて中の水が減っていくのが分かるようになって来る。
汗と水しぶきでずぶ濡れになりながら、苦しい作業を続けていくと、やがて大きな魚の背ビレが水面を切るほどに水がなくなり、半分はかい出し、半分は魚採りに分かれての、最後の奮戦が開始されるのだ。
誰だって水をかい出すよりは魚採りの方がいいに決っているから、仕事は不満のないように時々交代する。
その采配もガキ大将の大切な役割なのだ。
水がなくなるにつれて、採れる魚は鯉や鮒からウナギ、ナマズなどに変わって来る。
小魚は別にして、結構大きなやつが100匹近く採れるから、獲物の分け前でケンカになる事はめったにない。
鯉は鯉こくか洗いに、鮒は甘露煮か洗い、ナマズは天ぷら、ウナギは商売人の元に持って行って焼いてもらうか金に替える。
雑魚はかきあげにするのだが、これが一番美味い。
年に数回の楽しみだが、心の底から喜びが湧き上がる実感は、おそらく経験した者だけが知る、得がたい宝物のようなものだ。
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- 平成16年6月17日(木曜日)
【晴】
小学校四年になると、本人の希望でクラブ活動が許された。
私は運動部に入りたかったのだが、学校代表のコーラス部員であったために、入部が許されなかった。
学芸部なら入って良いというので、どういう訳か「文芸部」に入部した。
多分私の意志というよりも、担任にうまく乗せられたとしか考えようがなかったが、入ってみると意外に楽しく、週に一度の会合が楽しみだった。
「文芸部」の活動は、主に詩集の作成と校内文集の編集と作成だった。
校内文集は各学期毎に発行するので、作品募集や選別などの仕事が、ほとんど休みなく続いて、その合間に学校対抗の「詩集」コンクールの準備もあり、何の事はない、学芸部で一番忙しい部に入れさせられてしまったのだ。
かといって、合唱の練習を休む事は許されず、子供とはなぜこれほど忙しいのだろうと、心底思った。
それでも、文を読む事が性に合っているのか、各学年から集まって来る作文や詩に目を通していると、時の経つのを忘れるほど熱中してしまうのだった。
文芸部員となると、大抵はクラスの新聞委員をやらされる場合が多く、私もその例に漏れず、五組の新聞委員と校内新聞委員を兼務した。
新聞委員の先輩には秀才が多くて、最初は何ともとっつきづらくて困ったが、皆とても優しかったので、運動部のようなしごきが無いだけ、居心地は良かった。
ただ同じ町内の先輩のお姉さんが、二人もいたのにはさすがに閉口した。
一人は町内の子供会の会長だったから、何とも頭が上がらず、おまけに私の姉とクラスが同じなので、私の事は良いにつけ悪いにつけ、家に筒抜けになってしまう。
もう一人は友達の姉ちゃんで、家がすぐ近くにあった。
これではまるで監視役に睨まれながら仕事をするようなもので、気疲れする事はなはだ多しであった。
だが、そんな緊張も一ヶ月もすればどこかに吹っ飛んでしまい、それなりに役目を果せるようになった。
ある日の放課後、隣の柳原小の文芸部との交流会が、私のいる西小学校で開かれた。
その時に出会った部員の中に、中学で再会し親友となった友がいた。
その友は37歳の若さで他界した。
肝臓ガンだった。
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- 平成16年6月16日(水曜日)
【晴】
カーキ色の大きな布製カバンを重そうに肩にかけて、七味唐辛子売りのオジさんが月に一度ほどやって来る。
カバンの蓋を開けると、中には茶筒のような入れ物が十本ほど二列に並んでいて、それぞれの中に七味唐辛子の具が入っている。
オジさんは注文に応じて、大辛、中辛、普などに調合するのだ。
片手に調合用の筒を持ち、片手に持ったスプーンで茶筒の中身を少しづつ取って、それを調合用の筒に入れたあと、スプーンと筒の両方を動かして中身を混ぜ合わせるのだ。
調合が終ると、赤唐辛子が交叉している図柄と、元祖◯◯唐辛子と印刷してある白い紙袋に流し入れる。
さあーっという音と一緒に、あたりには唐辛子独特の香りが立ち込めて、オジさんの手際の見事さに花を添える。
気配に気付いた近所の人達もチラホラとやって来て、自分の家に見合った辛さと量を注文する。
間を計ったようにお茶が出て、玄関の上がりかまちに人が集り、賑やかに世間話が飛び交う中を、オジさんの手は相づちを忘れずに休みなく動いて、次々と出される注文をさばいていく。
一通り商いが終り、心づくしのお茶もそこそこに席を立つオジさんの背中に、「おかせぎなさい」と皆からの声が掛る。
オジさんは深々と頭を下げて「ありがとうございます」と丁寧にお礼を言う。
私はいつものようにオジさんを工場へと案内する。
工場に着くと、手の空いた人達から順々に注文し、オジさんはここでも手際良くこなしていく。
その内に工場の近くの人達が、母屋の時と同じように、オジさんの気配を察して集って来るのだ。
オジさんが受け取るお金は、だいたい30円から100円位だったろうか。
用意してある袋の大きさも三種類ほどで、大抵は一番小さい袋で間に合う注文だった。
それでもオジさんはいつも、「おかげさまでいい商売が出来ました」と心から喜んでいた。
オジさんはずっと以前に父のもとで染色の仕事をしていたと聞く。
それがどうして七味唐辛子売りになったのか、詳しい事は分からないが、やはり戦争が大きな原因となったようだ。
オジさんの大腿部には貫通銃創があって、その古傷が痛むのだそうだ。
オジさんの七味唐辛子売りは、私が小学校5年生位まで続いたが、その後はパッタリと姿を見せなくなった。
新天地を求めてブラジルに移民したと風の便りに聞いた。
- 平成16年6月15日(火曜日)
【晴】
夏が近付くと、母屋では部屋を区切る障子やふすまが取り外されて、代りに涼しげな花などが描かれたすだれが垂れる。
南北の開口部は開きっぱなしになり、強い雨風などの時を除いて、夜も閉まる事がない。
寝る時には「カヤ」が吊られて、皆その中で床につく。
いつも開け放ってある家の中は、蚊取線香なしではいられない。
夕方近くになると、家の何ヶ所かでブタの置物から立つ煙がゆったりと流れて、夏の香りを運んで来る。
午後7時を過ぎると、外は少し薄暗くなって、夕食を終えた近所の人や、我が家を訪れるのが習慣となっている人達が、一人また一人と顔を出して来る。
そんな人達をもてなすのは、冷たくひえたスイカと、豆、枝ごと釜で煮た枝豆、塩をふったキュウリやトマトだった。
夏の夜の闇は深い。
軒のすぐ先からは、もう帳の中にある。
外に自転車の止まる気配や、庭の前の道から玄関に向かう人の気配が、その姿よりも先に立つ。
「こんばんは」、「おばんです」、「おばんでござい」
人によってまちまちの挨拶と共に、いつもの人達が闇の中から湧き上がるように我が家の明かりの中にと入って来る。
その人達のほとんどは貰い風呂の常連さんだ。
我が家の風呂の焚き口は玄関(幅4尺、長さ15尺、東角は約4.5畳の土間)の東の端にあり、すぐ脇は背戸になっていた。
焚き口には必ず誰かが座っていて火の番をしていた。
火の番の人も、玄関に面した座敷にいる人達との会話に参加しながら時をすごす。
外にもれる明かりに誘われてか、通りすがりの知り合いもよくやって来る。
そんな人達の交す話を子守歌にして、私の一日の幕が閉じる。
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- 平成16年6月14日(月曜日)
【晴】
どこで見付けて来たのか知らないが、江泉が細いガラス管を手にして、さっきから考え事をしている。
多分三年校舎から渡り廊下伝いに行く、二教室だけの離れ校舎で、通称「開かずの教室」あたりに忍び込んで持って来たに違いない。
そこは資料室と物置を兼ねているので、まるで宝の山のような所だが、とにかく薄気味悪い場所なので、ほとんどの子供は近付かなかった。
悪ガキ共は、これ幸いとばかりに、先生の目を盗んでは忍び込んで遊んでいた。
「よう、これって吹き矢になるよな」
「だめだ、そんな細くて短くっちゃ矢が飛ばねえよ」とおっちゃんがまぜっかえす。
「だめかなあ、何とか使えねえかな」と、江泉は諦める様子もなく、また黙って考えていた。
その内に昼休みも終り、皆教室に帰って午後の授業が始まった。
江泉は背が高くて体が大きかったから、席は一番うしろで、列は一週間毎にずれていくので、今週は廊下側だった。
私は隣の列で、やはり一番うしろ。
江泉の様子がいつもとは何か違って妙に静かで、おまけに何かごそごそとやっている。
どうも気になって時々様子を見ていると、江泉はチリ紙をちぎって口に入れ、それをクチャクチャ噛みはじめた。
(あいつまた何をはじめたんだ)と思っていると、江泉は噛んだチリ紙を手の平で丸めだした。
(汚ねえ野郎だな。あいつ何やらかそうってんだ)
江泉は私と目線が合うと、さも得意そうに丸めた紙をガラスの管に鉛筆の先で突っ込み、それを口にくわえると、先生の目を盗んで窓に向けて思い切り吹いた。
つばきで濡れて重くなっているせいか、紙の玉は物凄い速さで窓の外に飛んで消えていった。
江泉は無言で(どんなもんだい)とばかりに拳を握って、顔の前で構えた。
私もニヤッと笑って江泉の快挙をたたえた。
それから江泉は、先生に気付かれないように何回も吹き矢で紙の玉を飛ばしていたが、とうとう狙いがそれて人に当ってしまった。
しかも相手はクラスのアイドルの丸山フミちゃんで、当った所がほっぺたの口元辺りだったからたまらない。
何しろ当った時には、「ピチャーン」という大きな音がした位だったから、相当に痛かったろうけれど、それよりも江泉のつばきでグシャグシャになった紙の玉を、口の近くに当てられたという事の方が、フミちゃんには死ぬほどのショックだったろう。
さすがに教室中が大騒ぎとなり、担任の川島先生は江泉を廊下に立たせた。
しかし江泉は廊下に立っている事なんか屁ほども感じない奴だった。
フミちゃんがやられた事で、どうにも許せなかった私と仲間は、放課後に泣いて許しを請う江泉を「むぐし刑」に処した。
江泉は最後には泣く事も出来ないほどぐったりとなり、今にも死にそうになったので、やっと許してやる事にした。
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- 平成16年6月13日(日曜日)
【晴】
女物の着物を着て前掛けをかけ、裾を少し上げて白い脚半に白足袋、そしてわらじ履き。
顔は真っ白の厚化粧で頭から手拭いを垂らし、その上にわらで出来た輪を乗せて、更にその上にタライが乗っている。
タライの直径は50cm位で、周りには風車がずらっと刺さってクルクル廻っている。
その人は手に持った太鼓を打って調子を取りながら、道をジグザクと歩いたり、くるりと廻ったりして人の目を引く。
「飴やあ水飴、飴屋でござい」
女形の飴売りで日本舞踊の名手のおじさんの名前は何と言ったか、どうしても思い出せない。
客に呼び止められると、「ハーイありがとうござい」と頭からタライをおろし、割箸の一本を二つに折って、水飴の入れ物に突っ込むと、クルクルと廻しながら、かなりの量を巻き取って客に渡す。
風車は飴のオマケだ。
一人二人と客がつくと、あとは次々にやって来るので、一度タライを頭からおろすと、だいたい半分位は売れてしまうようだ。
風車がなくなると、おじさんは商売を止めて在庫を預けてある家に戻るのだ。
我が家はよくおじさんの荷物の置き場所になった。
「あら、もうさばけたの。これじゃあごはんを食べている間もないね」
母の言葉に「ハイおかげさんでね。緑町は一番の稼ぎ場所ですよ」と答えながら、水飴と風車を補充すると、間もなく商売に出て行く。
「お昼にはうどんを茹でておくから、手が空いたらお寄んなさいね」と母がおじさんの背に声を掛ける。
おじさんは声の代りに、立ち止って膝を折って答えた。
やはりこの人は男女なのだと、私は心密かに思った。
あの頃は、ゲイのことを男女(おとこおんな)と呼んでいたが、その言葉の中には、何となく差別的な響きがあるのは、子供にも分かるほどだった。
それでも、その事でおじさんをさげすんだり馬鹿にしたりする人達は、この辺ではひとりもいなかったし、むしろ土地の名物としての立場を、暗黙の内に認めていたようであった。
「トントントントコトン、トントコトントコトントコトン」
初夏の陽に照り映えて廻る風車と、真っ白な顔に真っ赤な口、歯のない口はモゴモゴと、いつもおちょぼ口だった。
妙に派手な着物姿が、柳田鉄工の白いしっくい壁と、頭上高く茂る公園の緑に浮き立って、キラキラと舞い戯れながら近付いて来る姿は、子供の目にも耽美で倒錯の危い魅力に満ちていた。
もしかしたら、飴売りのおじさんも、今は消え果てた吟遊詩人の一人だったのかもしれない。
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- 平成16年6月12日(土曜日)
【晴のち曇】
早食いのよっさんに何とか勝ちたいと思い、よっさんが弁当を食べる時に合わせて、私も一緒に飯を食ったが、何度やってもまるで歯が立たなかった。
よっさんの弁当箱は、どかべんの中でも一番大きいやつで、大袈裟に言うと、重箱を手に持っているほどの迫力があった。
その中に箸が折れるかと思う位に飯が詰っていて、上にはたくあんと塩びきが乗っているだけで、今のように彩りのあるような、しゃれたものではない。
勿論食事の場所には、漬物や煮物、時には天ぷらなどの揚物が山のように用意されている他に、季節にはふかしたじゃがいもやさつまいもも並んでいる。
だから飯のおかずや弁当では少し足りない腹も、結構満足いくだけは口に出来るし、お茶はいつでも好きなだけ飲めるのだ。
よっさんも自分の弁当だけでなく、目の前にあるおかずには全て手をつけたし、時にはじゃがいもに塩をつけながら、飯と一緒に二つや三つをペロリと平らげた。
よっさんが箸を使いはじめると、弁当箱の中の飯は目に見えるほどの勢いで消えていき、その量に合わせて処理される塩びきの減り具合といったら、まるで芸術作品を制作しているかのように見事なものだった。
よっさんが弁当を食べている間は、もしかしたら息をしていないのかなと思い、ある時聞いてみると、「バカいうな、息しなけりゃ死んじゃうじゃねえかよ」と笑っていた。
俗に「早飯早糞芸の内」というが、よっさんは正にその典型のような人だったと思う。
それでいて決してガツガツとしている訳でもなく、むしろ所作は私などよりもずっと静かで、ほとんど音を発てないで食べるのだ。
じっと見ていると、噛むという動作が極端に少ないためか、まるでコマ落しの画面のような不思議な感じであった。
よっさんは酒が全く飲めなかったので、えびす講や初午の時に、仕事のあと皆をもてなす酒席では、もっぱら一人黙々と箸を動かしていた。
口数も少なく、穏やかで働き者だった。
戦争で何度も死線を越えて生き永らえたものの、その時に味わった苦難の中で、飢えが一番苦しかったという。
だからよっさんの大食いは、半分は義務だったのかもしれない。
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- 平成16年6月11日(金曜日)
【曇のち雨】
季節はずれの寒気が、早朝の空気を乳色に染めて、外は一面靄の中にあった。
今は午前4時少し過ぎた頃だろうか、辺りはまだ寝静まる気配に沈んでいる。
玄関のガラス戸を開けて庭に出ると、直ぐ近くにあるはずの柳田鉄工所のしっくい塀さえ見えない。
まといつく白を掻き分けるようにして表通りに出てみると、ちょうど交代の時間なのか、夜勤明けの人達と早出の人達が通りいっぱいに行き交いながら、互いに声を掛け合っている。
濃い靄の中から、突然わいたように姿を表しては、また直ぐに靄の中に消えていく姿を、露地の入口に立って眺めている内に、いつの間にか隣に人の気配。
見ると糸井のオチ坊が、口をモグモグさせながら横にいた。
「何食ってるんだ?」
「イカ」
「くれ」
「うん」
それからしばらくの間、私とオチ坊はイカを食いながら、目の前を行き過ぎる人達をぼんやりと眺めていた。
靄が少し薄くなった頃に、牛乳配達の佐川が、自転車の荷台に乗せた箱をガチャガチャさせながらやって来た。
「オース」
「オース」
「家に帰る時、これ持って行ってくれ」
私は佐川が渡した牛乳ビンを受け取り、「わかった。気をつけてな」と送り出した。
佐川と私は、小学校2年までは同じ組だったが、その後は別々になってしまった。
それでも会えばやはり懐かしい奴だったし、何よりもその勤勉な姿には一目置かざるを得なかった。
靄もほとんど薄れた頃、いつもの納豆屋さんの、聞き慣れた売り声が耳に飛び込んでくる。
そろそろ家に帰らないと、もう朝食の食卓が用意されているだろう。
オチ坊と別れて家に戻り、姉達や弟と食事を摂る。
床の間のラジオから、いつものラジオ体操のメロディーが流れて来ると、その音は「早く学校に行け、早く学校に行け」と聞えるから不思議だ。
まだ食事が終わらないのに、「コーオちゃん」と、いつもの奴らが迎えに来た。
慌ててランドセルを持って外に出て、庭にたむろしている仲間に合流して学校に向かう。
表通りに出ると、さっきとは違って登校の子供達が道に溢れていた。
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- 平成16年6月10日(木曜日)
【曇】
古本屋の「夢の屋」は、通3丁目の大通りにあって、古書販売の他に貸本も置いていた。
表から見る古めかしい外観以上に、店の中は古めかしかった。
店の間口は三間ほどだったろうか。
真中一間のショーウインドーの左右一間づつが、ガラス戸のはまった入口で、向かって左の方から店の中に入ると、左側二間ほどの書架に貸本がぎっしりと並んでいる。
入口近くの一間が子供向けで、奥は主に大人向けだった。
突き当たりには格子のはまった台が、奥の座敷に続いていて、店内を見下ろすようにして、鼻眼鏡をした夢の屋のおじさんが格子越しに目を光らせている。
書架は店の奥に二間半、右側に二間半、コンクリートの土間に置かれた平台の上にも、おびただしい古書が並んでいたが、そのほとんどは18歳未満購読禁止の類で、色褪せた表示の絵柄からも、妙に艶めいた雰囲気がうかがえた。
学校から帰ると、前の晩に読み切れなかったところを急いで読んでから、その本を母が作ってくれた絹の袋に入れて自転車のハンドルに引っ掛けると、「夢の屋」へと走って行くのが日課だった。
自転車の前のどろよけの上には富士山を横に引き伸ばしたようなエンブレムが付いていて、まるふじ号と印刷されていた。
当時の私の愛車であった。
夢の屋に着くと早速台の上にいるおじさんに格子の穴から本を差し入れて返すと、おじさんは指をなめなめ帳面を広げて何かを書き入れるのだった。
一日遅れると5円の割増金を取られるから、こっちも真剣である。
貸本の代金は一冊10円、大人向けの中には15円や20円もあった。
あの頃の一日の小遣いは10円だったから、割増金を払うと、その日は新しい本を借りる事が出来なくなるのだ。
その日の本を急いでみつくろっておじさんのところに持って行くと、おじさんは帳面に必要事項を記入して本を渡してくれる。
ついでに店内をひやかすのには、それほど文句も言わないのだが、土間の平台にある、例のいかがわしいエロ本類や、大人用の文学全集などに近付くと、とたんに小言が飛んで来るから、おじさんが食事で交代する機会を待って、手早く盗み見る位がやっとだった。
おじさんは気難しくてうるさかったが、おばさんは明るくて優しかったし、子供が少しくらいエロ本に触っても、それほど文句は言わなかったからだ。
店の中は昼も夜も、真ん中に下がった裸電球が燈っていた。
北向きなので昼間でも暗かったし、置いてあるのが古本で、おまけに書架も柱もセピア色だったから、ただでさえ大きな魅力で、文字通り本に囲まれているという充足感と、何ともいえない安心感が味わえた。
鼻眼鏡の上から上目使いにじっとこっちを睨んでいるおじさんの存在さえ、ここには欠かせないのだ。
新しく借りた本を手提げ袋に入れて、急いで家に戻ると、その夜の内に出来るだけ読み進めるための、至福の時が待っている。
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- 平成16年6月9日(水曜日)
【雨】
青年団小屋の裏にある大きなビワの木の実が、まだ青さを残しているので、採るのはもう少しあとにして八雲神社の梅林まで行ってみると、かねてから目をつけている紅梅の実が、見事に色付いてたわわに実っていた。
まわりの梅に比べると、その大きさは二倍ほどにもなっているだろうか。
私はしめたとばかりに周囲の様子をうかがって、人の気配がないのを確めると、素早く赤く熟した実を採ってはポケットにねじ込んでいった。
全部のポケットがいっぱいになり、いざ逃げようかという矢先に、どこで見ていたのか神社の息子のヒロキちゃんが、口をへの字に曲げ腕組してやって来た。
ヒロキちゃんは平気なのだが、神主の桜木先生はとても恐い。
もしも捕まるとヒロキちゃんは、絶対に私を先生の所に連れて行くのは確実だったから、境内を囲む塀を乗り越えて公園に逃げた。
家への近道は多分張り込まれているだろうから、私はとりあえず水道山の西斜面の途中までおりて隠れた。
ヒロキちゃんが応援を頼むとすれば、まず神社下の糸井君と堀越君、そして金井君、石井君あたりだろう。
三人までだったら叩き潰して突破口を開く自信はあったが、相手が五人以上になると、皆自分より三つも年上の連中だったから、少し無理と考えて、今日は逃げの一手で行く事にした。
神社前と蓮台館の坂下、福厳寺山門、日紡のガード前は、まずあいつらの事だから見張りを置くだろうから、北の7丁目切通しに抜けるルートを選んで脱出しようと思い、斜面をのぼって水道山々頂に戻り、尾根を下って今福へおりる長い石段の上まで来ると、どう考えても追手としか思えない一団が、何食わぬ顔で東からこっちにやって来る。
私は迷わずに立入禁止の水道施設の中に飛び込み、遮へい物で身を隠しながら「西洋館」まで移動した。
「西洋館」は、ずっと昔に昭和天皇が足利を視察した折に休憩した建物で、市の記念物となっていた。
「西洋館」前の石段を降りようとした時に、チラッと誰かが身を隠すのが目の隅に入った。
こんな所まで手が廻ったとすれば、7丁目方面は既に固められているとふんだ私は、一瞬考えた末に「西洋館」の裏の崖にとりついて、再び水道山に逃げる事にした。
ここから先は、人跡未踏のような場所だから、まず追手はかからない。
案の定、誰にも追われる事なく水道山に戻れたが、ここから先はどっちに逃げたらいいか迷いに迷ってしまった。
何しろ相手はえらく頭の良い連中だから、なまじの考えではまず先を読まれてしまうからだ。
こうなったら絶対に捕まるものかと腹をくくって、ひとまず西斜面を少し下ってから、南に巻いて今福の石段の脇まで移動した。
石段近くの薮に身を隠して辺りを偵察すると、果して石段の上の物影に数人が隠れて様子をうかがっている。
これでは石段を横切って向こうの森に飛び込む事も、石段をかけ降りる事も出来ない。
仕方なく石段に沿って、薮の中を公園下の集落まで降りて行った。
辺りに気を配りながら露地づたいに水源地前の踏切まで来ると、身をさらす前にもう一度辺りをうかがった。
さすがにこの辺りには張っている奴はいないようだったが、万一踏切を渡るところを上から見付かるとまずいので、線路沿いを少し西に移動してから横断した。
もし見られたとしても、双眼鏡でも持っていない限り、公園の上からは私の姿は豆粒ほどにしか見えないはずだ。
念の為に水源地を横切り、渡良瀬川の土手を越えて河原におりると、大事をとって土手のすぐ下を緑橋まで下ってから、更に念を入れて栄町まで迂回すると、露地から露地を気を配りながら進んで、とうとう無事に我が家まで辿り着いた。
私はポケットの梅をほうり出し、リアカーを引っ張り出すと、大人も優に入れるほど大きい人絹箱をその上に乗せた。
大急ぎでその辺にいた奴らを呼び集め、訳を知っていきり立つのをおさえてリアカーを引かせた。
私は人絹箱の中に身をひそめてリアカーを動かす奴らに進路を指示しながら移動する。
まず神社前には、やはり主力が陣取って辺りを警戒していた。
逆さ川に沿ってリアカーを引かせてみると、いたいた、青年団前の坂に二人、そこを過ぎて福厳寺入口に三人、そして山門前に二人。
事のついでに7丁目の交番前の坂まで出て、水道山の方へのぼって行くと、この坂唯一の枝道がある所に、三人ばかりが目を光らせていた。
私はヒロキちゃんの動員力にも感心したが、何よりも適所をきっちりと押さえた作戦の見事さには驚いた。
しかし、いかに年上とはいっても、この手の事では私の方が一枚も二枚も上手なのは、自他共に認めるところで、その差はアマとプロほどもあった。
これ以上ウロウロしていると、誰かに気付かれてしまうのは火を見るより明らかなので、切りのよいところでリアカーを大宮タバコ屋の前まで移動させた。
そこから神社前までは50mほどだろうか。
私はリアカーからわざと目立つようにおりると、さものんびりとした様子で道の真ん中に歩いていった。
わずかの間を置いて相手は私に気付くと、おっとり刀でこっちに走って来た。
そんな者に捕まる訳はなく、私は笑い転げる仲間を置いて、脱兎の如く我が家へと逃げ戻った。
勿論、家のすぐ前の道に、出来るだけ沢山の犬のクソを並べておくのを忘れなかったし、追手の何人かが、その地雷の犠牲になる様子もきちんと確認した。
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- 平成16年6月8日(火曜日)
【晴のち曇夕方雨】
板橋良則君のお父さんは、日紡足利工場の課長として今福の社宅に住んでいたが、我が家からは公園をはさんで近かったので、いつも学校の行き帰りが一緒だった。
今福の子供は本来三重小学校に通うはずなのに、なぜ西小学校に来るのかはよく分からなかった。
いつものように学校から帰り、カバンを置いて板橋君の家に遊びに行くつもりでいたが、私を待っていた板橋君が、近くにいた我が家の犬で、シェパードのゴールの頭を撫でようとした瞬間、右腕を噛まれてしまった。
ゴールの歯は、板橋君の腕の肉を貫通してしまい、あまりの事に失神寸前の板橋君は、その場に棒立ちしたままだった。
居合わせた両親は、板橋君を抱えて近くの人見医院に走り、とにかく緊急手術をしてもらうと同時に、板橋君の家に使いを走らせた。
板橋君のケガは傷口を幾針も縫うほどの重症だったが、幸い神経に異常がなかったので、時間は掛るけれど、元通りに治ると聞き、皆ホッとした。
板橋君を家に連れ帰って間もなく、お母さんが駆け付けて来た。
私の母は必死に謝罪し、板橋君のお母さんはしきりに恐縮していた。
しばらく我が家で休んでいた板橋君が、お母さんと一緒に家に帰ると、父はゴールをきつく叱った。
いつもはおとなしいゴールが、その日に限ってなぜ人を噛んだのか、私はどうにも不思議でならなかったが、その日以来、ゴールの口には皮製の口輪がはめられ、いくら友達を噛んだとはいえ、私は口輪をはめられてしょんぼりしているゴールが、可哀想で仕方がなかった。
板橋君はしばらくの間腕を白い布で首から吊っていたが、一日も学校を休まなかった。
腕を噛まれたあとも、それ以前と変わらずに一緒に通学し、私も板橋君の家によく遊びに行った。
板橋君には、まだ赤ん坊の弟が一人いて、いつもお母さんの背中にオンブされていたが、私が行くと、なぜかとても喜ぶので、よく遊んであげた。
板橋君のお母さんは、そんな私を「えらいえらい」とほめるのだが、板橋君は、それがあまり面白くなかったようだ。
お父さんは、私と板橋君を時々社内の浴場に連れて行ったが、そこはまるで町の銭湯のようだった。
多勢の女工さんが生活する木造の寮は、まるで学校の校舎のように大きくて広かった。
日紡は少し前まで大和紡績(ヤマホー)と呼ばれていて、時を告げるサイレンの音は、公園を越えて緑町まで聞えて来たので、地元の人達には時計代わりだった。
子供達はそれをヤマホーのポーと呼んだ。
板橋君、そして由木君、これを読んだら私に一報して下さい。
私はいつも君達の事を忘れていませんよ。
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- 平成16年6月7日(月曜日)
【雨】
近所には同じあだ名の仲間が二人いて、一人は「ボク」で一人は「ボクちゃん」と呼んで区別していた。
「ボク」は医者の一人息子だったが、将来を考えたのか、ある時養女を貰う事になり、その子の遊び相手にと、私の直ぐ上の姉が名指しで頼まれ、よく出掛けて行くようになった。
相手の女の子は見るから物静かな感じで、同じような姉には相応しい遊び相手だった。
その子が時々我が家に遊びに来ると、私はなぜか外に出て行って、なるべく顔を合わせないようにしていた。
家の中で女なんかと遊んでいると思われたら最後、どんな悪評が立つか分かったものではなかったからだ。
その点、隣の京子ちゃんとなら、ママごとしていようが、ゴムとびしていようが誰も何とも言わなかったから安心だった。
誰も京子ちゃんを女と思っている奴なんか一人もいなかったからだ。
いつだったか、京子ちゃんが柱時計のゼンマイを見付けて来た事があった。
京子ちゃんはその場にいた連中に、さも自慢そうにそれを見せたあと、その辺に置きっぱなして遊んでいる最中に、荒木の馬鹿息子が盗んで逃げて行った事があった。
荒木の馬鹿は、自分の家の近くまで逃げて行けば安心と思ったのか、裏の空き地でうろうろしている所を、探しに行った京子ちゃんに見付かってしまい、泡をくらって土足で自分の家に駆け込んだ。
その時、手に持ったゼンマイを素早く家の中に投げ入れたところは、さすがに姑息を持ってならした嫌われ者だけあって見事だった。
家の中に駆け込んで安心したのか、荒木の馬鹿は京子ちゃんに舌を出して勝ちを誇ったが、次の瞬間、京子ちゃんは土足のまま荒木の家にかけあがり、びっくりしてポカンと口を空けている荒木の横っつらを思いっきりぶっとばすと、部屋の隅に投げ込まれてあったゼンマイを手に取り、あまりの事にビービー泣き喚いている荒木の馬鹿を、まるでドブネズミでも見るように、チラッと見下して、スタスタと表に出て来た。
それから間もなく、ラッキョウを逆さにぶら下げた荒木の親父が、頭から湯気を立てて京子ちゃんの家に怒鳴り込んで来た。
家中を転がり回って泣き喚いているところに帰り合わせ、どうしたのかと問いただすと、自分の大事にしているオモチャを、京子ちゃんが家に押し入って無理矢理持って行ったのだと訴えたのだそうだ。
親父はとんでもない奴だとばかりに、前後の見境もなく押し込んで来たのだ。
京子ちゃんの家にはおばさんしかいなかったので、話を聞いて驚いたおばさんは、直ぐに京子ちゃんに事情を聞いたところ、そんな事はしていないと弁明したのだが、頭に血がのぼっている親父には通用しない。
私達は皆で親父の所に行くと「オジさん荒木の…、荒木君の言ってる事はウソだよ。荒木君が京子ちゃんのゼンマイを盗んで逃げたから、京子ちゃんが追っかけて行って取り戻しただけだよ」と、本当の事情を説明した。
親父はしばらくの間しどろもどろしていたが「本当か、皆してウソを言ってるんじゃないだろうな。ウソを言っても直ぐに分かるんだぞ」とすごんで来た。
「ウソじゃないよ。それだったら荒木君をここに呼んでよ。ここにいるみんなが見ていた事だから、荒木君が何と言うか聞けばいいんだよ」
親父は何も言わずに、体を斜めに傾けて帰って行った。
私達はこれからが楽しみとばかりに、そっと荒木の家まで忍んで行くと、やはり荒木の馬鹿が、カンカンに怒った親父にぶちのめされているのが、ぎゃあぎゃあ泣き喚く声と、訳の分からない親父の怒鳴り声と、きゃあきゃあ叫んでいる荒木の母ちゃんの声で、表に伝わって来た。
運の悪い事は重なるもので、翌朝学校に行く途中、家を出る荒木とバッタリ鉢合わせした。
「ヤイッ、ドロボーのウソつき野郎」と、みんなの罵声。
荒木の馬鹿はワーッと泣き喚きながら家に駆け戻って行った。
その事が皆の記憶から消えて、いつものように荒木の馬鹿が仲間に戻って来るまでには、優に一週間もの期間が必要だった。
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- 平成16年6月6日(日曜日)
【曇時々雨】
ぶらぶらと家に帰る道で、向こうからやって来る政明ちゃんに出会った。
「うなぎの置き針仕掛けに行くけど来るか」
「うん行く」と二つ返事でついて行った。
途中で土橋の下に降りてウタウタ(ドバミミズ)を30匹ほどつかまえてエサ箱に入れた。
ウタウタは長さが30cm位に伸びるが、普段は15cmか20cmほどで、ゴミ箱の下の土の中など、どこにでもいた。
少し薄暗くなりはじめた川原に着くと、木の板に巻いた置針の糸をほどきながら、1m間隔で結び付けてある針糸の先に、さっき取ったウタウタを付けた。
エサを着け終った糸の両端に、長さ30cm位の細長い石を縛り付けると、政明ちゃんは片方の石を持って川の中に入って行った。
「なるべく岸に近い所で、しっかり持ってろよ」
「うん」
私も靴を脱いで膝あたりまで水に入り、手に持った石をしっかり抱きしめて用意した。
「いいか、行くぞ」
「いいよ」
政明ちゃんは手に持った石を、向こう岸に向かって思い切り投げると、石は糸の長さいっぱいの距離まで飛んで行った。
政明ちゃんは私の所まで戻って来ると、「ちょっと待っててな」と岸に置いてある浮きを持って来て、私が抱えている石の縛り目のあたりに取り付けた。
浮きは5m位のヒモの先についているから、明日はこれを目印に針を上げればいいのだ。
「あしたは学校に行く前に上げに来るけど、起きられるか?」
「起きられるよ、絶対起きられるから置いてかないで」
「んじゃあ6時に家に来いや」
「うん」
二人が家に着く頃には、辺りはもう夜の闇に包まれていた。
政明ちゃんの家は、我が家の染色工場のすぐ隣だったから、明日の朝、もし私を置いてけぼりにしようとしても、気配で何となく分かるのだ。
今までに何度かそんな目に会っているから、明日は絶対に逃がさない決心で床についた。
翌朝5時に起きると、両親の止めるのも聞かずに家を飛び出して、政明ちゃんの家に行くと、政明ちゃんは顔を洗っているところだった。
「ずいぶん早えじゃねえかよ、大丈夫置いてきゃあしねえよ」
政明ちゃんは笑いながら言った。
「でも前は置いてっちゃったからね」と、私はその時の事を思い出して、少ししゃくにさわりながら減らず口を聞いた。
「まだ6時前だけど少し早めに行ってみるか」
「うん」
私は早く置針が上がる様子が見たくて、足をばたつかせながら言った。
川に着いてみると、浮きのおかげで置針の場所はすぐに分かった。
政明ちゃんは置針の糸が結んである石を岸まで持って来ると、静かにゆっくりと手元にたぐりよせはじめた。
「ん…、来てるぞ」
政明ちゃんは得物の手応えを感じたらしい。
静かにたぐりよせる糸の先に、何か長くて細長いものの影。
「うなぎだ、でけえぞ」
太さ5cmで長さは50cm近いだろうか、そのあとも大小10匹ほどのうなぎが、その朝上がった。
私達は意気揚々と引き上げて来て、既に起き出した近所の人達に見せびらかした。
あんな得意な気分になれる時などめったにない。
私も中くらいの奴を2匹貰った。
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- 平成16年6月5日(土曜日)
【晴】
スルメを一切れと玉網、そしてバケツを持ってエビガニ(ザリガニ)を採りに三重村まで行くと話すと、何人かの仲間が大急ぎで道具を取りに家に駆け戻って行った。
エビガニは近くの逆さ川にもいるにはいるが、三重村の田を流れる小川には、川底が埋まるほどの数がひしめいているので、釣り糸をたらすと面白いほどよく釣れるのだ。
いつもの場所に着くと、早速道具を用意して糸をたらした。
道具はいたって簡単なもので、長さ50cmほどの棒の先に、長さ150cmほどのタコ糸を結び付け、一片の先にスルメの一切れを縛り付けただけ。
これを水の中に静かに入れて、エビガニの前にたらすと、エビガニは美味そうなエサが来たとばかりに、あのでかいハサミでガッチリとはさむのだ。
それを見て静かに竿を上げると、エビガニはせっかくのエサを逃がしてなるものかと、エサにぶら下がったまま水から上って来る。
のんびりしているとハサミをはなしてしまうので、素早く玉網ですくってバケツに入れる。
ほとんど入れ食いなので、バケツはエビガニでいっぱいになり、上の方の奴は口から逃げ出してしまうほどだ。
その辺で切り上げて家に戻ると、エビガニの尻尾だけを外し、皮と青筋を取り除いて天ぷらにするのだ。
味は普通のエビと全く同じでとても美味かった。
塩ゆでも美味いとは聞いたが、一度も食べた事はない。
エサのスルメがない時には、カエルの足の皮を剥いたのをエサにして釣ったが、それにはカエルを殺さなければならないので、あまり気乗りがしない。
ガマガエルは嫌いだったが、それ以外のカエルは大抵子供の友達だったし、特に殿様ガエルや牛ガエルは大好きだったが、エサの問題で飼うのが難しいので、捕まえても少し遊んですぐに放してやった。
それでも一度だけカジカガエルを飼った事があった。
毎日毎日ガラス製のハエ取り器でエサ用のハエを取ってケースに入れてやったが、結局は飼い切れずに元の沢に戻してやった。
牛ガエルを貰った時、我が家のメス猫のミーが、捨て猫のチビを育てている最中だった。
ミーは自分と同じほど大きい牛ガエルの入った箱の所に、チビを連れて行った。
チビは箱の中の牛ガエルの気配に興奮して、箱の上に乗ったり前足で引っ掻いたりしていたが、私がいたずらに牛ガエルを箱から出してやると、物凄い勢いでミーのうしろに隠れたのには笑ってしまった。
牛ガエルはチビより二倍以上大きかったし、ドカッと座っている様子は、結構貫禄があるのだ。
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- 平成16年6月4日(金曜日)
【晴】
「父ちゃんの所に行くんだけど、一緒に行ってくれねえか」
Kが家に来て泣きそうな顔で言った。
夜はもう夕闇の中に沈んで、これから公園をぬけて今福に行くのは、子供一人の手にあまる。
私は親の許可を待たずに外に出て、黙ってKをうながし、公園の暗闇に続く坂をのぼって行った。
Kの父ちゃんは、公園裏の一画に、Kの母ちゃんとは別の女の人と一緒に暮していて、日に一度Kが家族の生活費を貰いに訪ねて行く事は、誰一人知らぬ者はなかった。
Kは父ちゃんの家に着くまで一言も話をしようとはせず、私もKに語りかけなかった。
語りかけようにも、言葉が見付からないのだ。
父ちゃんの家に着くと、Kは黙って玄関の戸を開けて中に入った。
「お〃来たか。暗いのに大変だったな。皆元気か。病気してないか」
子供にも父ちゃんがKに気を使っているのがよく分かった。
「ウン」
Kは言葉少なに答えると、父ちゃんの顔も見ずに封筒に入った金を受け取ると、黙って家をあとにした。
「体に気を付けてな。しっかり勉強してな」
父ちゃんの声を背に受けても、Kは決してうしろを振り向かなかった。
ほとんど無言のまま公園を越えて緑町に戻ると、私は我が家の前を通り過ぎて、栄町のKの家の前までついて行った。
なぜだか分からないが、そうしなければいけないと思った。
薬師堂脇の道からKの長屋までは、ほとんど外燈がないので、足元は真っ暗であったが、いつも通い慣れているので、つまずく事もなく辿り着いたが、帰り道はひとりぼっちのために急ぎ足となり、とうとう転んでしまった。
したたかに顔面を打って泣きながら立ちあがると、生温かいものが鼻から流れ出て来た。
(あ〃鼻血が出ちゃった)と直ぐに悟り、あとはこの始末をどう親に隠すかを必死に考え、家に帰る前に途中にある共同水道に寄って、何回も顔を洗った。
もう大丈夫と思って家に帰ると、私を目にした母は大声を上げて驚いた。
よく見ると服の前が、流れ出た鼻血で真っ赤に染まっていた。
私は張り詰めた気力の糸がプツンと切れて、大泣きをしながら一部始終を母に告げた。
母は黙って私の服を脱がせると、優しく鼻の手当てをしてくれたあと、一人だけの夕食を用意してくれた。
KとKの家の事は、私より母の方がよく知っているのだった。
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- 平成16年6月3日(木曜日)
【晴】
大岩から通いで来ている職人のMさんが病気になって、もう三日も仕事を休んでいた。
医療費や当座の用にと、何がしかの金額を入れた封筒に見舞いの品を添えて包んだ風呂敷を腰に巻いて、五月雨の降る中を使いに出た。
広い街道は危ないから旧道を行くようにと念を押されていたので、家の前の道を西にとり、公園に入って水道山の下を7丁目の切通しに向かって下り坂を降り、切通しの手前にある古い方の狭い切通しを抜けて、公園山の北斜面の裾を巻いている露地のような街道を、右側に並ぶ家の低い軒をよけるようにして下り、旧水戸街道に出た。
旧街道の両脇には、古い町屋が両毛線をまたぐ陸橋まで続いているので、人の通りも少しはあったから、気楽に歩く事が出来た。
陸橋の手前で水戸街道を横切り、大岩から南下する枝尾根の西の裾に沿って流れる蓮台寺川の左岸を北にとると、水っ様(水天宮)の入口の鳥居が右手に見えてくる。
雨でなければ、鳥居の直ぐうしろから本殿へと続く急な石段をのぼって、大小の金精様が所狭しと並んでいる中の様子でも覗くのだが、今はそんな余裕はなかったので、まだ半分も来ていない道程を急いだ。
そろそろ咲き出した紫陽花が、家々から街道にはみ出しているので、その前を通る度に立ち止ってカタツムリを探したけれど、そんな時に限ってなかなか見付からない。
東坂を過ぎる頃には、家を出る時に着せてもらった雨合羽や、手に持つ傘もあまり役に立たないほどに濡れてしまった。
道を北に進むにつれて、谷は次第に幅を狭くして、一方の尾根すじまで一面に続く田には水が入り、蓑笠を付けた人の姿が、チラホラと馬や牛を追っていた。
街道はやがて直角に曲って、西の山裾に沿う一方の街道へと繋がる。
ここまで来ると、道は明らかに坂となって北にのぼって行くのが、足腰だけでなく目にもそれと分かるほどになってくる。
参道の入口に杉の巨木の立つ神社を過ぎてから、山に向かって西にのぼる脇道に入ってしばらく行くと、何軒かの藁葺の家が、深い林の中に埋もれるように建っていた。
その内の一軒がMさんの家で、声を掛けるとMさんのおかみさんが前掛けで手をふきながら、土間の奥の暗がりから出て来た。
私は母に教えられた口上を伝えて、持って来た風呂敷を渡すと、引き止めるのも聞かずにMさんの家をあとにした。
せっかくここまで来たのだから、大岩の毘沙門天まで登ってみたかったのだ。
Mさんの家からは、毘沙門天に続く男坂の入口は直ぐだった。
誰一人通らない急な山道を約一時間ほど登ると、うっそうと茂る杉の森の中に、毘沙門堂と鐘楼が見え隠れしている所まで辿り着いた。
ホッと一息入れて振り返ると、眼下は雨に消されて大海となり、幾すじもの枝尾根が、まるで半島のように雲海の中にせり出している。
私は眼前に広がる無心の絶景に、ただ息をのんで立ち尽くした。
大晦日の夜、毘沙門天への参道ですれ違う人達は、誰構わずに「馬鹿野郎」と罵り合うのが古くからの慣わしで、地元ではそれを「馬鹿野郎祭」とか「悪たれ祭」とか呼び、日本三大奇祭のひとつに数えられているのだと聞く。
雨が梢に当る音と、枝から滴る滴の音の他には、吹き過ぎる風の音が耳に入るだけの静けさの中に、時が漂うように流れて行く。
心に湧きあがる感動を表す術を知らない私は、ただ「ウォーッ」と叫びながら走り回るだけであった。
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- 平成16年6月2日(水曜日)
【晴】
山菜採りの得意な年上の仲間に連れられて、たらっぺを採りに山に入ったのは、この季節で三度目だった。
通7丁目の切通しの脇から観音堂に続く石段をのぼり、堂裏の斜面をつめて尾根に出ると、尾根道伝いに北に進みながら、両端の木を良く見てたらっぺを探すのだ。
道から直ぐ手を伸ばせば採れる事もあるが、大抵は少し下ってから木に取り付かなければならないので、いつも二人一組で移動しながら、時々他の連中の所在を合図で確認して、迷子や事故にならないようにした。
尾根はやがて東に曲り、天狗山の山頂に出て両崖山に続く。
眼下には西宮の狭い谷が横たわり、西小学校が意外に近くにあった。
両崖山から尾根を南にとり、今まで歩いて来た尾根を右手に見ながら、織姫山までの道の両端のたらっぺを採って行く。
朝7時頃から12時頃までには、全員の背のザマの中はたらっぺでいっぱいになる。
この位の山歩きでは、わざわざ弁当を持って来なくても、昼少し過ぎには家に帰れるから、皆足ごしらえ以外は身軽であった。
織姫神社の境内で、全員のザマの中のものを開け、ケンカにならないように均等に分けると、中身をまたザマに戻して帰路につく。
逆川沿いに西小学校の前に出て、7丁目の四つ角を渡って緑町に入り、それぞれの家に向かうのだ。
私はたらっぺよりも、セリやよめ菜の方が好きだったから、どうせ今日の夕食はたらっぺの天ぷらになると思い、少しおひたしにしてくれと炊事の人に頼んだ。
「あれっ、たらの芽はおひたしよりも天ぷらが一番美味しいんだよ」
「うん、でも少しでいいから茹でたのにお醤油かけたの食べたい」
「わかった、それじゃあ作っておくからね」
たらっぺの天ぷらは大きすぎて食べづらかったし、天ぷらにすると、何だか味が皆同じようになってしまって、どれがどれだか区別がつかなくなってしまう。
今でこそたらの芽は山菜の王様などと言われているのだが、あの頃は山の尾根すじや川原の林などに行けば、直ぐに採れるほどどこにでもあった。
根がホクホクとして美味しかった山百合など、いくら採っても採り切れないほど咲いていたが、今ではその姿をめったに見掛けなくなったようだ。
夕食になると、たらの芽のほとんどは天ぷらになって、食卓の中央に山と盛られていた。
炊事の人が気を利かせたのか、その夜の食事はご飯に加えて手打ちうどんも用意され、私の食欲をそそった。
私は我が家の手打ちうどんが大好きだった。
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- 平成16年6月1日(火曜日)
【晴】
武一っあんの家は、栄町の稲荷様の西の道から入った露地の奥にあった。
母のもみ療治を頼みに武一っあんの家に行く時、親は必ず「いいかい武一っあんと呼ばずに、Y先生と呼ぶんだよ。そうでないと来てくれないからね」と諭すのだった。
私はその度に何か変だなと思った。
なぜかといえば、周りの大人達は武一っあんの事を、武一あんまとか武一とか呼び捨てにしていたからだ。
それでも夜道を辿り武一っあんの家に行くと、「こんばんは、緑町の渡辺ですけどY先生はいますか。都合が良かったら来て下さい」と恐る恐る告げる。
「ハイハイ、本当はこの時間は、お断りするんだけんど、特別に行ってあげますよ。お母さんにそう言っておいて」とさも偉そうに答えるのだった。
私は笑いを噛み殺しながら家に戻り、「武一っあん来てくれるって」と母に告げた。
「そう、機嫌良かったでしょう」
「うん。でもなぜ先生と呼ばないとだめなの?」
「それはね、武一っあんにも五分の魂があるからだよ」と訳の分からない答が返って来た。
しばらく経つと、外の闇の中に人の気配がたち、武一っあんがやって来た。
「ハイこんばんは、他の家ならお断りするんですけんどね、こちらさんだから特別に来てあげましたよ」と、さっきのセリフを繰り返した。
「本当に申し訳ありませんねえ、先生にわざわざ来て頂いて、助かりますよ」と、母は応待していたが、その鼻がヒクヒクと動いているのが私にもよく見えた。
母はおかしいのを必死にこらえているのだ。
武一っあんは益々調子に乗って、療治が済んだあとに、「奥さん、誠にすみやせんがね、テレホンを貸して頂けますかね」と来ると、その場にいた者全員が、とうとうこらえ切れずにドッと笑い転げてしまった。
武一っあんは自分が笑われたのに気が付くと、すごい剣幕で帰って行き、その後二度と我が家に足を運ぶ事はなかった。
肩こりのひどかった母は、三日にあげすにあんま、指圧の世話になっていたので、武一っあんに代って家に通って来るようになったのが、小林のおばさんだった。
小林のおばさんは、ある冬の夜、家の前の道を笛を吹きながら流しているところを呼び込んだのがきっかけで、以来ずっと通って来るようになったのだが、腕はむしろ武一っあんより数段上だったという。
「ピーピョーピー、ピーピョーピー」
あの頃の夜の闇は、今とは比べ物にならないほど深く重く、闇ゆえの色と音と香りに溢れていた。
■アトリエ雑記は平成12年12月15日からスタートしました。
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